第4話 世界から、君の音が消えた日
「絶対に、読んじゃダメ」
綾瀬凪が残した呪いのような言葉は、週末の間、僕の頭の中で飽きもせず反響し続けた。土曜日も日曜日も、僕はベッドの上で寝返りを繰り返すばかりで、一文字も小説を書く気にはなれなかった。
なぜ、僕だけが読むことを禁じられたのか。
『あなたを巻き込みたくないから』という言葉の真意はどこにあるのか。
そして、あの不吉なタイトル。『未来で死ぬ私を、君は助けてくれますか?』
考えれば考えるほど、思考は迷宮の奥深くへと迷い込んでいく。彼女の言葉を信じるなら、あの原稿には彼女の未来、それも『死』に至る未来が書かれていることになる。馬鹿げている。そんな非科学的なことがあるはずない。だが、僕の理性がそう結論づけても、心がそれを頑なに拒絶する。あの凪が、ただの悪趣味な冗談で、あんな悲しい瞳をするはずがない。
答えの出ない問いに苛まれながら、重い体を引きずって月曜日の朝を迎えた。いつもと同じ通学路、いつもと同じ教室の喧騒。それなのに、世界全体が薄い膜に覆われたように、どこか非現実的に感じられた。僕の日常は、彼女という存在によって、静かに、しかし確実に侵食され始めていた。
ホームルームが始まる直前、教室の扉が開く。僕は無意識にそちらに視線を向け、そして、心臓が小さく音を立てるのを感じた。
そこに、綾瀬凪の姿はなかった。
「綾瀬さん、今日休みだって」
「えー、マジ? 転校早々、風邪でもひいたかな」
クラスメイトたちの何気ない会話が、やけに大きく耳に響く。
違う。風邪なんかじゃない。
僕の胸の中で、得体の知れない不安が黒い染みのように広がっていく。彼女のあの追いつめられたような表情が、脳裏に焼き付いて離れない。
放課後の文芸部室。いつも彼女が座っていた窓際の席が、ぽっかりと口を開けていた。その空虚さが、まるで僕自身の心に開いた穴のようで、息が詰まりそうになる。
「凪ちゃん、休みかあ。原稿のことで聞きたいことあったのにな」
佐藤部長が残念そうに呟く。僕は、上の空で相槌を打つことしかできなかった。彼女の家も、連絡先すら知らない。今の僕に、彼女の安否を確かめる術はなかった。無力感が、ずしりと肩にのしかかる。
その夜、自室のベッドでぼんやりとテレビを眺めていると、ローカルニュースのキャスターが淡々とした口調で原稿を読み上げていた。
『――本日未明、市内を通る国道16号線の交差点で、トラックと自転車の衝突事故がありました。この事故で、自転車に乗っていた女性が病院に搬送されましたが――』
ありふれた、日常に紛れ込む悲劇の一つ。僕はリモコンに手を伸ばし、チャンネルを変えようとした。その手が、ぴたりと止まる。なぜか、そのニュースから目が離せなかった。胸のざわめきが、警告音のように鳴り響いている。まさか、そんなはずはない。僕はかぶりを振り、無理やり思考を打ち消した。
翌日、火曜日。
空は、まるで何事もなかったかのように青く澄み渡っていた。
しかし、学校に到着した僕を待っていたのは、昨日とは比べ物にならないほど、重く、張り詰めた空気だった。教室に入っても、綾瀬凪の席は空いたままだった。生徒たちのひそひそ話、時折聞こえる嗚咽、そして、職員室と廊下を深刻な顔で行き来する教師たち。
何かが、おかしい。決定的に、何かが壊れてしまった。
予感は、確信へと変わっていく。心臓が早鐘を打ち、指先が冷たくなっていくのがわかった。僕は、ただ彼女の無事を祈ることしかできなかった。
昼休みが終わる頃には、噂は学年全体へと広がっていた。
「二年の女子生徒だって」
「昨日の未明の事故らしい」
「トラックにはねられたって……」
断片的な情報が、パズルのピースのように組み合わさっていく。僕が昨日テレビで見た、あのニュース。国道16号線。時間帯。すべてが、最悪の可能性を指し示していた。
やめてくれ。
違うと言ってくれ。
僕は、祈るように拳を握りしめた。
そして、運命のチャイムが鳴り響き、五時間目の授業が始まろうとした、その時だった。
教室の後方の扉が、勢いよく開かれた。そこに立っていたのは、血の気の引いた顔をした佐藤部長だった。彼女の目は真っ赤に腫れ上がり、その視線は、僕だけを捉えていた。
「湊……!」
絞り出すような、かすれた声。彼女は、わなわなと震える唇で、信じがたい現実を口にした。
「嘘でしょ……綾瀬さんが……きのう、事故で……!」
――死んだ。
その最後の言葉は、音にはならなかった。だが、僕の鼓膜には、世界の終わりのように、はっきりと届いた。
頭が、真っ白になる。
足元から、現実が崩れ落ちていく感覚。
数日前まで、僕の隣で、あの美しい文字を紡いでいた彼女が。
『絶対に読んじゃダメ』と、涙を浮かべて僕に約束を求めた彼女が。
もう、この世界のどこにもいない。
ああ、そうか。
だから彼女は、あんなタイトルをつけたのか。
『未来で死ぬ私を』
あの小説は、本当に、彼女の未来からのメッセージだったんだ。
そして、彼女は僕に言った。
『あなたを巻き込みたくないから』
彼女の死は、本当にただの事故だったのか?
それとも、あの小説に書かれた通りの、避けられない運命だったのか?
絶望の淵で、僕の脳裏にただ一つ、鮮明に浮かび上がるものがあった。
それは、部室の机の上に置かれたままになっている、一束の原稿用紙。
綾瀬凪がこの世に残した、唯一の謎。
彼女が読むことを禁じた、彼女自身の死の物語。
それが今、僕を現実から引き剥がし、底知れない物語の世界へと誘う、禁断の扉に見えていた。
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