コップが割れた
千葉朝陽
1 自分が抜けていく
コップが割れた。
残業を終えて帰宅した。
ただ、麦茶が飲みたかった。
コップに手を伸ばしたとき、指がわずかに滑った。
手から抜ける感触だけが残り、次の瞬間、床に鈍い音が響いた。
ガラスはひとつの塊のように砕け、大きな破片と細かな欠片となって散っていった。
氷が転がり、茶色い水がゆっくりと床を染めていく。
小さな破片は水に沈み、光に紛れて見えなくなっていた。
ただ、立ち尽くしていた。
そして、しゃがみ込む。
大きな破片と氷を先に拾い、キッチンペーパーで水を拭き取った。
粘着テープを伸ばして、目に見えない破片を、ひとつひとつ集めていく。
きょうはもう十分にがんばったのに。
麦茶が飲みたかっただけなのに。
それがもう、こんなにも悲しい。
お気に入りのコップだった。
唇に触れる縁のやわらかさ。手に馴染む重さ。持ち手の絶妙な角度。
それは、自分の暮らしの「感覚」の一部だった。
ひとつ、またひとつ。
破片を拾うたび、その感触が、記憶ごと指先から抜けていくようだった。
---
翌朝、会社でノベルティのコップが配られていた。
べつに欲しかったわけじゃない。
でも、なんとなく受け取った。
とりあえず、使うことにした。
その次の日、ティッシュが切れた。
買いに行かなきゃと思った矢先、駅前でポケットティッシュをもらった。
とりあえず、使うことにした。
そういうことが、続いた。
ペンが壊れたときも。
タオルが汚れたときも。
なにかが欠けるたび、タイミングを測ったように、代わりのものがやってきた。
それは便利で、都合がよくて、虚しかった。
思い入れのあるものが失われても、すぐに別のものが現れて、喪失が埋められていく。
だから、悲しむ間も、惜しむ間もない。
喪失が、ただの「交換」になっていく日々。
そして、いつのまにか、自分の輪郭までが擦り減っていく。
---
ある日、彼のアパートが火事に遭った。
夕暮れ。コンビニの袋を片手に路地を曲がると、空に黒い煙が上がっていた。
焦げた匂いが鼻の奥に焼きつき、サイレンが遠ざかったり近づいたりしていた。
ざわめきが街の音に溶けて、風に揺れていた。
彼の部屋は、黒く煤けた壁の一部になっていた。
洋服も、食器も、写真も、ベッドも、靴も。
生活のかたちをしていたものたちは、灰になって風に舞っていた。
それでも、不思議と涙は出なかった。
ただ、立っていた。
風が吹くたび、自分の中から何かが少しずつ抜けていくのを感じながら。
---
翌日、親戚から連絡があった。
「田舎にね、古い家があって。誰も住んでないんだけど……
もしよかったら、住んでくれないかな? 」
0円の家。
駅は遠く、バスも日に数本しかない。
けれど、庭が広くて、畑もできるという。
窓ガラスは割れ、草は腰の高さまで伸びていた。
彼はしばらく考えて、その話を受けた。
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仕事はプログラマだった。
初めてコードを書いた日のことを、彼はよく覚えていた。
無数の文字列が、世界とつながる窓になったあの日の感覚。
それは、自分で選んだ、大切な仕事だった。
事情を会社に話すと、幸運にもフルリモートの部署に異動できた。
ネットさえあれば生きていける――
その言葉を、信じてみようと思った。不安を半分、抱えたまま。
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引っ越して最初の数日は、掃除に追われた。
閉め切られていた家には、湿気と黴と埃が染みついていた。
押し入れの奥には朽ちた本と虫の死骸。
廊下を歩けば、床が軋んで、自分の存在を確かめるような音がした。
台所の蛇口をひねると、赤茶けた水が飛び出した。
その水で床を拭き、壁を磨き、窓を洗った。
ひとつ、またひとつ。
汚れの下から、家の素顔があらわれてくる。
拭いたあとに残るのは、ほこりではなく、自分の匂いだった。
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持ち物は、なにもなかった。
でも、怖くなかった。
なにもないということは、なにかを選び直せるということだった。
「与えられたもので済ませる」暮らしをやめて、「自分で選ぶ」生活を始めよう。
それが、これからの目印になると思った。
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最初に作るものを決めた。
棚。
コップを置く、小さな棚。
まだ、肝心のコップはない。
けれど、それでいいと思った。
工具の使い方を調べ、数十キロ離れたホームセンターまで出かけた。
木材を選び、測り、切って、ねじを打ち込む。
釘は斜めに刺さり、板は少し歪んだ。
表面にはささくれがあり、角には小さな傷ができた。
でも、どの傷にも、彼の手の跡が残っていた。
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棚ができた。
小さく、不格好だけれど、たしかにそこに「立って」いた。
朝日が差す窓辺に、それをそっと置く。
その上には、まだ何もない。けれど、そこに光が満ちていた。
コップは、これから探す。
焦らずに、ひとつずつ、選んでいけばいい。
自分の暮らしを、自分の手で、また始めていけばいい。
コップが割れた 千葉朝陽 @a_chiba
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