第2話-1 真実

「涼介、どうだった?」

 玄関ドアを開けると、飼い主の帰りを待ちわびる犬のように、正座をして待っていたのは丈琉たけるだった。


「あのね、まずは〝おかえり〟でしょ?」

「ああ、それそれ。おかえり~。ってか、小春だって〝ただいま〟でしょ?」

「そうだよね、ただいま。どうって、やっぱりぜーんぶ、忘れちゃってる」

「そっか……うーん……」

 立ち上がって腕組みをして、丈琉が何やら考えはじめた。

「うーん……」

 考えごとの最中に、うーんという人をはじめて見た。丈琉は息を止めているのか、顔が真っ赤だ。

「うーん…………」

「どうしたの、丈琉?」

「う――――――ん…………あっ! きっとそれ絶対、涼介じゃないよ!」

「なんて?」


「涼介だけど、涼介じゃない……うーん……頭痛い! 痛いよー」

 丈琉が頭を抱えて足をばたつかせる。


「ごめんごめん。お姉ちゃんが難しいこと、考えさせちゃったね」

 私は丈琉の手を引いて、リビングへつれていった。ソファーにすわらせる。

「ねえ、こんどぼくも涼介に会いたい」

「うん、そうだね。丈琉に会ったら、なにか思いだすかもしれないし」

 ごろん、ソファーに寝転んだ丈琉は、にんまりとした。

「小春のつくったクッキー、おいしかったよ」

「よかった。うちには形が悪いのを残したんだけどね」

 丈琉が、にったりとする。頬に、片えくぼが浮かんだ。


「小春、そうとう好きだよね」

「なにが?」

「涼介のこと」

「え! なに言ってんの? もうっ!」

 クッションを、その頭に押しつけてやった。涼介を好きだなんて、近親相姦みたいで気持ちが悪い。

「ちょっとー、頭痛いって言ってるのにー」

 反撃の言葉に、私はクッションをどかす。

「そのうち、涼介に会いにいこうか」

 ごめんの代わりに言ってみたら、丈琉は寝転んだままでうなずいた。



 次の日の日曜。丈琉を涼介の家につれていこうとしたら、発熱していた。風邪の症状はないから知恵熱ね、母親はそう言って、丈琉を一日寝かせることにした。

 私はひとりで涼介に会いにいこうかとも思ったけれど、向こうは病み上がりだし、そっとしておくことにした。いろいろ忘れて、いろいろ憶えなければならず、頭がぱんぱんになっていそうだから。

 そしてまた新しい日が訪れる。 

「おはようございまーす」

 月曜の朝、私は涼介の家の玄関を開けた。

 駅までお互いの家から自転車で8分走って、電車に乗って、5つ目の駅で降りて、高校までだいたい10分歩く――それが通学のパターンだ。


「おはよう、ありがとうねえ。小春ちゃんが一緒だから心強いなあ」

 2本のヘアクリップで前髪を上げた涼介ママが、ファンデーションで白くなった薄い眉毛のまま、出迎えてくれた。お化粧の途中だったんだ。

「おばさん、私、心配だし……なんいていうか、私には守る責任があるし」

「そんなに自分を責めないで。でもね、ホント、ありがとう」

「おはよう、小春ちゃん」

 奥から出てきた涼介が、私を見て笑みを浮かべた。

 濃紺のブレザー姿は見なれていても、今朝の涼介はやっぱり、これまでとちがう。

 シャツを第一ボタンまでしっかり留め、緑のネクタイをきっちり締めている。

 髪型は寝ぐせこそ直っているものの、ワックスを使っていなくてサラサラだ。

 なんかもう、いろいろちがう。だけど私は、平静を装う。

「おはよ、行こう。涼介は自転車、乗れる?」

「大丈夫。自転車、好きだし」

 涼介がチャリではなく、自転車と言った……ということには触れず、ガレージからそれを出してまたがる姿を見守る。

 涼介の前を、私は愛車で走りだした。


「道、憶えてね。そこのコンビニ過ぎたら、右ね。まっすぐ行くと川にかかった大きな橋があるから、そこを越えてまっすぐ行って、道なりに行って、クリーニング屋さんを右に曲がると、駅だよ」

「コンビニ……ありがとう。がんばって憶えるよ」

「でもまあ、帰りも一緒だし。うん、平気、平気!」


 そうして私たちは、駅前の駐輪場に自転車を停めて、駅構内を行く。

「え? ええっ? なに、なに!?」

 涼介が足をばたつかせて、怖がりはじめる。

「なにって、エスカレータ―だよ。ほら、またいで、乗って。はい、じっとしてて」

 教えながら、そんなことも忘れてしまったのかと、あっけにとられる。


「百貨店でもないのに……ああ、そういえば設置されている駅もあると、聞いたことがあるよ」

 なにその反応! まるで異世界から来た人みたい。

 私がツッコミを入れるの、待っているわけでもないし。

 いちいち教えていたら、遅刻してしまう。

 

 それからも大変だった。

 改札で定期券をピッとするのもおっかなびっくりで、ホームの電光掲示板にも電車にも驚き、車内のテレビ画面にも、イヤホンで音楽を聴いている人にまで驚いている。


 記憶喪失って、こういうのだったっけ。

 いや、周りでなった人はいないから知らないけれど、ドラマで見るのは生活に関することは憶えていて、人との関わりとかがごっそり抜け落ちるパターンだったはずだし、そう思っていた。

 なのにこれじゃあまるで、ジャングルの奥地に住んでいた、文明を知らない民族をつれてきたみたい。いったい、どういうことなんだろう。

 

 そうこうして、とりあえずなんとか、高校の最寄り駅についた。

 葉桜の並木道を、ふたり並んで歩いていく。


「ああっ、涼介じゃん! おまえ、大丈夫かよ? 連絡つかないから心配したぞ?」

「おはよ、涼介~っ! LINE、未読スルーだし~っ!」

 校門のそばで声をかけてきたのは、涼介のいちばんの仲よし、クラスメートのふたりの男子だ。いつ見てもなんだか、キラキラと輝いている。

「えっと……」

 きょとんとした顔でふたりを見る涼介に、事情を知っている彼らは明るい表情を返した。

「オレがてんで、こっちが晴也はるや。ふたり合わせて天と晴れで、天晴れコンビって、涼介が寒いダジャレで名づけたんじゃんか~」

 ちょっぴり茶系の癖っ毛ヘアの如月天きさらぎてんくんが、冗談ぽく言う。

「え? ……ああ、そっか、そうなんだ。よろしくね、あらためて」

「モデルチェンジした新生・涼介だな。こちらこそ、よろしく」

 黒髪つんつんヘアの内田晴也うちだはるやくんが、涼介の肩を組んで返す。


「てか、なんだよ涼介も小春ちゃんも。オレらも同じ電車で来ればよかった。涼介にLINE送っても、マジ全然既読つかねえし」

「あ……使い方、わからなくて……ごめん」

「今日から来るって、教えてくれたらよかったのに。オレらさ、早めについたからコンビニ寄ったりしてたんだ~」

「あの、私たち今日は、おふたりの、一本後の電車だったみたいで……あ、明日からはお願いします。」

 天くんと晴也くんに、たじたじしながら返すと、「オッケー、小春ちゃん!」、晴也くんが晴れやかに返してくれた。

「なあ、部活は行けそう?」

 晴也くんが肩を組んだ手を離して、涼介の顔をのぞきこむ。

「え……部活って?」

 涼介はおずおずしている。

「軽音楽部だよ。涼介はオレらのバンドの、ギター&ボーカル!」

 誇らしげに言う晴也くんだけれど、首の後ろに片手をあてた涼介は、少し考えこんだ。それから「しばらく休むよ」、そう返した。

「あ……リョーカイ! 先輩、すっげえ心配してたぞ」

「そっか……」

 つくり笑いを浮かべた涼介の「よろしく言っておいて」という小さな声が、すごくせつない。先輩の顔すら、わからないだろう。


 あとのことは天晴れコンビにまかせて、私は先に教室へ向かった。

地味女子の私が、陽キャの三人と一緒にいて、ややこしいことに巻きこまれるのは避けたかった。

 ああ、どっとつかれた。おうち帰りたい! 

 けれど、中身のすっかり変わった幼なじみが心配で、さっさと帰れるはずもない。 

 教室に入ってきた涼介にむらがる野次馬のクラスメートたちを、天晴れコンビが蹴散らしているうちに、朝のホームルームの時間になった。担任は、涼介が記憶喪失ということを改めてみんなに説明し、穏やかに接してあげるようにと釘をさした。


 当の本人はそのあいだずっと、前を向いたままだった。黒板のわきに貼られた時間割の観察に、緊張感を持って集中している。私は教室の真ん中のいちばん後ろの席から、窓際の真ん中の席にいる涼介を、そっと見守った。 


 勉強のほうもきれいさっぱり忘れていると思われた涼介は、英語も数学も生物もよく理解していた。

 古文なんて、文法を天晴れコンビやまわりの席の子たちに教えていたくらいだ。

 教科書は机の中に置きっぱなしなのに、いつのまにそんなに勉強ができるようになったんだろう。

 

 休み時間のたび、涼介のまわりには人だかりができた。オレのことは憶えているか、私のことはと、まるで掘ったばかりのタケノコにハエが群がるような(これは私のおじいちゃんの家で見た)光景だった。  

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