花天月地【第36話 月だけが知っている】

七海ポルカ

第1話



 飄義ひょうぎと打ち合っている。


 勿論、【闇の剣】を使う飄義は全力は出していない。

 暗殺者の剣というものは任務を得て、殺すべき相手を定めたときに覚醒し、闇に紛れることで魂を吹き込まれる。


 日の当たるところで打ち合っても、彼らの真価は見えてこない。


 それでも飄義ではなく、司馬孚しばふだ。


 彼の剣が明らかに、以前と変わっていた。


 陸議りくぎは彼に司馬家の剣技を教わった。

 私には剣の才がないので、どんなものか理屈を教えることしか出来ないがと前置きして陸議に指南してくれた司馬孚の剣は、確かに飾り物のような剣だった。


 人に見せるだけの剣。

 決して命のやりとりは出来ないだろう。


 しかし今、目の前で打ち合っている司馬孚の剣からは以前の彼にはなかった、必死さや情熱を感じた。


 陸議は驚いていた。

 司馬孚が司馬本家に戻っていたのは二週間ほどだ。

 別人のような剣になっている。


 剣だけはなく、歯を食いしばって相手の剣を受け、そして相手を打ち倒そうという意志の宿った一撃を放つ表情は、陸議が勝手に「司馬孚にはないものだ」と思い込んでいたものだった。


 フッと隣で腕を組み、弟の剣技を見ていた司馬懿しばいが笑った。

 思わず彼の方を見上げる。


「驚いたか? まあそうだろうな。

 安心しろ。私もだ」


 とてもそうは見えなかったが、司馬懿は言った。


叔達しゅくたつ殿も涼州りょうしゅう遠征に行くと……本当なのですか?」

「あれ自身がそれを望んだ。断る理由もあるまい」

「しかし……」


「『司馬孚しばふは敵を打ち倒す剣は使えない』か?

 お前にそう論破されたくなくて、あいつの剣が変わったんだろうな」


「私が……何故?」


「叔達が言っていた。

 お前は戦場に向かないのではないかと。

 あいつは戦場のお前を知らんからな。

 今まで叔達は『戦場で自分が学ぶものはない』と思っていた。

 だからあいつは従軍経験がない。

 お前が戦場に行くのなら、出来ることは帰りを待つことだけ。

 そういう自分を変えたいと望んだのだろう。

 戦場と平時はこの世の違う場所にあり、違う時間が流れているわけではなく、

 自分がそこで何を学ぶかなのだとな」


 陸議はもう一度司馬孚の方を見た。


「……兄として彼に貴方は実戦経験を積ませたいと望んでいるのですか?」


「いや。全く考えていない。

 ただ、あいつが剣と考え方が変わったので見てくれと言ったから見てやった。

 見たら実際に確かに変わっていたから、見所があると判断しただけだ」


「……貴方に兄弟の情はない?」


「怒っているのか。陸議。お前にそんな顔をさせるとは。

 叔達しゅくたつ、気の優しいだけの無能だと思っていたがどうやら違ったようだ」


 からかうように司馬懿が陸議の横顔に触れて来て、さすがに彼は嫌がるように顔を背けた。


「お前は怒った顔がやはり一番美しいな」


 笑いながら司馬懿が歩き出す。


「そこまでだ。飄義ひょうぎ。下がれ」


 打ち合っていた飄義が司馬孚の剣を弾いて、飛びすさる。

 彼は司馬孚と、司馬懿に一礼するとすぐに立ち去った。

 司馬孚は全力だったのだろう、肩で息をしながら思わず、片膝をつく。


「叔達。よくやった。

 涼州騎馬隊は戦うために鍛え上げられて来た精鋭だ。

 その相手にお前はならんが、戦場に臨むお前の覚悟はよく分かった。

 私は従軍は止めん。

 陸議りくぎと話してやれ。お前のせいで機嫌が斜めだ」


 司馬懿は弟に声を掛けると、悠然とした足取りで去って行った。


 司馬孚しばふが立ち上がり、ゆっくりと陸議に近づいていく。

 司馬懿には厳しい表情を向けていた陸議だったが、司馬孚がやって来ると表情は緩んだ。

 司馬孚も今は、いつもの穏やかな表情に戻っている。


伯言はくげんさま……」


 司馬孚を見ていると、どうしても陸績りくせきを思い出してしまう。

 だが、それは自分の勝手な思い込みだ。

 せめて司馬孚には穏やかな日々を過ごして欲しいなどと考えても結局、自分の理想を彼の心を無視して押しつけているだけなのだ。

 司馬孚は陸績ではないし、

 例え司馬孚になんとか穏やかな日々を暮らして欲しいと願ったところで――孫呉では陸家が窮地立たされているのかもしれない。


 自分にはもう全て、手の届かないものなのだ。



(もう考えるのはやめよう。

 このままでは司馬孚殿まで不幸にする)



 陸議は深く目を閉じた。


「……伯言はくげんさま。どうかそんな顔をなさらないでください。

 私は自分で決めたのです。父に命じられたわけでも、兄に命じられたわけでもありません。私は人間としてもっと成長したいのです。

 強くなりたい。

 未熟な私が『戦場だけは行かなくていい場所』なんて言うことは根拠がない。

 私は許都きょとに来て、兄上や貴方の側で、今までの凡庸な自分の人生では経験したことのない毎日を過ごしています。

 何もかもが真新しくて気楽ではないですが、それでも楽しい。

 今までとは全く違う時間を生きているのだと思える。

 その感覚を大切にしたいのです」


 司馬孚を見上げた。


「……戦場は命のやりとりをする場所です。

 学びの場所にするには………………少し危険が過ぎると思いますよ」


 少し困ったように、窘めるというほどでもなく優しい声で陸議が言った。

 司馬孚は笑った。


「はい。私もそう思います。

 ですが、もう決めましたので」


 司馬懿しばいがあれでは、司馬孚のことは止められないだろう。

 かといって彼のことを気にしている場合ではない。

 昨日馬術を誉めてもらったが、涼州騎馬兵に戦場で立ち向かっていけるかはもはや、陸議自身にもその時になるまで分からないのだ。

 

『敵』と戦場で相対するということは、それほどまでに修練とは違う。

 違う魂で、立ち向かわなければならない。


「分かりました」


 陸議は自分より背の高い、司馬孚の身体を抱きしめた。


「くれぐれも気をつけてください、叔達殿。

 貴方はこの間、私を司馬懿殿の理解者だと言ってくださいましたが、司馬懿殿の厳しさも情け深さも、他人には理解しがたい部分を持っておられることも、すべて『弟である』というその一言で受け止められるのはこの世で貴方だけ。

 自分をどうか大切になさってください」


 陸議を不安にさせているのだと思い、司馬孚はそっと彼の身体に腕を自分からも回し、力を返した。


「はい。陸議さまの言葉、胸に刻みます」


 集中しろ、


 陸議は自分に言い聞かせた。

 自分自身にだ。


 司馬孚しばふ

 徐庶じょしょ

 心を揺らすものを全て忘れろ。


 赤壁せきへき諸葛亮しょかつりょうを追撃している時、自分の命などどうでもいいほどに敵を撃破することだけに心が集中していくのを確かに感じた。


 自分がまるで自分で無くなっていくような感覚を。

 あの感覚を再び掴めれば、きっとどんな敵も斬れる。



(集中しろ) 



 確かに今ほど、命が惜しくないことはなかった。

 それでもこれで終わったら、


(私の人生は一体何であったのかと)


 その疑問だけが残ることになる。



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