目覚めよ踊子、今一度

未来屋 環

出張先の愉しみ

 ――大仁おおひとの駅に着くと、細く降りしきっていた雨が止んだ。



 『目覚めよ踊子、今一度』/未来屋みくりや たまき



 あの文学作品の冒頭とは異なるシチュエーションに、傘を持たない私は密かに胸をろす。

 温泉街は近くにあれど平日夕方の無人駅は静まり返っていた。

 まるで天から糸で釣られたように、背筋をぴんと伸ばした私はただ一人迎えを待つ。


 伊豆への出張は急遽決まった。

 昨今さっこんの少子化で各社は人材獲得に苦慮しており、全国各地の高校に数多あまた派遣された人事担当者たちは、是非我が社に応募してほしいと頭を下げて回る。

 移動時間2時間半、滞在時間10分――そのタイムパフォーマンスの悪さと憂鬱への対価として、私は会社の規定内で宿泊できる温泉付きの宿を確保した。


 小ぶりなシャトルバスに揺られること5分、安息の地がその姿を現す。


 指定されたロッカーは年代物で、扉を開くと木のにおいがした。

 ノスタルジーをいだいたまま大浴場に入ると、週半しゅうなかばだからか先客は地元民らしき二人のみだ。


 身体を洗い広々とした湯船にかったところで、ようやく私の意識は非日常へと切り替わる。

 平日にゆっくり湯に浸かるのはいつ振りだろう。

 日々の生活に追われる内に、私は色々なものをくしてきたのかも知れない。


 軽く温まってから露天風呂へと向かう。

 7月に入ったばかりとはいえ気温は真夏そのもので、それでも外気に触れながら入る温泉は格別だ。

 じっくり堪能たんのうしたあと浴室に戻るとそこには誰もいない。


 しめた――私は足元に気を付けながら、生まれたままの姿でくるりとターンを決める。


 東京では無人の開けた場所に出逢うことがなかなかない。

 幼い頃バレエを習っていた私の「広い場所でターンをする」というこの密やかなたのしみは、子どもが広い湯船で泳ぐよろこびにきっと似ている。

 無事誰に知られることもなく一回りした私の心はそれこそ踊っていた。



 運ばれてきたジョッキを煽ると、ぽかぽかに温まった喉をきんきんに冷えたビールが駆け抜けていく。

 大胆に歓喜の吐息をらしても誰にとがめられることもない。

 少し赤みがかった黄金色こがねいろの伊豆の国ビールは小さな泡をぷくぷく吐き出して私を誘惑する。


 もう一口飲もうとしたところで、頼んでいたつまみが次々と運ばれてきた。

 つやつや輝く姿造りのあじ、淡雪から鮮やかな赤が覗くまぐろの山かけ、からりと香ばしく揚がった鶏の唐揚げ――私はビールをおかわりしつつ、その一皿一皿を着々と平らげていった。


 周囲では晩酌をする男性が握り寿司を静かにつまみ、ジャージに身を包んだ女子たちが笑顔でピザを分け合っている。

 そんな光景をながめながら私は締めのざるそばを一人すすった。

 甘めのつゆとそばの香りが口内をぶわりと染め上げる。

 いい夜だ、素直にそう思った。



 ***



「今日は予定が詰まっているので、朝一で来て頂けて助かります」

「いえこちらこそ。お忙しい中お時間頂きありがとうございます」


 部活の練習か、はたまた流行りのSNSへの投稿用か――ラウンジで楽しそうに踊る少女たちを横目に応接室に通される。

 指定時間より前に高校に到着した私は、早朝特典として通常の倍となる20分の面会時間を手に入れた。

 眼鏡をかけた穏やかそうな進路指導の先生に、私は仕事のやりがいについて丁寧ていねいに説明し、寄せられた質問にもよどみなく答える。


 そして、それは五つ目の質問だった。


「あの……御社は本社が東京で、勤務地は全国区ですよね」

「はい、国内だけでなくグローバル展開もしておりますので、海外に興味のある学生さんにもご満足頂けると思います」


 笑顔で答える私に、先生が少し眉を寄せ「ちなみにこの近辺にオフィスはありますか?」と続ける。


 ――ほど、そういうことか。


 ここから通える支店の存在を告げると、先生の顔に安堵あんどの色が浮かんだ。


「実は、ほとんどの子が地元就職を希望していまして。以前は首都圏に行きたがる子も多かったんですが……」


 その言葉がすとんとに落ちて「あぁ、素敵な街ですものね」と素直な気持ちで言う。

 すると先生は少し驚いた顔をしたあと、優しい眼差まなざしでこう答えた。


「えぇ――皆この街が好きなんです」



 結局30分も話していた。

 保護者会で優先的に我が社の紹介をしてもらえると聞き、対面で逢うことの大切さを噛み締める。


 駅まで続く道の両端には穏やかな田園風景が広がっていて、空の青と生い茂る緑で満たされた世界に見惚みとれながら歩いた。

 瞼の裏にはかろやかに踊る少女たちの姿が浮かぶ。


 できるならばここでずっとずっと踊っていたい――そんな純粋な熱が私に火を点ける。


 周囲の視線を気にせず、一度だけターン。


 あの頃の気持ちを、少しだけ思い出せた気がした。



(了)

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