第4話『お付き合いしている男性がいます』

第四話:静かなる宣戦布告


「実は…。」


リビングの空気は、いつにも増して張り詰めていた。前回の「結婚の定義会議」から数週間。父は、相変わらず新聞に囲まれ、母は、時折、庭の花に水をやりながら、静かに佇んでいる。睦実は、姉である私の「マンション借りる」という宣言に、まだ納得がいかない様子で、事あるごとに私に絡んでくる。


「で、お姉ちゃん、そのマンション、もう契約したの?」


「もうすぐ。仕事に集中できる、いい場所が見つかったの。」


「ふーん。でも、なんだかんだ言って、やっぱり寂しくなったりしないの?一人でいると…」


「寂しくないよ。仕事で忙しいし、それに…」


私は、そこで言葉を区切った。話題を「結婚の定義」から、さらに一歩進めようか、それとも、このまま「個」の拠り所を築くことに集中するか。迷っていた、その時だった。


「それに…」私は、意を決して、口を開いた。「実は、結婚を考えている男性が、います。」


リビングに、静寂が訪れた。父は、新聞から顔を上げ、眉をひそめた。母は、庭の緑から視線を外し、驚いたように私を見た。睦実の、口に含んでいた茶菓子が、床に落ちそうになった。


「えー!!!」


睦実の、甲高い悲鳴が、部屋中に響き渡った。その声には、驚き、戸惑い、そして、かすかな興奮が入り混じっていた。


「姉さん!まさか!いつから!?どんな人なの!?」


睦実は、一瞬にして、前回の「マンション騒動」のことなど忘れ、私に詰め寄ってきた。


「えっと…最近、知り合ったの。仕事関係で。」


「仕事関係!?」睦実の目は、さらに輝きを増した。「どんな仕事してるの?お姉さんの仕事、理解してくれる人?」


「うん、彼は、私の仕事にも、私の考え方にも、すごく理解があって。」


「えー!それは、すごい!じゃあ、その人、お姉さんの『結婚の定義』も、受け入れてくれるの?寝室別とか、マンション借りるとか、そういうこと…」


睦実の質問は、的を射ていた。私が、ここまで「個」を貫き、結婚という形に疑問を呈してきたのは、単に孤独を愛する人間だったからではない。それは、将来、もしパートナーができた時に、私自身の人生を、私自身の価値観を、大切にしながら、共に歩んでいきたい、という願いがあったからだ。


「そう。彼とは、そういう話も、少ししたんだ。」私は、少し照れながら答えた。「彼は、私の考えを、否定しなかった。むしろ、『それは、君らしいね』って、笑ってくれたんだ。」


父が、静かに口を開いた。「それで、その男性は、姓をどうするつもりなんだ?お前は、自分の姓を、変えるつもりなのか?」


父の質問は、やはり、姓に関するものだった。彼は、結婚は「家と家」を結びつけるもの、という考えを、まだ捨てきれていないようだった。


「父さん、私は、自分の姓を変えるつもりはありません。」私は、父の質問に、まっすぐ答えた。「彼も、それを理解してくれています。そして、私達は、お互いの姓を、尊重し合おうと話しています。」


「尊重…また、その言葉か。」父は、ため息をついた。「しかし、結婚となれば、手続きも色々あるだろう。社会的な常識というものもある。」


「だから、前回の会議で話したように、私達なりに、その「常識」と、自分たちの「定義」の間で、どう折り合いをつけていくか、話し合っていくんです。」


「話し合っていく、ね…」父は、まだ納得がいかない様子だったが、それ以上、強く反対はしなかった。


母が、静かに言った。「ななみ。その方と、一度、お会いしたいわね。」


「えっ、お母さん!?」睦実が、驚きの声を上げた。


「ええ。お母さんも、あなたの結婚のこと、心配していたから。どんな方なのか、直接お会いして、お話を聞いてみたいわ。」母は、穏やかながらも、強い意志を持って、そう言った。


「ありがとう、お母さん。」私は、嬉しかった。母の言葉に、私の「結婚の定義」への、理解への一歩が、見えた気がした。


「でも、姉さん!その人、お姉さんの「マンション」のことも、大丈夫だって言ってくれたの?寝るところ、別々でも、全然平気なの?」睦実が、まだ、結婚の「形」について、最大限の疑問を投げかけてきた。


「うん。彼は、『君が、一番心地よく過ごせる場所なら、それでいい』って言ってくれた。」


「えー!すごい!そんな人、いるんだ!」睦実の目は、キラキラと輝いていた。「私、お姉ちゃんの結婚、応援する!だって、お姉ちゃん、幸せになれるって、確信できるもん!」


睦実の、素直な笑顔を見て、私は、少しだけ、胸のつかえが軽くなった。


父は、まだ新聞に目を落としたまま、時折、娘たちの会話に相槌を打っている。しかし、その表情には、以前のような、完全な拒絶の色は、薄れていた。


「結婚…か。」父が、独り言のように呟いた。「昔とは、ずいぶん違うものになったんだな。」


「お父さん、時代は変わったんだよ!」睦実が、元気に答えた。


私は、父と母、そして睦実の顔を見回した。結婚という、家族にとって、そして個人にとって、大きな出来事。その「定義」は、未だ、定まりきっていない。けれど、私には、私なりの、そして、これから出会うであろうパートナーと共に築き上げるであろう、「結婚の形」がある。


「私、彼と、もっと、色々なことを話したい。」私は、静かに、しかし、確かな決意を込めて言った。「そして、私達なりの「結婚の定義」を、見つけていきたい。」


それは、静かな宣戦布告だった。家族という、一番身近な「社会」への、そして、これまでの「常識」という名の壁への。私の「結婚」の物語は、今、新たな局面を迎えたのだ。

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