付喪神の目覚め

まさつき

前編 宿りしもの

 田辺たなべは目を覚ましたはずだった。だから瞼は開いているはずなのだ。

 なのにひどく暗い。光が無かった。


 痺れにも似た冷たい感覚が、田辺の全身にまとわりついていた。

 そこらじゅうから、硬いもので押し固められているような感触もあった。


「馬鹿な」と、田辺は心中で呟いた。

 声なく苦く笑い、おかしなことを考えているなとの自覚に至った。


 意識というものは、意外と長く保たれるものらしい。


 ゴトリと重い音が鼓膜に響き、遅れて脳に届く鈍い痛み。コンクリートの床に側頭部を打ちつけ、首筋からは火であぶられたような熱さが脳髄に届けられるのを感じながら。ふたつぶのまなこで首を失くした自分の胴体を見つめていたというのが、田辺が目覚める前に目にした光景だった。床は、胴の切り口から溢れる血に濡れていた。


 幾人かの男の笑い声が折り重なっていたようにも思う。

 あれは、自分に向けられたものだったろうか。


 だから、おかしいのだ。おれは死んだはずなのに。


 この暗闇と、目覚めた理由を確かめたい。

 二度寝する気にはなれなかった。二度死にたい人間がどこにいる?

 不可思議な好奇心が田辺を突き動かしていた。


 残っているのは、きっとこの頭だけ。だから動けたとしても、玉みたいに転がるのがせいぜいに違いない――


 そう結論しかけたが、田辺には別の感覚が宿りはじめた。自分の首と繋がる何かがあるという感触を、体があるかのような実感を、田辺は覚えたのである。


 何か大きなものに包まれていた。硬い。中身の詰まった硬さであった。重たい鎧をまとったような、そんな外皮であると覚えた。冷たさもある。無機質な……鉄、それと、プラスティック……?


 おれのからだは、からだと呼んで良いものは、どうやら肉の体ではないらしい。

 それなら、臓腑ぞうふは何で出来ているのか。身体があるのなら、内臓は?


 次第に鮮明に働きはじめた意識を、田辺は身の隅々にまで向けた。


 おおっ! あったぞ……。

 硬い外皮の内側には、湿った柔らかなものが詰まっていた。


 懐かしい。これは、肉だ。おれの、人の身体を形作る肉が置かれている。

 だが、細切れだった。田辺のからだはなぜか肉片となって、箱詰めされたように、今感じている鉄の身体に納まっていたのだ。


 いくつか足りないものもあると田辺は気づいた。心臓に、腎臓。肝臓もない。

 どうやら、金に変えられる臓器はすべて、取り除かれているようだった。

 腕や足は残っていた。骨も備えている。ただ胴体には繋がっていない。狭い箱に納まるように、肩や股関節で切断されていた。胃や腸の類は肉片の隙間を埋める緩衝材のように、乱雑に詰めこまれていた。


 売られずに済んだ自分の体の部位が納められたこの場所――これは何かに似ているなと、田辺は思った――腐らぬように肉などを保存しておく文明の利器。あれに似ている――そうだこれは、冷蔵庫だ。


 食材を入れ、並べ、整頓し、長持ちするよう冷やして保存する、電気仕掛けの大きな箱。どうやら大きさからして、一般家庭用のものらしい。


 だが正しい用途のために、この冷蔵庫は使われていなかった。


 通電していない。冷蔵も冷凍も効かないのだ。電源の存在も感じなかった。

 ばらばらにされた田辺であったモノたちは、部位の区別なくただ雑多に押し込められただけだった。


 ともかく……目覚めたおれはもう人ではない。どうやら、冷蔵庫になったのだ。

 ひとつの冷蔵庫として、おれは目覚めた。生まれ変わりか、それとも宿りなのか。


 新たな戸惑いと問いが田辺の心に渦巻いた。冷蔵庫としての身体を得たおれは、田辺茂たなべしげるとは、いったいどのような存在であるのか、と。


「我思う、ゆえに我あり」は、冷蔵庫になったとて変わりはしなかった。白物家電となった人間という奇妙な自覚であっても、自らの存在そのものを疑うことはできないのだ。ゆえに冷蔵庫としての正しい有様ありようを、田辺は考え始めた。


 冷蔵庫とは――何かを冷やす、凍らせる。保存する。

 何かとは? 食料だ。人が生きるための糧である。だから冷蔵庫は、生前の自分のためにあり、一緒に暮らしたはずの家族のためにあり、同類の白物家電たちにおいては、広く世のため人のために存在する。


 ならば。冷蔵庫は、ただそこにあるだけでは、意味が無い。

 単なる無機物の箱であっては、なんの価値も得られないのだ。


 冷蔵庫としての在り方を自覚して、田辺は人と共に在りたいとの願いを得た。

 それに、ばらばらの人肉詰めというこの異常な状態も正す必要がある。

 どことも知れない闇の中で、じっとしているだけではいけないのだ。

 早くこんな場所から、おれは抜け出すべきなのだ――


 大きな四角い身体を、田辺はよじろうとした。冷蔵庫には手足がない。代わりに扉があった。総身に意識を通わせると、冷蔵庫の扉を動かせるのではないかとの手ごたえを得た。庫内に宿した腐れた肉たちは、田辺の〝動きたい〟という想いに応えて脈動した。動け動けと念じるたびに、肉たちは力強さを増してゆき、冷蔵庫の扉はまるで筋肉に支えられた外骨格のように、田辺の意志で自在に開閉した。


 身の内の肉を激しく収縮し、扉の開け閉めを繰り返した。ひどく骨の折れる作業であったが、根気よく田辺は動き続けた。そのうちに、小さなひびが大きく割れていくように、硬い表皮を外から押し固める何かが、次第次第に崩れていった。


 身を捩り、兵士が匍匐ほふく前進するかのように、田辺は必死に重い質量の闇の中を進んだ。早く外へ出て、ここが何かを確かめたい――その一心であった。


 どれほど時間が経ったのかは定かではない。ふいに、田辺の四角い体は戒めから解放されたかと思うと、ごつごつとした斜面を転げ落ちていった。痛みはなかったが、金属が打ち合う激しい音と振動が、鉄と肉とを伝わって田辺の意識を揺さぶった。


 やがて騒音と打震だしんの嵐は止んだ。静寂が訪れた。冷やりとした平らな場所に、田辺は背を向けて放り出されていた。背面に柔らかく、じめっとして、ひんやりとしたものを感じた。ずっと感じていた鉄錆の匂いのかわりに、土の香りを嗅いでいた。


 しばらく休んで筋肉の疲労を抜いてから、田辺は肉片たちを震わせて勢いをつけ、身体を横転させた。扉を下にして腹ばいになった。次に扉を跳ね開けて、反動を使って大地の上に屹立した。


 立ち上がりはしたが、外を見ることは叶わなかった。田辺の視界に在るのは、変わらず暗い闇だった。


 田辺の頭は冷蔵庫の一番下の引き出し、野菜室の中にあったのだ。

 もっとよく外を見たい、ここがどんな場所であるのかを知らねばならない。

 身体全体を動かせたのだ、引き出しを開けることぐらい、造作もないはず――


 田辺は再び、肉片たちに命じた。野菜室の引き出しを内から押し開けと。歪んで建付けが悪くなっていたが、ぎちぎちときしむ音をたてながらも、大ぶりの野菜室はどうにか外へと押し出された。


 一緒に詰め込まれていた肉を動かし、田辺は自分の頭を押し上げた。野菜室の陰からにょっきり生えるみたいにして、田辺の頭はやっと外の世界を覗き見た。


 今は夜だということを、田辺はようやくに知った。夏の夜であった。

 頬を撫でる外気が心地よかった。汗のかわりに、血が乾くのを感じた。

 目を凝らした。目は、見えた。

 小さな明かりが暗い空いっぱいに散らばり、またたいていた。


 だが田辺が目にした光景は、決して気持ちのよいものではなかった。

 田辺がもがきながら出でた場所――そこは瓦礫の山だった。


 星明りと月明かり。静謐な自然の光が、無数に積み上がったゴミたちを照らしていた。鉄くず、砕けた鉄筋コンクリート、割れたガラスに腐った木材、まともに捨てれば金を喰うばかりの粗大ゴミたち。様々なメーカーの冷蔵庫もあった。


「まさかとは思っていたが……やはり、か」


 身体を刻まれ冷蔵庫の中に詰め込まれた田辺は、不法投棄の産業廃棄物で造られたぼた山の中に、埋められていたのである。


    §


 おれもゴミ同然ということか。

 心中で独り言ちる田辺であったが、このままゴミとして朽ち果てるつもりはなかった。形を変えたとはいえ、せっかく拾った命である。


 だが果たして、自分は冷蔵庫としての役目をはたせるのだろうか。


 まずはどんな状態であるのかを、確かめねばなるまい。どこかに鏡はないか?

 しかし、ゴミ山のどこを見渡しても、姿見になるようなものは見当たらなかった。割れて欠片となったガラスが散乱するばかりで、大きな冷蔵庫の全身を映せるほどのものはどこにも無い。


 ふと、田辺は「自分の目で直接確かめればよいではないか」と、思いついた。野菜室の引き出しを開けて頭を出し、ぼた山を肉眼で見たように。頭を持ちあげて冷蔵庫の身体に顔を向ければよいだけではないかと。


 どうにもまだ、おれはこの身体の扱いに慣れていないらしい。ついつい、人であったころの記憶の名残に引っ張られてしまうようだ。人間なら、自分の頭だけを持ちあげて自分の身体を確かめることなどできはしない。だが、今の自分であれば――


 肉片に意思を通わせ腸を呼び寄せた。肉を芯にして腸を絡めて長縄を結い、即席の触手とした。頭部に残された首筋に触手の先を絡めてみた。出来はまるで妖怪ろくろ首だなと、田辺は苦笑した。


 首付きの触手に意識を向けた。頭というのは人体でも重たい部位である。これをもたげて自在に動かすには少々工夫と練習が必要だったが、田辺はすぐにコツを掴んだ。人外としての存在に、田辺は知らず知らずのうちに馴染み始めていたのだ。


 首を触手で宙に漂わせるのに慣れたところで「よし、見てみるか」と、田辺はおもむろに、冷蔵庫の全体が見渡せるよう頭を宙に掲げた。


 冷蔵庫に顔を向け――危うく頭を地に落としそうになった。落胆したのである。


 硬い素肌は、ぼた山の中でし掛かっていた他のゴミから流れ落ちた錆汁にまみれていた。外装のプラスティックはところどころ欠け落ち、亀裂から鋼板と断熱材のウレタンが覗いていた。扉を開けて庫内を確かめて、田辺はさらに絶句した。


 引き出しや扉の内側にある腐った肉たちの様子は、想像以上に悍ましいものであった。赤黒い肉にはウジがたかり、腐れた汚液に濡れていた。これでは一緒に積まれていた粗大ゴミより、酷いではないか。匂いに敏感でないことだけが救いだった。


 膝があれば、田辺はその場に崩折れていたかもしれない。

 だが冷蔵庫の身では……ただ茫然と、佇むことしか出来なかった。


 ――おれがいくら望んだところで、人の死骸を詰め込まれ、朽ち果てた冷蔵庫を望む人なんて、いるわけがないじゃないか。少し考えれば、すぐに分かりそうなものなのに。無邪気に、人の役に立つ冷蔵庫になりたいだなんて。


 おれはなんてバカなのだ。おとなしく二度寝して、もう新たな目覚めなど迎えなければよいのだ。目覚めてしまったのは、きっと何かの間違いだろう。おれはあの世に行き損ねて、たまたま冷蔵庫の中で目覚めてしまっただけの愚か者。そうに違いない。もう諦めて、元居たぼた山の中で――


 すっかり意気消沈し身を震わせて、ぼた山に身体を向け直し、にじりだそうとして。田辺は動きを止めた。いや、待て……。


 なぜ、そんな未練がましい想いを、おれはいだいてしまったのだろう……?


 蘇ってしまったおれは、やはり何かこの世に、大きな未練を残していたのではないのか? 死んでも死にきれないという、強い想いがおれをこの世に繋ぎとめていたのではないのか。あるいはそれとも、深い怨みを。


 ぼた山に潜り込むのは止めだ。もしも未練が深くあるのなら、おれは瓦礫の中で永遠に目覚め続けてしまうかもしれない。安らかな眠りなど、この世が果てるときまで訪れないかもしれない。

 であれば、やることはひとつ。未練の根を絶たねばならぬ。

 なぜ、未練を残して死んだのか。おれは理由を、知らねばならぬ――


 決意を新たにした田辺は、ぼた山を背にして歩み始めた。

 腐肉たちを庫内で左右に揺すりながら、肉たちを弾ませると、右・左・右・左……と少しずつ少しずつ、身体を前に進めることができた。


 歩みは遅く、まるで赤子か老人のようだった。

 一晩が経ち、二晩が経った。不法投棄の隠し場所に選ばれるような山中だ。道らしい道はなく、昼日中でさえ人とすれ違うことなど一度としてなかった。あるのはときどき、山野の獣がいるくらい。それらもしかし、田辺の異様を見るや、一目散に逃げ去った。


 そうして、遅い歩みを進めて幾晩目かの深夜のこと。


 田辺はトラックに、轢かれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る