ヒーローでもヒールでもない僕たちは

あおいまこと

第1話

今年の夏は、どれだけの猛威を振るうのだろうか。

担任の姫野が夏休み中の注意事項を幼児相手に言い含めるような声で唱える中、カーテンを閉め忘れたせいで午後の直射日光に晒されるはめになった恭太きょうたは、UⅤカットを謳うパーカーのフードを更に深く引っ張った。絵に描いたような夏空が広がる窓の外は、熱気がそのまま姿を現したモンスターのように風景を溶かしている。特別、美容に気を遣ってるわけじゃないけれど、出来ることなら日に焼けたくはない。潰したスクールバックの中に両手を突っ込んで手探りでアプリを立ち上げると、髪に隠したワイヤレスイヤホンから、更に眠気を誘うような穏やかで優しい声が流れ出す。期末テストの結果とか、現実味を帯びない進路とか、そんなことをぼーっと聞くよりも、こっちの方が恭太にとっては有意義だった。

『日曜と月曜の狭間。お立ち寄りくださった皆さん、こんにちは。こんばんは。そして、おはようございます』

あらゆる挨拶で始まるラジオの常套句は、世界のどこにいても、誰も置いていかない。適当にタップしたアーカイブで一曲目に選ばれたのは、平成のリバイバルヒットで最近よく流れてくるサマーソングだった。うちの校舎に花なんて咲いてたっけか、と窓の外に広がる雑草に囲まれた校庭をぼんやり眺めながら、落ちサビの”真っ赤なブルー"について真剣に考えてみる。黒板横の掲示板に貼りだされた花火大会のポスターがふいに目を引いて、連想されたのは、地元の祭りで食べたブルーハワイ味のかき氷のせいで染まった赤い舌だった。ひょっとこのお面を親に面白半分で被らされながら、何種類と並ぶメニューに夢中になっていた幼心が今やいじらしい。かき氷のシロップが実質どれも同じ味だなんて、知らないままでよかったのに。

常連リスナーからのメールや十八番のトークなんかにいつしか聞き入っていた恭太は、担任が自分の名前を連呼していることに暫く気づかなかった。

「__……だ。さだ、佐田恭太ー!」

「うぇ…っ」

「なんだそのひしゃげた蛙みたいな反応は。先生がびっくりだよ」

いつの間に解散の号令がかかっていたのか、教室を一目散に飛び出していく足音もある中、大半のクラスメートはまだ席でたむろしていて、姫野の嘆きにさざ波のような笑い声が恭太の後ろめたさを助長させる。アホ、と口パクで楽しそうに揶揄う大耀たいようを睨みつけてから、素直に「すいません」と頭を下げた。バックの上に乗せられた薄っぺらい紙を認めて、また姫野の顔を見返す。

「これ、帰る前に全部解いて職員室に持ってくること」

「姫ちゃん、なんこれ」

「反省文代わりだ。校則違反かと言われると絶妙に否定できないところをついてきたのはいいが、さすがに見過ごすまではできんからな。姫ちゃんの優しさだと思え」

去り際にフードで覆い隠した後頭部をピンポイントで突かれて、恭太はますます居所が悪い。先週色を入れ直したばかりの青いメッシュが、その下には隠れていた。


金属バットが硬球を高らかに打ち上げる音と、枕にしていた腕の中で震えたスマホの振動で目が覚めた。ふわりと舞ったカーテンに纏わりついた夏の湿った風が、投げ出していたもう片方の腕に忍び寄る。涼しかったのはほんの一瞬で、全開にされた窓からやけに甲高い野球部の雄叫びと容赦のない蝉の鳴き声が耳を劈いた。

「…あっつ」

イヤホンを差し込んだまま寝ていたせいで耳がじんわりと痛い。スクールバッグから、飲みかけのアイスじゃなくなったコーヒーを取り出して渇ききった喉にとりあえず流し込んだ。教室の冷房も切られたまま数十分とはいえ寝入るだなんて、今の日本じゃ熱中症は馬鹿にできない。寝起きでぼんやりとした意識を犬みたいに頭をぶるぶる振って正気を取り戻す。顔認証で突破したスマホの中で唯一赤いマークがついたアプリを立ち上げて、フォロー中の欄に移動すると、一分前に投稿されたショート動画が再生された。"麦ちゃん"の愛称で親しまれるアイドルが隠し撮りされていることに気づいた途端キメ顔をつくってこちらに視線を流す数秒のオフショットは、勝手に自動でリピートされて、恭太はスライド式の扉が勢いよく開くまで飽きることなく画面を見つめていた。

「うそやん、お前まだおったん?」

教室の入口で見慣れた八重歯が心底アホを見るように覗く。慌てた両手に弄ばれるスマホも心なしか熱く火照っていた。

「…るっせー、つかお前が起こせよ」

本来ならば授業が終わった学校に居残る理由などない。恭太は帰宅部だ。どこか安定しない椅子から気怠い身体を起こすと、変な体勢で強張った姿勢を正す。

「いやいやいや、責任転嫁」

「あれ、そんなムツカチイ言葉知ってたんだ大耀くん」

シュっと飛んできた蹴りをいつもの流れで避けながら七月に蒸された教室を出る。すっかり人の気配がなくなった廊下に、吹奏楽部の軽やかな旋律と太陽に晒された校庭で練習に打ち込む運動部の声が混ざり合う。隣に並んだ大耀があっちーと手で顔を扇ぎながらどこからかサングラスを取り出した。某音楽番組の司会者を連想させる真っ黒に塗り潰されたレンズで顔面の大半を隠した大耀が勇んでこちらを見る。

「先に言っておく。似合ってない」

「またまたそんなこと言って~」

「いやマジ。真剣と書いてマジ。本気と書いてマジ。…どこで入手したんだよそんなもん」

よく見ればまあまあ有名どころのブランドロゴが縁に印字されていた。

「櫂人がくれた」

「カイト?」

すぐには像が結ばれない。少し考えてから、文字通りクラスの中心部に席をもつ冴木櫂人かいとの屈託のない笑顔がぼんやりと脳裏に浮かんだ。

「冴木か」

「この前漢気じゃんけんで勝ってん」

「本当に公平性あんだろうな、結構良い値段すんぞそれ」

「”漢に二言はない”」

「ああ、…言いそう」

ざっくばらんな性格で、運動神経は抜群。成績はそこそこ、顔もそこそこ。先頭を切って馬鹿なこともすれば、クラスメートのちょっとした機微に敏感で相談役も請け負う、まさに絵に描いたような主人公。確か、今流行りのなんとか診断でもそんな結果だったとか。まあ、全部又聞きとか噂とか印象とか、全てがはっきりとはしないけど。上も下も関係なく接する冴木と薄い関わりしかない恭太は、この学校じゃ希少部類に入るのかもしれない。

「新館の空調どんな感じ?」

「一週間は無理らしいわ。あー身体なまる」

幼少期から高校二年の現在までずっと体操を続けている大耀は部の副キャプテンを担っている。熱中症の警戒アラートがキー局の天気予報で声高に叫ばれるようになった矢先の故障だった。

「そういう恭はちゃんと反省文書いたん?まあ気持ちよさそーに寝てるんじゃ、反省なんかしてないの姫ちゃんも分かってるやろうけ、ど!」

無駄にすばしっこい動作でハーフアップにしたために晒された青に染まった後ろ髪で遊ばれる。窓ガラスにぼんやり映るカラーはまんざらでもなく、ついつい何度も確認してしまう。生活態度も成績も無難で通していた一生徒から、校則ギリギリアウトの曰くつきに成り下がったけれど、後悔はしていない。

反省文という名目の漢字プリント五枚は中学生レベルのもので、睡眠導入剤としては最適だった。

「ま、そんだけ漢字書けんのに校則の文字は読めないんかって皮肉やな。やさしいセンセで良かったやん」

強制的に黒染めスプレーを噴射されない、がこの学校の判断だとしたら殊勝に漢字プリントに向き合うことを俺は選ぶ。気づけばあっという間に職員室がある一階まで降りていた。

「そういや、おかんの投稿見た?」

「あーまだ見てない。新作?」

「そ、この短い髪にあちこちいろんなもんぶっ刺されて出来上がった俺の血と涙の結晶」

「大袈裟だな、浴衣に合うヘアアレンジ講座だろ」

猿人類で止まってるんじゃないかと揶揄したくなるほど幼少期から何かと落ち着きのない大耀の家が先祖代々続く老舗の呉服屋を営んでいるとは、長年の付き合いである恭太でも未だに信じがたい。

「あ、ちなみにな、お前もぜんっぜん似合うてないで、その髪」

ノックをするためにかざした拳は時差で返ってきた大耀の余計な一言と耳に障る猿のような笑い声でグーパンに変わった。



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