日が融けるまえ

@don08740

アイスクリーム

 優秀であるふりが、こんなにも重いなんて、

誰も教えてくれなかった。塾に行く電車の中で、

気づかれないように息を吐く。

夕陽が窓の縁を金色に染めていくなか、俺だけが、

何も持たずに戦場に送られる兵士みたいだった。

ひんやりと頬をなでる冷房の空気を感じながら、

そっと目を閉じると、揺れる車内で、

誰かのイヤホンから漏れる音がかすかに滲む。

その瞬間、教室でシャーペンの芯が折れる音が、

耳の奥でまざまざと蘇った。乾いた破裂音。

あれは、誰かの正解が生まれる瞬間だった。

俺には、そう聞こえた。

わずかな筆圧、吐息の揺れ、

ページを捲る指の速さ。

他人の優秀さは、言葉ではなく無言の動作で

伝わってくる。

それを、集団授業というのは見せつけてくる。

残酷なほどに。合格率だの偏差値だのといった

数字の砲火が飛び交う場所へ。

俺は、誰にも気づかれぬまま、一人で歩いていく。



二時間の受講を終え、自習室にさらに

二時間身を置き、そして、ようやく帰途についた。

模試の成績表。偏差値の数字がまた一つ、

下がった。

電車の車窓を流れる景色がなんとなく虚ろで、

静かに灯る街灯だけが、

今日の終わりを告げていた。

駅に着き、携帯の画面を開く。

今日は二十二時ちょうどか。

メールで帰る旨を伝え、そこから自転車で十五分、

田んぼから耳を叩くように響く蛙の鳴声を尻目に、ひたすらアスファルトを駆け抜ける。

額に滲む汗の感触だけが、

かろうじて自分を現実に繋ぎとめていた。

ガチャリ。

静寂の中、玄関に靴を揃える音がやけに響く。

「あ、おかえり」

静けさを破るように、リビングの方から妹・澄玲すみれの声がした。

「限定のマンゴーアイス、もうなくなってる…」

こちらを見ることなく、冷凍庫を開けたまま、

身を乗り出すようにして奥をのぞき込んでいる。

「帰り道、どっか寄ればよかったな」

俺が言うと、澄玲は小さく肩を落としたまま、

ちらりとこちらを見た。

「うーん…いや、わたし明日スーパー見てくる。

 まだ売ってるよね、多分」

「どうだろうな、あそこ結構競争率高いからな」

机の上のレースの蝿帳はいちょうを取り、

エアコンの風で少し冷めたご飯を

電子レンジで温めなおす。

「……仕方ない。売ってなかったら諦めるよ。

 もう夜遅いし、アイスないし、

 わたし寝るね。おやすみ」

澄玲はあくび混じりにそう言って、

冷凍庫の扉を閉め、自分の部屋に帰っていった。

その背中に、「おやすみ」とだけ短く返して、

俺は箸を取った。

今日の夕飯は鯖の味噌煮だった。

味はちゃんとしているのに、

妙に舌に馴染まない。妹が付けたままにしていった

テレビも、映像と音がただ流れているだけで、

内容はほとんど頭に入ってこなかった。



 食べ終えた茶碗を流しに運び、

シャワーを浴びて部屋に戻る。

扇風機を回しながらベッドに寝転び、

天井を見つめた。

成績が落ちたと言っても、

まだ終わったわけじゃない。

頭では理解している。

落ち込むほどのことじゃない、それなのに、

頭と心がまるで別の生きものみたいに、

気持ちが黙ったままだった。心臓の音だけが

漠然とうるさくて、カエルの鳴き声も、

扇風機の風音も、全部がぼんやり遠く感じる。

眠いはずなのに眠れない。一度諦めて、

身体を起こす。ゆっくり呼吸して、

喉の奥に居座る、焦りとも不安ともつかない塊を、なんとかを抑え込む。

そういえば、今日、澄玲が冷凍庫を覗いたとき、

あいつちょっとだけ、ため息ついてたな。

いつもなら、ため息つくと幸せが逃げちゃう、

とか言ってるのに。

きっと本当に楽しみにしてたんだろうな。

そんなことを考えながら、

のろのろとベッドに横たわり、

カーテン越しの夜に目を閉じた。



陽翔はるとおはよ。

 英語のプリントやった?

 俺昨日寝たの二時。マジ眠すぎ…」

「おう。一昨日、塾で終わらせた」

「はぁ?エグいな…さすが万年学年一位、

 朝倉あさくら陽翔はると様」

「いや二時とか、これは拓真たくま

 ギリギリすぎるだけだろ」

「まぁ、俺にかかればこんなもんよ」

「褒めてねえよ…」

朝礼が始まって、担任が珍しく

真面目な声音で言った。

「夏休みの勉強時間、計画立てて提出してなー」

誰かは苦虫を噛みつぶしたような表情をして、

誰かは小さくため息をついた。教室全体が、

どことなくソワソワしてる。

今の時期、口に出さなくても

「受験」の空気はじんわり教室に滲んできていた。



 理科の時間、拓真がまたノートの端っこに、

くだらない落書きを描き始めた。

「それ、先生に見られたら即アウトだぞ」

「俺は……消されるために描いてる」

「意味わかんねぇよ」

ちらっと見たその絵に、つい吹き出しそうになる。

「ナベケンの眉毛、ちょっと再現できてない?

 このへの字具合」

「……似てんのがムカつく」

思わず顔をそらしたその瞬間、前の方でチョークを持った渡辺先生がぴくりと眉を動かした。

目が合った……ような気がした。

やべ、と顔を見合わせて、同時にペンを持ち直す。

何事もなかったふりで、

教科書のページをめくった。



 英語は少し嫌いだ。先生が教室に入ってきて、

プリントの答え合わせを始めた。

指名が名簿番号順だったから、

大抵、最初に俺のところに回ってくる。

まさか間違えたりすることはないだろう、

みんなそう思っているのか、先生は合ってるなんて言ってないのにいろんなところから

丸をつける音がする。間違えたら、きっと誰かの

期待を裏切って、みんなが離れていく。

そんな考えが頭をよぎるたび、

胸がぎゅっと締め付けられる。

淡々と俺の声だけが教室に響いた。

読み終わった瞬間、先生の「うん」という一言に、無意識に肩の力が抜けていった。

ワークに移って、何問か先に終わらせると、

近くの女子が小声で聞いてきた。

「これって‘because’でつなぐやつだよね?」

「うん。合ってる」

「ありがと」

たったそれだけの会話。

今日も、俺はここにいていいんだ。

そう、ほんの少しだけ安心できた気がした。

その小さな安堵の瞬間が、

俺にはすごく大事だった。

誰かに頼られていることは、自分が必要な存在だと

信じるための唯一の証明だから。

ありがたいことなのだと、そう言い聞かせた。




「陽翔、お前さ、塾で何時間ぐらいやってんの?」

「んー、平日は四時間。

 土日曜は最低六時間くらい」

「ヒィ……。俺、塾行ってる意味あるんかな」

「行ってるだけマシだろ。サボってたら、

 それこそ金と時間のムダだけど」

午後の授業もなんとか乗り切って、終礼のあと。

拓真が荷物をまとめながらぼそっと言った。

「……なあ、俺もそろそろちゃんとやんねーとな」

「お、拓真も気づいたか」

「まぁ、お前からしたら、

 結構遅いかもしれんけど」

「ふーん、でも、今気づいたんなら

 いいんじゃね?」

拓真が少し照れくさそうに目をそらしながら、

口を開いた。

「けど、まあ……陽翔と同じとこ受けたいって

 気持ち、なくはないんだよな」

思わず一瞬、動きが止まった。

そんなこと、初めて言われた。

「てか、お前何気にすげえよな。

 頭良くて人望もあるし、完璧人間じゃん?

 先生もそうだけど、クラスのやつらもさ。

 相談とか、だいたいお前に行ってるし」

苦笑まじりで言うその声に、

からかいじゃない本気が混じっていた。なんて

言えばいいか分からなくて、何も言えなかった。



 玄関を開けた瞬間、リビングの照明が

やたら眩しかった。

「おかえりー」

妹の澄玲がソファに座ったまま、

ふてくされている。

おそらくアイスは売っていなかったのだろう。

「マンゴーの人気舐めてた…」

そう言って、ソファの上で足を

ジタバタさせていた。

「そうか」

そう返すのがやっとだった。靴を脱ぎ、

荷物を置き、部屋のドアを開けて、

扇風機をつけた。頭の中で、今日もクラスでの

映像がぐるぐると回る。

できなきゃいけない、失敗は許されない、

みんな期待してる。

そんな言葉が頭の中で何度も反響した。

本当にこれでいいのだろうか。

このままでいいのか。

そう思った瞬間、今までずっと必死になって

守ってきた何もかもが、

ただ繰り返されているだけのものに思えた。

風呂にも入らず、制服のままベッドに沈んだ。

背中がじっとりと汗ばんでいる。気持ち悪い。

けどもう、脱ぐ気力もない。

スマホには通知が一つもなかった。

誰も俺のことなんて考えていない。

明日の授業、提出物、塾、自習、テスト、偏差値、

他人の視線。ぜんぶ、ぜんぶ、

いっぺんに押し寄せてくる。

「……はぁ」

吐いた息が、全然楽にならない。

どこにも逃げ道がない。

誰にも頼れない。俺ならできるって、

ずっとそこにいるって、

なんでみんなそんなふうに思うんだよ。

机にあるペン立てが目に入った。次の瞬間、

無意識に手が伸びて、それを床に投げつけていた。ガチャッ、カシャッ、と派手に音を立てて、

シャーペンや定規があちこちに転がる。

その音に、自分でも驚いた。

泣きわめくでもなく、机を蹴り倒すでもなく、

俺はただ床に転がったシャーペンを見つめていた。

たかが文房具。されど自分の無力を映す文房具。

数秒後、ドアの向こうから、妹の声がした。

「兄ちゃん、大丈夫?」

その声がやけに優しかったから、

返事をするのに少し時間がかかった。

「……なんでもない」

そう言う声は、もう震えていた。

自分でも何に怒ってるのかわからない。

ただ、静かに崩れていく感じだ。

張りつめていたものが、ぷつんと切れた音だけが、胸の奥にずっと残っていた。

〝なんでもない〟って便利な言葉だ。

大抵のことはそれで片づくし、

片づけられてしまう。

でも心の中には、どうしようもないものたちが、

順番待ちで列を作っている。処理されず、

片づけられずに、ずっとそこにいる。

シャーペンは拾えなかった。拾ったら、また

「できる人間」の役を演じなければ

ならなくなるように思えた。

今はそれを顔に貼りつけるだけの力が、

残っていなかった。

扇風機のぬるい風が目にしみて、それが何故か凄くしんどい。

体の奥から湧いてくる、どろっとしたこの熱は、

きっと気温のせいじゃない。もう駄目だ、

と自分で思った瞬間、

何かに弾かれたように部屋を飛び出した。

靴下も履かず、

財布とスマホだけポケットに突っ込んで、

ドアを開けた。

「え、どこ行くの?」

様子を伺うようにこちらを見ていた澄玲が、

目を丸くする。

「うるさい!いいだろ別に」

怒鳴ってしまった。玄関のドアをバタンと

閉めた音が、自分でもちょっと耳に痛い。

まだ手が震えてるのがわかる。

でも、あのまま部屋にいたら、何か壊してた。

もっと。自分ごと。



 ぐちゃぐちゃになった感情を、

吐き出せる場所がなかった。

叫ぶのも疲れる。泣くのも面倒くさい。

ただ、壊したいと思った。何でもいい。

目に入るもの全部、嫌いだった。

西の空がオレンジから群青へと沈みはじめていた。

綺麗だとは思えなかった。むしろ、憎らしかった。

こんな空でも、ちゃんと明日は来てしまうんだと、

思い知らされるみたいで、ひどく悔しかった。

坂を上る途中、セミの声が耳を打った。

もうすぐ八月も終わるというのに、

あいつらはまだ鳴いていた。諦めの悪さが、

どこか自分に似ていた。

汗がまだ背中を伝っている気がして、

何度も首元をひっぱった。蒸し暑い。苦しい。

「……はぁ」

何度目かわからない溜息が、

もう自分のものじゃないみたいに曖昧になって、

空気に溶けて消える。まるで透明人間だ。



 交差点の手前で、

ふと、動くものが視界の隅をかすめた。

トラ猫だった。骨ばった身体は、毛が抜け落ち、

片耳は欠けている。まるでこの世界に、

すでに見限られた生きものの姿だった。

猫の前に男がしゃがんでいた。

片手に持った安物の小さな缶詰を、

まるで宗教の供物のように

慎ましく差し出している。五十代くらいだろうか。

よれたシャツ、擦り切れたズボン、

くたびれたビニール袋。

「今日は、ちょっと贅沢だからな」

そう言って笑った口元に、

猫は何の反応も示さなかった。

警戒もなければ、感謝もない。

ただ与えられたものを食う。

それがこの世界での

生存の形なのだとでもいうように。

なんとなく、胸の奥がざらついた。

誰にも媚びず、何かを得る。

そういう在り方が、この世に

実在することが、少しズルいと思った。

俺は〝優等生〟の肩書に縋っているのに。

何者でもなくなったら、

どこに行けばいいのだろうか。そんな気味の悪い

問いが今だってずっと纏わりついている。

 むしゃくしゃして、足元のアスファルトを、

なんとなく靴で蹴りながら歩くと、

不意に視界の端が明るくなった。

顔を上げると、通り沿いのファミレス。

窓の奥で、制服姿のカップルが笑い合っていた。

スマホを見せ合って、何かを指さしては

笑っていた。まるで、世界の中心のようだった。

完結した世界。円のように閉じた幸福。

ひたすら眩しかった。

耐えきれず、逃げるようにして、また歩き出した。



 どこまで歩いたのか、もうわからない。

足の裏が痛いのに、止まる気になれなかった。

止まったら、何かに潰されて、

もう二度と起き上がれない気がした。

ちょうどそのとき、コンビニの自動ドアが開いて、

拓真が出てきた。

「……陽翔?」

あいつも一瞬、声を詰まらせた。

ビニール袋をぶら下げている。

コンビニのロゴが汗みたいに湿って、

氷菓の袋が中で揺れた。

俺は何の反応もできずにそれを眺めた。

「お前、何してんの……?」

「……逃げた」

確かに喉から出た俺の声が、やけに渇いて

聞こえるような気がした。

妙に他人事みたいだった。

拓真は俺の顔を数秒見つめたあと、

何も言わずに自動ドアをくぐって中に戻り、

しばらくして、また同じように外に出た。手には、

溶けかけのマンゴーアイスの袋が握られていた。

「……食え。お前、糖分足りてなさそう」

無理矢理じゃなかった。

でも、逃がさない気配があった。

差し出されたアイスを受け取った俺は、

そのまま駐輪スペースの横に腰を下ろした。

拓真も隣に座った。何も言わずに、

二人してアイスを舐めた。甘かった。

冷たかった。思ってたよりずっと沁みた。

なんか悔しかった。こんなもんで、

少し楽になるなんて、

情けなくて、ちょっと泣きたくなった。

「……なあ陽翔」

「ん」

拓真の声がいつもよりずっと小さくて、

蝉の声にかき消されそうだった。

「最近、お前、やばそうだったからさ。

 ……なんかあったら、言えよ。

 俺、バカだけど、話くらいは、聞ける」

不器用で、言い慣れてないのがまるわかりの声

だった。でも、うっとうしくなかった。

「じゃあ拓真……今度、ジュース奢れ」

「は?なんでだよ」

「知らねえよ。そういうことだろ」

拓真は鼻で笑った。

「……本当はさ、陽翔が崩れたら、

 俺が不安なだけなんだ」

「なんだよそれ」

「だってさ、お前が壊れそうな顔してると、

 俺はまだマシって思えるからな。

 まぁ、だいぶひでぇよな」

いつの間にか少しだけ笑っていた。

自分でも驚いた。

「……そういうとこ、お前意外と腐ってるよな」

「うん。カビてる。でもまあ、

 耐カビ仕様ってことで」

ふたりでヘラヘラ笑った。少しだけ、

呼吸が楽になった。

 しばらく黙って座っていた俺たちの前で、

コンビニの看板がじわじわ点滅していた。

蝉の声も、さっきより静かに感じた。

ふいに、拓真が立ち上がって、

ズボンをはたきながら言った。

「よし。陽翔、海行こうぜ。チャリあるし」

「は?」

「黙って乗れ。こういう時は、

 海って決まってんだよ」

拓真はニヤっとして、ハンドルをクイッと

持ち上げた。よくわかんねえけど、もういいかと

思った。俺は荷台にまたがって、

拓真はコンビニ袋をハンドルに引っかけた。

氷菓の入っていた袋の水滴が、風でちぎれそうに

揺れてた。

 黄昏の坂道を、無言でぶっ飛ばした。

信号無視して、風を切って、何に追われてたのかもわかんなかったけど、とにかく速かった。

坂を下るたび、スピードが上がって、

物凄い勢いでタイヤの音がアスファルトを

すべっていく。

前で漕いでる拓真の背中が、やけにでかく見えた。

「ちゃんとつかまってろよ、陽翔」

「おい、ちゃんと前見ろよ。落ちたら、

 お前のせいだからな」

「つーか、落ちたら死ぬなこれ!」

「ふははっ、やべえな」

「そういうスリルが人生に必要なんだよ!!」

「知らねぇよ!!」

二人で叫んで、笑って、なんかもう全部

どうでもよかった。

海に着いたのは、本当に突然だった。

波の音、でけえ。月、まぶし。風、冷た。

「おい陽翔、泳ぐか」

「いや今俺制服だし」

「知るか!」

拓真はシャツのままズボンのすそだけ上げて、

波打ち際へダッシュした。

バシャッと音がして、「冷てぇぇぇ!!!」って

叫んでる。 その声に、吹き出した。

俺も靴を脱いで走り出して、

波を蹴った。水が跳ねて、ズボンが濡れて、

でも関係なかった。

「うわ冷てえ!!バカじゃねえのか!!」

「お前も来てんじゃん!!」

「いやほんとバカだろこれ!!」

「大人に怒られたら泣くしかないな」

ふたりして砂だらけで、

塩と笑い声でべたべたになった。



海辺に寝転がって、空を見た。塩の匂いと、

濡れたシャツが肌にまとわりつく感じが、

地味に冷たくて、でも嫌じゃなかった。

「なあ、拓真」

「ん」

「……俺ら、何してんだろな」

「…多分、死ぬほど生きてるんじゃね?」

「は?」

「いや、意味わかんねーな。俺も今、

 何言ったかわかんねぇ」

「まあ、たまにはそれでもいいのか……」

どっちからともなく笑って、また黙った。

潮騒の音がずっと同じリズムで聞こえて、

なんだか、まるでこの時間が、

ちゃんと続くみたいだった。

目に入る空はすっかり群青色になっていて、

水平線のあたりだけ、

まだうっすらと光が残っていた。

だんだんと風も強くなってきて、

海の色を冷たい青に変えた。

「…おい、腹減ってきた」

「知らねえよ、塩水飲んどけ」

「マジで帰りにラーメン食わね?」

「拓真のチャリでな」

「いいか、青春ってのはな、

 腹ペコのことなんだよ」

「うるせぇよ。てか、俺明日提出の課題

 やってねぇし、補導まではされたくないぞ。

 めんどい。」

「ぶはっ、お前も終わってんな」

「もういいんだよ」

 潮風に吹かれて、目が少ししみた。

でも、それは風のせいってことで押し通せた。

こんな夜がいつまでも続くわけじゃないけど、

今はこれでよかった。

 ファミレスに入って、テキトーに注文する。

ふと遠くを見ると、さっきの窓の席に、カップルが

まだいた。変わらず、笑っていた。だけど、

今はもう、どうでもよかった。

ただの風景の一部だった。

拓真が俺の目線を追って、

ニヤニヤしながら言った。

「……ああいうのって、幻なんだぜ。陽翔くん」

拓真は一心不乱にズルズルと麺を啜りだす。

俺は何も返さなかった。ただ、

うなずきそうになる自分がいて、

少し戸惑った。店を出ると、雑木林から、

さっきのトラ猫が出てきた。

「…この猫、飼ってんのかな」

「ん?」

「なんか、おっさんが餌やっててさ」

「おっさん?あー、お前が言ってる人と同じか

 知らんけど、俺よく見るよ。多分、

 飼ってはないんじゃね」

「ふーん」

「まあ、持ちつ持たれつってやつだな」

拓真の言葉に、なんとなく納得した。

勝手に始まって、勝手に続いてるもの。

ちょっと、俺と拓真にも似ていると思った。

特別で綺麗な関係じゃない。

ただ、そこにいる。それだけ。

「……ありがとな」

そう言った瞬間、喉の奥がつまった。

ずっと、本当は、俺が壊れたら、

ちょっとだけでもいいから、

誰か焦ってくれたらいいのになんて思っていた。

蓋を開けてみれば、返ってきたのは結構自分勝手な言葉だったけど、他の何より底から浮かび上がれた気がした。



 家に帰ると、リビングの灯りが、

ほんのりと灯っていた。

最後に寄ったコンビニで買ったマンゴーアイスを

ビニール袋から取り出して、

ドアをノックもせずに開けた。

「……はい。これ、買ってきた」

「なに、え?」

「……ごめん。さっきは、ちょっとしんどかった」

「ううん、別にいいよ。

 アイスありがと兄ちゃん!神!」

澄玲が受け取ったアイスを見て、

ようやく少し肩の力が抜けた。

部屋に戻って、制服を着替えて、

散らばったシャーペンをひとつずつ拾い上げた。

手に取るたびに、何かが戻ってくるような、

あるいは、戻らないままのような、

そんな感覚がした。

ほんの動作ひとつひとつが、かすかに、

過去と今を繋ぎ直していくみたいだった。

目を閉じると、今日見た街の風景が、

窓の隙間から吹く夜の風が、

ゆっくり部屋の奥へ流れていく。

世界はまだ無神経なままだ。でも、自分だけが、

ちょっとだけ変われた気がした。

目を閉じて、その気配をただ、感じていた。

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