忘れられないひと

 皐月。


 街は新緑の季節を迎え、若葉の香りが漂うようになった。もう夏が近い。それなのに、東京に季節外れの雪が降ったのかと勘違いしてしまった。それくらい、綺麗だった。


 東京、北区。王子駅からバスで10分ほどの閑静な住宅街。小さな川のすぐそばに建つ、15階建てマンションの10階。川を挟んだ向こう岸には、スーパーとコンビニが見える。


 朝起きてリビングのカーテンを開けて、初夏の清潔な朝日と純白の眩しさに目を細めた。鍵を解除し窓を開けて、私はバルコニーに飛び出した。


 すごい。真っ白。雪が積もったみたいに、満開になった。バルコニーの端から端まで隙間なく並ぶ、ビターチョコレート色で横長長方形のプランター。そのプランターの中を所狭しと埋め尽くし、朝日をたっぷり浴びて、緩やかな風に揺れていたのは、純白色のレインリリーだ。


 三日三晩降り続いた昨晩までの雨は嘘だったかのように上がり、抜けるような青空が広がった。向こうに見える大通りの街路樹。新緑の葉が朝日を跳ね返して光る。綺麗な朝だ。


 私は新鮮な朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。そして、満開のレインリリーを眺めていると、肩を叩かれて振り向いた。お母さんだ。


「おはよう、真央」


 お母さんは、今日も顔色が良い。


〈おはよう〉


「ご飯できたよ。食べよう」


 私は頷き返しながら、レインリリーを指さした。


〈見て、すごいね! どうして? 昨日はこんなに咲いてなかったよ〉


 バルコニーのレインリリーは、たった一晩で一気に開花したのだ。


「咲いたね。ほら、雨が上がったから」


 とお母さんは3日ぶりの青空を見上げて、とても嬉しそうに笑った。お母さんは抗がん剤治療後も再発はなく、元気に毎日を過ごしている。


「お母さんね、このお花が好きなの。ほら、前に住んでいた家の庭にも、咲いてたでしょ」


 バルコニーに出て来たお母さんはプランターの前にしゃがみ込み、一輪のレインリリーの花びらをつんと人さし指で突いた。恥ずかしそうにはにかむ人間のように、純白の花が揺れる。お母さんの隣にしゃがんで、訊いてみた。


〈どうして、この花が好きなの?〉


「知りたい?」


 私が頷くと、お母さんはくすぐったそうに笑って、実はねえ、と今度は嬉しそうに教えてくれた。


「真央が生まれて直ぐに、耳が聴こえないことが分かってね。お母さん、真央に申し訳なくて」


 レインリリーたちがまるで「うん」と頷いているように、風に揺れる。


「五体満足に産んであげられなくてごめんねって、毎日、泣いてばかりいたの。真央に申し訳なくて、毎日、苦しかった」


 そんな日々が続いていた、ある日のこと。それは、うららかな春の日で、悲しみに暮れていたお母さんが庭を覗くと、そこにはせっせと何かを植えているお父さんの背中があったそうだ。そこで、お母さんは声を掛けた。


「何してるの?」


 振り向いたお父さんは、頬に土をべったりと付けて、にっこり笑った。


「ちょっとね。こっちにおいでよ」


 呼ばれたお母さんは、しぶしぶ庭に出た。


「お花、植えたの?」


「そう。きっと凄いぞ。雨が降ったあと、この庭は花でいっぱいになる」


 その時、お母さんは思ったらしい。なにが花よ、と。この人はどうしてこんなに暢気でいられるんだろう。男の人ってみんなこうなのかな。私は真央のことで頭がいっぱいなのに。父親って、どこの家庭でもこんな感じなのかな。暢気で能天気で、妻がこんなに悩んでるのに、お花だなんて。なんて暢気なんだろう。そう思ってイライラしていると、お父さんは言ったそうだ。


 レインリリーという花だってさ、と。


「お母さんね、言ってやったの。だからどうしたの、って。私はあなたみたいに暢気に花を育てる時間も余裕もないわ、って」


〈それで? お父さん、何て言ったの?〉


 すると、お父さんは、どうしたんだよ、聡子さとこ。なにそんなにカリカリしてるのさ。なにをそんなに焦ってるんだよ、そう言って、びっくりするくらい大きな口を開けて笑ったらしい。


「この花はね、ってお父さんが教えてくれたの」


 お母さんがとても穏やかな表情で、風に揺れる白いレインリリーを見つめた。


 この花はね、悲しい雨の後に一気に咲くんだよ。雨の後にいっせいに策から、レインリリーという名前が付いたんだってさ。


「それで、お父さんが言うの」


 聡子は、真央を、不幸な子だと思う? 僕は父親として、そうは思わないけどなあ。


「真央は、絶対、レインリリーのような子になるよ、って」


 確かに、真央は耳にハンデを持って生まれて来たから、必ず、人より苦労すると思うけど。でも、その苦労を乗り越えたあと、一気に幸せが訪れると思うんだ。そう思わない?


「真央は不幸なんかじゃないよ、って、お父さんが言ったの」


 なんだか、目の前に咲き誇るレインリリーに顔向けできなくてうつむくと、お母さんが私の顔を扇ぐ。見ると、お母さんは雨上がりの空に負けないくらい、すっきりとした表情をしたいた。


「あの時、お母さんとお父さんは、真央の生命力を信じることにしたの」


〈生命力?〉


 こくりとお母さんが頷いた。


 ねえ、聡子。真央の生命力を信じてみようよ。見てよ、ほら。そう言って、お父さんは庭からリビングの中を指さした。そこにはベビーベッドがあって、柵の隙間から庭先を見る、私の姿があったそうだ。


 耳が聴こえなくても、笑ってるじゃないか。見てよ、あんなに楽しそうに。真央は笑ってるじゃないか。雨上がりには必ず、幸せが一気に咲くよ。そう言って、お父さんはレインリリーの球根を植えたばかりのまだ殺風景な、春の日差しが降り注ぐ庭を背に、こっそり泣いていたのだと、お母さんが教えてくれた。


「だから、お母さんはこのお花が大好きなんだ」


 真央の方が大好きだけどね、とお母さんが私の頬に手をお伸ばす。ハンドクリームの優しい香りが私の頬を包み込んだ。


「あの頃は本当に小さかったのに。大きくなったね、真央」


 ほんの少し、泣きそうになった。バルコニーに迷い込んで来た風が、満開のレインリリーを揺らした。


〈何、急に。私はもう子供じゃないんだから、当たり前でしょ〉


 笑うと、つられたようにお母さんも笑った。


「そうだよね。真央はもう、22歳だもんね」


 朝日がバルコニーに燦燦と差し込む。空は青く、雲はゆったりと流れて行く。あれから、もうすぐ3年の月日が経とうとしている。あの海辺の町を離れて、3年。19歳だった私は、22歳になった。きっと、時間が全てを解決してくれると思っていた。


「いろんなことがあったね」


 お母さんの両手が言うを、時が解決してくれると信じて、私は今日までを過ごして来た。だけど、いくら時を重ねても、あの頃を思い出すとやっぱり胸が苦しくなる。誤魔化すように笑って肩をすくめると、お母さんが肩を叩いてきた。


「いろんなことを乗り越えて来たじゃない、真央は」


 そうなのかなあ。これは、乗り越えたことになるのだろうか。私は濁しながら、小さく頷いた。しゃがみ込んだまま、膝を抱き締めて、空を見上げた。この街は、

時間の流れが早いように感じる。19歳だった私が、あっという間に22歳になっていたように。ゆっくりと時間が流れていたあの町とは比べようがないくらい、早い。


 だから、私はこの3年を生きてこれたのかもしれない。時間の流れの早さについて行くのがやっとで、過去を振り返っていたら、ひとり取り残されるような気がして。必死に前だけを見て、過去を振り返らないようにした。


 この街へ来た翌日には、スマホを解約し、新しい番号で契約し直した。迷っている暇はなかった。それしか、方法が思いつかなかった。もう、全部全部全部、何もかも全てを。順也と静奈との絆や、幸や中島くんと育んだ友情も。何よりも健ちゃんと過ごした日々と、あの町に残して来たままの恋も。全てを切り取り、切り離す。それしか思いつかなかった。


 何もかも捨てよう。断ち切ってしまおう。全部忘れなければ。忘れて、無かったことにしよう。それが、19歳の私にできた唯一の方法だった。辛くて、大きな決断だった。


 連絡を取っていれば、いずれまた、たまらなく恋しくなる瞬間が来る。遠く離れているからこそ。あの海辺の町が、大好きなみんなのことが、恋しくてたまらなくなるに決まってる。そして、会いたくてたまらなくなる。簡単に会えるような距離ではないからこそ、会いたくなる。甘えたくなる。


 何よりも、健ちゃんへの想いは膨らむ一方になると思った。だから、私はすべての関係に終止符を打つことにした。


 何も順也や静奈とまで連絡を絶たなくてもいいのではないかと、お父さんもお母さんも言ってくれたけれど、私がそういうわけにはいかなかった。そして、幸が紹介してくれた先輩という人物にも頼らないことにした。その人が幸と繋がっていることは、明らかだったから。


 そこでのこのことお世話になったら、せっかく断ち切ろうとしている決意が、全て水の泡になる。私の所在はいとも簡単にばれて、結局はみんなと連絡を取ることになるのは明確だと考えた。だから、SNSもアカウントを作らない。


 大人になろうと思った。


 すべてにピリオドを打って、しなやかに飄々と歩ける大人に。


 順也のような頼りになる存在がなくても、静奈のような大親友が隣にいなくても。幸や中島くんのような、同じ夢を追い掛ける仲間がいなくても。健ちゃんのように、陽だまりのような居場所がなくても。


 ひとりでもしっかりと胸を張って歩いて行ける、そんな強い人間になろうと思った。


「真央。ご飯、食べよう。冷めちゃう」


 手話をして、お母さんが立ち上がる。頷いて、私も立ち上がった。初夏の風が頬をなでる。お日様がゆっくり、高く昇り始めようとしている。


 ここは、建物が高くてぎゅうぎゅう詰めの街で、野原も海も見えないけれど、とても綺麗な街だと思う。バルコニーから下を見ると、登校していく学生や出勤する社会人が、せかせかと歩いて行くのが見える。


 朝日を受けて輝く街路樹の若葉。見上げればわりと近くに青空が広がっている。今日も街が忙しく動き出した。


 私は夢だった栄養士を諦め、短大を退学した。といっても除籍という形ではあるけれど。そして、ろ両親の傍で暮らす道を選んだ。俗に言うぷうたろうにはなりたくなかったから、毎日毎日、何件ものお店に足を運んで面接を試みた。


「え、そうなんだ。耳聴こえないんだ」


 けれど、聴力障がい者の私を受け入れてくれるところは、そう簡単には見つからなかった。


「うちは、接客業だから、申し訳ないけれど」


 耳が聴こえない、しゃべれないのに、資格ひとつ持っていない。そんな私を社会が簡単に受け入れてくれるはずがなかった。だけど、そんな時に意外な巡り逢わせがあった。


「真央、落ち込んだ時は、美味しいものを食べるに限る。良いお店があるの。ね、行こう」


 きっかけは、他でもないお母さんが言い出したことだった。


「嫌なことなんて忘れちゃうくらい、何を食べても最高に美味しいんだから。騙されたと思って、ついて来なさい」


 そこは小さな空間だった。4人しか座れない狭いカウンター席と、2つしかないテーブル席。あとは丸見えの厨房。キャンドルライト並みのぼんやりとした、でも、暖かい明かりを放つ小さなシャンデリア。白と黒のシンプルな色合いの店内。


 キッチン・タケハナ。そこは、こじんまりとした洋食屋さんだった。キッチン・タケハナはお母さんが通っている大学病院の近くにあった。定期受診の帰りに、お母さんがご褒美として必ず立ち寄るという、行きつけの洋食屋さんだった。


「マスター、こんにちは」


「ああ、武内さん。いらっしゃいませ」


 そこにはまだ20代後半から30代前半ほどの若い男性がいて、たったひとりで切り盛りしているようだった。お客さんは私たち以外にはいなかった。


 いい匂い。オリーブオイルと、スパイスが絶妙に溶け合った芳ばしい香りが漂ってきた。


「お待たせ致しました」


 と注文したパスタを運んで来た彼は笑顔ひとつなく、絵に描いたような不愛想だった。もったいないなと思った。こんなにお洒落な雰囲気のお店なのに、こんなにも不愛想な店主じゃお客さんも入りずらいよ、と思っていた矢先だった。


「マスター、あのね」


 お母さんが突飛な行動に出たのだ。


「この子、私の娘なの」


「確かに、良く似ていますね」


「そうでしょ、良く言われるの」


 楽しそうに笑うお母さんとは対照的で、マスターはつまらなそうに私を見ていた。


「この子、料理が得意で。あ、耳が聴こえないんだけど、舌は確かなの。本当よ」


「はあ」


「だからね、マスター」


「はあ」


「ここで、娘を雇ってくれない?」


 一瞬、時が止まったような、そんな空気が漂った。さすがに無表情だったマスターも、一瞬、目を丸くした。私だって同じだ。何を言い出すかと思えば。まさか、お母さんがこんな突飛な一面を持っていたなんて。驚いたというより少し引いてしまったくらいだ。


「この子、栄養士を目指していたから、短大にも通っていたし。あ、でも中退したけど。あ、理由は訊かないでね。でも、料理の腕は確かなの。カロリー計算もできちゃうし」


 まるで、新人アイドルを売り込みでもするかのように、お母さんがマスターに直談判に出たのだ。もちろん断られるに決まっている。いくらなんでも、地球がひっくり返ってもあり得ないことだと思った。だから、私は明太子パスタをもぐもぐと食べ続けた。これが、絶品だったのだ。美味し過ぎる。がっつくように食べる私に、マスターがこんな事を訊いて来た。


 この明太子ソースには、レモン汁と昆布茶が隠し味に入っているが、それとあとひとつ入っているものがあるのだが、それは何か。それを当ててみろ。というものだった。直ぐに分かった。柑橘や穀物酢とはまた違う、独特の濃厚な酸味と甘みが隠れていたからだ。


「え、そんな無茶ぶり。マスターは意地悪ね。真央、分かる?」


 お母さんはとても面白くなさそうに、私の顔を扇いだ。でも、私は久し振りにわくわくした。中島くんと味付けのことでいつも言い合っていた調理実習以来の、わくわくだった。私はお母さんに微笑んだ。


「蜂蜜の梅干し、だって」


 お母さんが通訳して伝えると、マスターの細い目が2倍に大きくなった。マスターの唇が動く。


「採用」


 地球が、ひっくり返ってしまった。


「明日から来てもらえると助かる。大丈夫?」


 私がおそるおそる頷くと、マスターが手を差し伸べてきた。


「じゃあ、よろしく」


 その手を握りながら、思った。綺麗な手だ。それが、武塙秀一たけはなしゅういちさんとの出逢いだった。


 彼は不思議な大人だった。私の障害を全く気にしないのだ。


「耳が聴こえないのは、そんなのはどうにかなる。味覚が確かな相方がちょうど欲しかったところだ。きみの舌が確かだと判断した」


 東京での暮らしが始まって、半年が経っていた。私は、キッチン・タケハナで働き始めた。


「キャベツを、千切りにしてくれ」


 真っ白なコックコートにすらりとした長身の身を包み、寡黙に調理をするマスターは開店前から閉店後まで常に不愛想。


「次は玉ねぎを、微塵切りにしてくれ」


 でも、根は親切な人だった。私に何かを指示したり伝えようとする時は、きちんと手を止め私の目を見て、ゆっくり大きな口で話してくれた。あるいは筆談で。面倒がらずに、伝わるまで、とことん。


 私は耳が聴こえないし、マスターは手話が分からない。会話といえば私は筆談やスマホを使って、マスターの口の動きを読み取る。業務中にこれは大変かもしれないと思っていたけれど、実際はそうでもなかった。料理に会話はそんなに必要なかった。それを教えてくれたのが、武塙秀一だった。


「内陸で、極寒地だよ。でも、とても美しいところだ」


 28歳の独身で、北海道の美瑛びえい町出身。背は高く、ツーブロックのお洒落な髪型で、涼し気な一重まぶたの塩顔のマスターは、マダム層のお客様からとても人気があることが、働いて行くうちに判明した。


「冬の、良く晴れた朝は、ダイヤモンドダストが見れる」


 マスターは普段は無口だ。だけど、質問したことにはきちんと丁寧に答えてくれる。


――ダイヤモンド?


「知らないのか、ダイヤモンドダスト。いつか見せてやりたいな」


 マスターと一緒にいると、なぜだか妙な安心感があるのだった。


 真冬の空気のような、とても澄んだ透明なオーラを持っている。マスターはそういう人だった。


「ダイヤモンドダストを見ると、世界が違って見えるようになる。それくらい綺麗だ」


 そういうマスターこそ、綺麗な空気のような人だった。性格は分かりやすく、外見はいつも清潔感あふれる、飾り気のないシンプルな人だった。どこか氷のように冷たくてぶっきらぼう。でも、手を大切にしている。仕事というよりは料理に誠実で真っ直ぐで、とても正直な人間だった。


「親はもういない」


 幼い頃に不慮の事故で両親を失い、唯一の身内であるおばあさんに育ててもらったとマスターは教えてくれた。


「ばあさんには、本当に感謝してる。寝る間を惜しんで、働いて、育ててくれた」


 悲しい過去が原因で、うまく笑えなくなったと言っていた。


「だから、別に、怒ってるわけじゃない。嫌な思いをさせていたら、すまない」


 18歳でイタリアに留学をして、レストランで修業を積み、26歳で日本に戻ってこのお店を開いたという。


「手抜きだけはしたくない」


 マスターは、料理に、何よりも自分自身に厳しい人だった。キッチン・タケハナで働くようになって、私の日常はずいぶんと変わった。悶々としていた毎日が嘘だったかのようにとても充実し始めたのだ。


 私は、ますます料理が大好きになった。


 マスターと同じ空間で夢中になって料理をしていると、心が凪いだ波のように穏やかになった。


 生まれ育ったあの海辺の町のこと。大切な人たちのこと。健ちゃんのこと。

忘れることはなかったけど、深刻に考えることがなくなっていった。そして、思い出さなくてもいいように、毎日を忙しくした。


 春になったらうちも東京に行くと幸は言っていたけれど、ドラマや映画みたいに、実際に街中で出くわすことなど無かった。でも、これで良かったんだと思えるようになった。本当にもう、真っ新な気持ちで前に進むことができる。そんな気がしていた。


 いろんなものや関係が少しずつ、長い歳月をかけて変化していく。私たち人間は子供から大人に成長する。その中で数えきれないほどの出逢いと別れを経験する。泣いて、笑って、成長していく。


 嬉しかったことも辛かったことも、いつしかそれが過去と言う時間に変わり、心にミルフィーユのように降り積もって行く。


 あの恋は、私の大切な宝物だ。それもいつしかキラキラ輝くものになって、私の心の片隅に一生残っていくのだ。


 気付けば、キッチン・タケハナで働くようになって1年半が経っていた。そんな時、思いがけないことが起きた。起きたというよりは、降って来た感じに等しいかもしれない。それは2カ月前、陽射しがまだやわらかい3月のことだった。


「きみを好きになった。付き合ってくれないか」


 返事は急がない、とマスターが真顔で言ってきたのは、その日の閉店直後だった。何時にもまして無表情だったから、あ、これは本当なんだなと思った。


「突然、こんなこと言って、ごめん」


 どこまでもシンプルな人だと思った。告白の仕方も、飾り気のない言葉も。笑顔はないし、照れくさそうな仕草ひとつない、何もかもがシンプルな人だ。


 もちろん、翌日すぐにお断りするつもりで、その日は帰宅の途についた。五体満足のマスターとろうあの私ではお話にならない。もう、同じことを繰り返すわけにはいかない。誰と恋に落ちようが、交際しようが、私を待っている結末は同じに決まっているのだから。


 もう、あんな思いは二度としたくない。


 翌日、返事を書いた手紙をマスターに渡すことにした。閉店後、手紙を渡すためにマスターの肩を叩いた。


――返事を書いて来ました


 スマホと手紙を一緒に差し出すと、


「え! もう?」


 とあのどんな時も無表情で感情を表に出さないマスターが、オロオロし始めた。私までつられてオロオロしてしまいそうになるほど、オロオロするマスターに戸惑った。


「早くないか? よく考えたのか?」


 いつも括淡として仕事をこなし、どんなことにも感情の起伏なく整然としていて、奉然自若な人なのに。そんな彼が大切な大切なフライパンや鍋を、ばらまくように床に落とし、何もないところで躓き、洗浄消毒したばかりの食器をまるでなぎ倒すように落とす。


 それだけじゃない。まだ熱湯がたっぷり張ってあるお鍋をひっくり返したのだから、私は肩をすくめて思わず強く目を閉じた。おそるおそる目を開けると、こじんまりとした厨房内は湯気に包まれ、床は水浸し。まるで空き巣にでも入られた後の部屋のように、あらゆるものが散乱していた。


 そひて、マスターは力尽きたように、水浸しの床にしりもちをついたのだった。唖然とするほかなかった。取り乱すマスターを初めて見た。


 ひっくり返ったままのお鍋を起こそうと手を伸ばした時、マスターが私の手首をつかんだ。


「悪かった。返事が怖かったんだ。本当に、好きなんだ」


 いつ振りだったのだろう。


「黙々と仕事を頑張るきみを、いつの間にか、目で追い掛けるようになってしまった」


 突然姿を消したはずだったあの子たちが、私の心臓に再び戻って来たのだ。


「頑張り屋さんだなと、思って」


 耳が長くて、目は真っ赤で、ふわふわもこもこの真っ白なうさぎが、ひとつ、飛び跳ねた。


「可愛いなと思って。気付いたら、好きになっていた」


 マスターの目がとても真っ直ぐで、胸が締め付けられた。私は小さく笑って、スマホを差し出した。


――どんな音ですか?


「え? 音?」


――お鍋がひっくり返る音

  フライパンが落ちる音

  食器が割れる音


 スマホ画面を見つめていたマスターがハッとした様子で、厨房内をぐるりと一周見渡して、くすぐったそうに微笑んだ。


「うわ……ひどいな、これは」


 笑った。


「貸して」


 そして、私からスマホを取り、こう打ち込んだ。


――どんがらがっしゃーん


「耳が痛くなるくらい、ひどい音だ」


 とマスターが両耳を塞ぐジェスチャーをして、苦笑いした。私も同じジェスチャーを真似て、笑った。マスターの笑顔を見たのは、出逢ってからこの時が初めてだった。その時ふと気付いた。マスターは、順也と同じ優しい空気を纏っていることに。子供の様に純粋無垢にやわらかく笑う人だった。


「情けないところを、見られたな」


 いつも、どんな時も毅然としている人が、こんなふうに動揺するんだなあ。そうなってしまうくらい、真剣に想ってくれていたのかと思うと、申し訳なくなった。仕事先が決まらず、右往左往だった私の生活を変えてくれたのは、マスターだったのに。


「返事は、だいたい、予想がついてるから。ありがとう。読ませてもらう」


 と手紙をコックコートのポケットに押し込み、ひっくり返ったお鍋を片すマスターの背中を、愛おしいと感じた。なぜだか、無性に。だから、私はスマホに文字を打ち込んだ。ひとつ、深呼吸をして、マスターの背中を叩く。


 マスターが弾かれたように振り向いた。


「何だ? どうした? 大丈夫か?」


 3個連続で質問されて、私はとうとう可笑しくてたまらなくて、吹き出してしまった。


「どうした? どうした?」


 それは、私がマスターに言いたいセリフなのに。こっちが訊きたいくらい取り乱しているのはマスターなのに。不器用な人なんだなあ。私はスマホを差し出した。


――手紙返してください

  軽率でした

  もう一度真剣に考えるので時間をください


「……ということは、この返事は絶望的だったってことか」


 ポケットに手を突っ込んで手紙を取り出したマスターは叱られた子犬のように、小さくなった。


「好きな人がいるのか?」


 私は苦笑いして、首を振った。そして、そっと目を逸らした。それ以上訊かれたくなかった。過去を掘り起こされることが、怖かった。


 前夜、私は手紙にこんな返事を書いた。




私にはかつて恋人がいました。

陽だまりのような人でした。

でも別れなければいけませんでした。

彼の幸せを願うなら当然のことでした。

もう同じことを繰り返したり、迷惑をかけたくありません。


好きだと言ってもらえたこと、とても嬉しかったです。

だけど、お付き合いすることはできません。

ごめんなさい。





 顔を上げると、マスターと目が合った。先に逸らしたのはマスターの方だった。私はマスターからまだ未開封の手紙を奪い取るように取り返し、それをふたつに裂いた。


「何も、裂かなくても」


 一重まぶたの目を大きく見開いたマスターに、私はスマホを突き出した。


――今度は真剣に考えますから

  時間をください


 「分かった。気持ちが固まったら、返事をくれるといい」


 それにしても大失態だ、と散乱した厨房の片付けを始めたマスターとの距離が一気縮まったのは、春の始まりの月が綺麗な夜だった。目が冴えるような明かりではないし、眠りを誘うようなしっとりとした明かりでもない。不器用な、月明かりだった。


 その日、帰宅してからそのことを打ち明けると、お母さんは言った。


「真央の気持ち次第だと思うけどな。武塙さんは、とても誠実な人だよ」


 お母さんは、ちょっと、嬉しそうだった。


「もう、いいんじゃない? あれからもう3年だよ。前に進んでもいいんじゃない?」


 今がそういう時期ってことなんじゃないかな、とお母さんは言い、ソファでことりとうたた寝をしてしまった。私は、お母さんにブランケットを掛けながら、ぼんやりと思った。そうか。もうそんなになるんだ。真剣に悩んで考えて、失礼のない返事をしよう。


 それからちょうど一週間後のことだ。武塙ミヤという女性に会った。マスターの祖母だった。マスターの話を聞いた彼女が、一度私に会ってみたいと、わざわざ北海道から東京へ出て来たのだった。


 マスターの祖母がキッチン・タケハナに着いたのは、昼のかきいれ時もひと段落した、午後の3時頃だった。


「どうもどうも。秀一が、お世話になってます」


 もうとうに70を過ぎているのに、足取りもしっかりとした、藤色の着物がとても良く似合う、小柄で古風な女性だった。


――武内真央です

  お世話になっているのは、私の方です


 目が見えにくいときいていたから、紙に油性マジックで大きく書いて見せた。紙を見た後、ミヤさんは目じりにしわをたくさんためて、にっこり微笑んだ。


「真央さん。あんたは、耳が聴こえないんだとなあ」


 頷く私に、ミヤさんはへんな顔ひとつしなかった。マスターとは正反対の二重で大きな目。だけど、痩せこけたしわしわの顔。真黒で印象的な瞳が、じっと私を捕らえる。


「うん。秀一の目に、狂いはねえな」


 え? 、と首を傾げてみせると、ミヤさんはわっはっはと大きな口で豪快に笑うのだった。


「その耳のことで、苦労したんでないの? んだべ? んだけど、強い目をしてる。なまら、美人さんだなあ」


 ミヤさんは反対などしなかった。


「こんだら美人さんは、なかなかいねえど。美瑛だと、藤本んとこの長女くらいかなあ。なあ、秀一」


「さあ、どうだべね」


 藤本んとこの長女とか、ローカル過ぎるべよ、とぶっきらぼうに席を立って厨房に入って行ったマスターを見て、ミヤさんがニタニタ笑った。


「あんだあれ、バガでねえが。体はでっけえのに、まだまだ子供だなあ。なあに照れでんだあ。とっちゃん坊やだな」


 な、真央さん、とミヤさんが顔を近付けてくる。


「うるせなあ。おれは子供でねえ。もう、ニジュウハチだ」


 むっとした顔のマスターが、ミヤさんにコーヒーを出してまた厨房に入って行った。その後ろ姿をみて、私とミヤさんは同時に笑った。ミヤさんは言った。


 秀一は不愛想だけど、根は優しい子なんだよ。どうか、愛想を尽かさないでやって欲しい、と。あんたがその気なら応援するから、と。私はてっきりミヤさんは反対だと言いに上京したのだと思っていたから、拍子抜けした。


 ――私は、耳が聴こえないんですよ


 紙を見たミヤさんは「それがどうした」と笑い飛ばした。


「大丈夫だ。真央さんは、幸せになれる。秀一も」


 そうなのだろうか。私は素直に頷くことが出来なかった。だけど、そんな私にお構いなしに、ミヤさんは続けた。


「年寄りの言うことは素直に聞け。あんたらより長く生きてるババが言ってんだからよ。本当だ」


 嘘なばつかねえ、そう言って、私の手を握ったしわしわの両手は、ホッカイロみたいにほかほかと温かかった。凍てついていた私の頑固な心が、じわじわと溶けだしていくようだった。


「秀一のことは気にするな。あんたの気持ちがいちばんだ。あんたが、秀一とだば幸せになれると思ったら、一緒になればいんだがら」


 降り積もった雪が、少しづつ溶けだしていくように、優しく穏やかな気持ちになったのは、本当に久しぶりのことだった。


「秀一じゃ、自分が幸せになれねえと思ったら、やめればいいんだがらよ」


 ミヤさんもまた、透明で真っ直ぐな人だった。


「真央さんが幸せになれる道を、選ぶんだよ。いいか。約束だよ」


 ミヤさんの手があまりにも温かくて、頷きながら、少しだけ泣いてしまった。


 マスターのことは好きだ。でも、それは仕事の上司として尊敬の気持ちだ。この気持ちが恋愛感情に発展していくのかは、見当もつかない。だけど、もしかしたら、そういう日が来るのかもしれない。根拠なんてなかったけど、そう思った。


 




「そう。武塙さんのおばあさんが」


 その日の夜、お母さんが複雑な面持ちで言った。


「あの頃と今は違うよ、真央。あの頃は無理だったかもしれない事も、今は無理じゃないかもしれないもの」


 あの頃、私たちはみんなまだ若くて、まだ責任もとれない微妙な時期で。お互いに必死で、頑張ることを頑張り過ぎて、疲れてしまったのかもしれない。確かに、3年前とは違うのかもしれない。


 深い深い迷いの中で、私は真剣に考え始めていた。けれど、私が何かを求めようとすると、必ず、違う何かが逃げて行くのだ。私がようやく歩き出そうとする道は、いつだって突然、複雑に入り組んだ迷路に変わってしまうのだ。


 私が何かに挑戦しようとすれば、必ず、大きな壁が目の前に立ちはだかる。うまく行きかけると、いつも、目の前を何かで塞がれてしまう。私の前に続いているはずの道は、いつだって唐突に、ふたつにみっつに枝分かれしてしまうのだ。


 マスターの告白から、2カ月が経ったある日の朝、朝食を終えてお父さんが出勤して行ったあと、お母さんが訊いてきた。


「いつまで、武塙さんを待たせるの? あまり待たせるのも、失礼なんじゃない?」


 分かっている。2カ月だらだらと引き延ばしていたわけではない。本当に真剣に悩んでいたら、2カ月が過ぎていたのだ。


〈分かってるよ〉


 真剣に気持ちを伝えてくれたマスターに、失礼のないよう、私なりに真剣に悩んで出した気持ちを伝えよう、そう決意した矢先の出来事だった。そして、その出来事と同時にあってきたのは、彼女との再会だったのだ。


 私に、新たな決断が迫っていた。





 キッチン・タケハナは午前11時に開店する。定休日は、週の真ん中の水曜日。買い出しや仕込みがあるため、マスターは朝8時には厨房に入る。見習いの私は10時に出勤する。


 青空の下、キッチン・タケハナの前に立ち、私は首を傾げた。開店1時間前だというのに、ドアは鍵が掛かっていた。窓から店内を覗いてみたけれど、どこにもマスターの姿が見当たらないのだ。


 おかしいな。いつもなら、厨房には真っ白な制服を身にまとったマスターの姿があるのに。こんなことは初めてで妙な胸騒ぎがした。私は合鍵でドアを開けて店内に入った。


 やっぱり店長の姿はなかった。仕込みをした形跡はおろか、店内へ入った感じもない。食器の位置も、調理器具の位置も前日のままだ。おかしいな。マスターにラインメッセージを送ろうと思い、鞄からスマホを取り出した瞬間だった。店のドアが開いて入って来たのは、酷い顔のマスターだった。


「あ、すまない。遅くなったな」


 私を見るや否や、


「疲れた」


 マスターは力尽きた旅人のようにふらふらとテーブル席に向かい、崩れ落ちるようにチェアに座った。


「寝てなくて」


 一体、何があったのだろう。本当にひどい顔だ。腫れぼったい目の下はくまが出来ていて、いつも澄んだ色をしている瞳は、痛々しいほど充血している。たった一晩で、ひどいやつれようだ。声を掛けたいのに、掛けれずにいると、マスターが言った。


「今日は、臨時休業だ」


 驚いた。定休日以外に休んだことなんて、今まで一度だってなかったのに。お盆もお正月も、台風が上陸しても、休んだ日はなかった。


「きみに、謝らなければならないことがある」


 マスターは疲れ切った様子を一変させ、表情をキリリとさせて、その事実を私に告げた。


「キッチン・タケハナは、閉店することにした」


 真っ直ぐで迷いのない、目だった。


「ばあさんが、倒れた」


 マスターの口の動きを読んだ時、背筋に電流が走った。足のつま先から、一気に力が抜けて行くのが分かる。


「いつか、こんな日が来ることは、覚悟していたんだ」


 しんどそうに時々言葉を詰まらせながら話すマスターの口元を、私はただ茫然と眺めていた。


「昨日今日の話じゃない。もうかれこれ、5年になる」


 信じられなかった。ミヤさんがこの店に来た時、とても元気そうに見えたのに。そんなふうには、見えなかったのに。


「もともと、呼吸器が弱い人でね。肺のがんを患っているんだ。昨晩、遅くに、美瑛の親戚から、電話があって」


 ステージ4。他の臓器やリンパにまで転移していて、もう、長くはないそうだ。長くて、半年だって。マスターの唇を読みながら、私はミヤさんの温かい手の感触を思い出していた。


 マスターに肩を叩かれて、ハッと我に返る。


「今さら、親孝行ってわけじゃないけど。今さら、もう……遅いけど」


 まるで助けを求めるように、マスターが私の手をつかんだ。


「ばあさんは、おれの、たったひとりの身内なんだ。だから、出来る限り、一緒の時間を作りたい」


 例えそれが、限られた時間でも、とマスターは言った。私の手を握るその手は、大人の手とは思えないほど、小刻みに震えていた。


「今月いっぱいで、ここは閉める。来月には、美瑛に帰ろうと思ってる」


 本当に申し訳ない、とマスターが深々と頭を下げる。私はふるふると首を振った。こんな時、家族の傍に居たいと思うのは、当たり前だ。


 それと、とマスターが続ける。


「来て欲しい。北海道に、一緒に、来て欲しい」


 あまりに突然のことで、固まるしかなかった。頷くことも、首を振ることもできなかった。ただ、瞬きを数回繰り返した。


「返事は今すぐ何て言わないよ。告白の返事と一緒でいい」


 今月中にもらえるとありがたい、とマスターは言い、自信なさげに小さく苦笑いを浮かべた。


 5月いっぱいは変わらず営業するし、今日明日に閉店するわけでもない。5月末日を持って閉店し、6月に入ったら徐々に整理して、店を不動産屋に明け渡し、北海道に帰る予定だとマスターは言った。そして、スケジュール帳を開き、その日を指さした。


「とりあえず、この日に、東京を発つつもりだから。きみが一緒に来てくれる確率は、低いだろうし、期待はしてない」


 長くて綺麗な人さし指が差したのは、雨の季節の真ん中あたりだった。


「でも、ほら、奇跡が起こらないとも限らない」


 6月14日。日曜日だ。あと一か月後か。


「あ、いや、急がないから。返事は来月の頭にでも、きかせてくれればいいから」


 私の心は右に左に、ぐらぐらと揺れ動いていた。


「きみひとりの問題じゃないだろうから、ご両親にも」


 なんだかもう頭がいっぱいになってきて、途中でマスターの唇から目を逸らし、文字を打ち込んだスマホを差し出した。


――何か冷たい物を買ってきます


「え、待て、冷たい物なら」


 私は鞄に手を突っ込み財布を取り出して、急いで店を飛び出した。


 どうすればいいのか、分からなくなった。本当に分からなくなってしまった。マスターとこの先の未来を歩んでみようと考え始めた矢先だったから、そんな時に今度は一緒に北海道へだなんて。分からない。


 店を飛び出してしまったのは、少し冷静になりたかったからだ。次々と決断がやって来て、わけがわからなくなってしまった。道の真ん中に立ち止まり見上げた空は、いつの間にか今にも泣き出しそうな鉛色だった。朝はあんなに綺麗な青空が広がっていたのに。なんだか、私の心のような色だ。


 私は、大きな重たいため息を吐き出して、のろのろと歩き出した。


 お父さんお母さんと離れて暮らすのはもう嫌だ。それに、たとえ北海道に行ったところで、いきなりマスターとうまくやっていく自信もない。断ればいいだけのことだ。でも、私がここまで悩んでしまうのには理由があった。


 店主と従業員。私たちの間にはそれ以外に何もなかった。だけど、最近、私はあることに気付いたのだった。これは恋愛感情なのかも、それさえわからないけれど。私にとって、武塙秀一という人は、確実にかけがえのない存在になっていたのだ。だから、揺れてしまうのだ。


 私は、キッチン・タケハナからほんの数分のところにあるコンビニに入り、店内をうろうろしていた。商品を手に取っては元の位置に戻す、を繰り返す。一体、何をしに来たのか分からない。買いたいものがないのだ。オレンジジュースもアイスティーもコーヒーも。全部、キッチン・タケハナにある。あわよくばアイスだってシャーベットだって、ジェラートだってある。


 ばかみたいだ。私は手にしていた缶コーヒーを元に戻して、コンビニを出た。帰ろう。マスターが待ってる。きっと心配してる。来た道をとぼとぼと歩いていると、頬に冷たい感触があった。顔を上げると、鼻の頭に雨粒が落ちて来た。


 降って来ちゃった。


 腕で顔を覆い走り出す通行人。辺りに傘が咲いて行く。おひさまの光を吸収して乾いていたアスファルトが、じわじわと濃い色になって、どこか焦げ臭いような香りが立ち上って来る。


 今日の雨は、どんな音なのかな。


 手のひらで雨粒を受け止めるながら立ち尽くしていると、前から走って来たサラリーマンと衝突してしまった。でも、その人はぶつかったことにさえ気付かないかのように、さっさと走り去ってしまった。


 この街は本当に忙しそうに時間を刻んでいく。ずっと向こうに小さく飛鳥山が見える。雨に濡れながら飛鳥山が次第に霞んでいった。緩やかだった雨はいつしか本降りになっていた。その瞬間、ふと、脳入りをかすめたのは、いつか誰かがした手話だった。


 真央、時雨は優しい音がするんだ。


 ハッとして、私は駆け出した。本降りの中を夢中で走った。何かを振り落としそうな勢いで、走った。怖かった。思い出してしまいそうで怖かった。キッチン・タケハナの前まで来た時に、ようやく立ち止まった。マスターの姿を見たら、急にほっとした。


 ウロウロ、ウロウロ。「close」のプレートが下がっているドアの前で右へ行ったり左へ行ったり、立ち止まってみたり。今度はスマホを見つめて難しい顔をしたり。店先でマスターがそわそわしている。マスターが私を見つけた瞬間、目を大きく見開いた。


「お前! びしょ濡れじゃないか」


 大きな口で言いながら、雨の中へマスターが飛び出して来た。


「どこまで行って来たんだ? とにかく、中に入れ」


 そして、私の腕を掴んで店の中へ引き入れた。


「うわ、このままじゃ風邪引くぞ。ちょっと待ってろ」


 マスターは休憩室から大きなタオルを持って来て、私の髪の毛をわしわしと豪快に拭き始めた。髪の毛先から雨が飛び散る。


「風邪引いたら大変だ。今日はもう帰ろう。送っていくから」


 私はじっと見つめながら、マスターの腕を掴んだ。マスターと目が合う。


「おい、どうした?」


 どうしたんでしょうか。私、どうかしてますか。雨が降って来た時、怖かったんです。私は、マスターの目をじっと見つめた。マスターは、雨は、好きですか?


「なんだ、泣きそうな顔して」


 今、この街を濡らしている雨は、どんな音ですか?


「そんな顔するなよ、真央」


 初めて、マスターが私を名前で呼んだ瞬間だった。


 真央。私の目から、唐突に、涙がこぼれた。正確な理由は分からなかった。でも、なぜだか無性に泣きたくて、どうにもならなかった。突然降り出した雨が、そうさせたのだ。雨が降り出したあの瞬間。


 真央。おれたちに何かある時は、いつも、雨だな。


 怖かった。だからあの瞬間、私は駆け出したのだ。思い出しかけた両手に背を向けて、一目散に。あれは、思い出してはいけない両手だ。もう、思い出しちゃいけない。


「おい、なんでそんなに、泣いてるんだ」


 いつだってそうだ。雨が、私をそうさせる。雨が降るたび、何かが、私を過去に連れ戻そうとする。もし、一度でも戻ってしまったら、もう今には戻って来れなくなりそうで、怖い。怖くて、私はマスターの腕にしがみついた。手が、震えた。


 私に何かがある時は、決まって雨が降るんです。雨が、私を過去に連れ戻そうとするんです。雨の日は、いつも切なくて苦しいんです。思い出してはいけない人を、思い出しそうで、怖いのです。雨が、私を、過去に連れ戻しに来るんです。


 うつむいた私の顔をタオルで包み込みながら、


「真央」


 とマスターが上を向かせる。頬を伝って行くのが雨なのか、涙なのか、もう判別できなかった。


「北海道に戻ったら、また洋食屋を開くつもりだ」


 ゆっくりと、マスターの口が言った。


「一緒に、来てくれないか」

  

 私でいいの? 耳が聴こえなくても? それでも、私を必要としてくれるの?


「ダイヤモンドダスト、一緒に見よう」


 ダイヤモンドダストは、雨を忘れられるの?


 マスターの顔が近付いてくる。私は静かに目を閉じた。でも、すぐそこにあったマスターの気配がふと消えた。目を開けると、マスターがドアの方を見ていた。


「すみません。今日は、臨時休業なんです」


 とタオルを私の首に掛けて、マスターがドアの方へ向かって行った。ふと我に返って、一気に顔が熱くなった。湯気が出ているかもしれない。今、お客さんが入って来なかったら、私は……。タオルで髪の毛を拭くふりをしながら、マスターの後姿を盗み見る。マスター越しに、栗色の髪の毛がちらりと見えた。


 その次の瞬間だった。マスターの身体を片腕で横に追いやり、すらりとした人が飛び出した。私の手から、雨に濡れた財布がつるりと滑り落ちた。栗色のボブヘアの女性が、固まる私の前に立ちはだかった。


 心臓が、大きく、飛び跳ねる。彼女の、華奢な両手が動く。


「見つけた」


 その整った顔立ちは、たちまちくしゃくしゃに歪み、相変わらずの大粒の瞳は涙でいっぱいになった。


「やっと、見つけたで」


 関西弁の口の動きと、首元にキラキラ輝くお星さまのネックレス。もしかして、が確信に変わった。


「真央」


 幸との3年ぶりの再会だった。幸は、泣いていた。


「見つけるまで、えらい時間かかってしもたわ。ほんまに、大変やったんやで」


 泣きながら手話をする幸の背後で、マスターが私を見つめていた。固まる私の手を、幸が確かめるように握った。


「元気やったんか?」


 自分の表情が歪んでいくのが手に取るように分かった。私は、幸の手を強く握り返して、しっかりと頷いた。


「そうかあ。せやったらええんや。安心した」


 どちらからともなく、私たちは抱きしめ合った。まるで離れていた3年間を慌てて埋めようとするかのように、きつく抱きしめ合った。幸からは雨の匂いがした。一気にあの頃が、私に中であふれだしてしまった。


 マスターの気遣いで、私たちはテーブル席で向かい合っていた。3年ぶりの幸は、大人びて可愛いとはもう言えず、美しくなっていた。


「これから、仕事に行くとこやったんや」


 もともと細い腕がしなやかに動き、私に語りかける。


「そしたらなあ、そこのコンビニから出て来た真央を見て、腰抜かすか思うたわ」


 上京してからいっぺんも会えんかったのになあ、と幸は目元の涙を指で掬った。


「うち、幻でも見てるんちゃうか思うてな。せやけど、うちには直ぐに分かったで。間違いない思うた」


 できればもう会わない方が良かったのかもしれないと思った。でも、こればっかりは、どうにもできないことだと思う。出逢う時には出逢ってしまうし、再会する時は再会してしまうのだ。何年経っていようが、どんなに時間が過ぎてしまっていようが、会ってしまう時は会ってしまう。


 もう会えないと思っていても、もう会いたくないと思っていても、もう会わないと心に決めていたとしても。会ってしまう人には、どこかで必ず、会ってしまうものなのだ。


 必然的にそのタイミングで。


「うちな、コンビニからずっと、真央のことつけて来たんやで」


 順也でも静奈でもなく、他の誰でもない。私の場合、それが幸だったのだと思う。


「ほうかあ。ここで、働いとったんやなあ」


 ええ雰囲気やん、と幸が店内をぐるりと見渡して、微笑む。その笑顔は3年前とひとつも変わっていなかった。


「どうぞ。今日は特別」


 マスターが淹れたてのコーヒーを私たちに出してくれた。


「あ、おおきに」


 こくりと頷いて、オープンキッチンになっている厨房に入って行ったマスターを小さく指さして、幸は両手でこそこそと言った。


「不愛想やんな。なんやあれ。怒ってるん?」


 まるでひそひそ話でもするかのような手話に、思わず笑ってしまった。私はふるふると首を振った。


〈怒ってないよ。いつもあんな感じ〉


 ふうん、と幸はもう一度マスターをちらりと見て、もったいないやん、とため息を吐いた。


「イケメンやのに、あんな仏頂面やったらモテへんやんか。もったいないで、って言うてやり、真央」


 無愛想で客が怖がるで、と言いつつ、幸はコーヒーを啜った。


〈私も、いつも、そう思う〉


「な! せやんなあ!」


 幸と笑いながらマスターを見ていると、視線を感じたのか、話題の人が振り向いた。マスターは私と幸を見て、きょとんとしている。なんだ? 、と首を傾げるマスターはちょっとだけ、間抜けだった。


 幸が私の顔を扇ぐ。


「なんで、うちらと連絡とれんようなことしたんや。なんでなん」


 もう、今さらこの期に及んではぐらかしは、通用しない。私は素直に正直な気持ちを幸に伝えることにした。


 あのまま連絡を取り続けていたら、前に進むことができそうになかったこと。そうでもしなければ、乗り越えられそうになかったこと。


 そして、他にいい方法が思いつかなかったということも。


「せやったんか」


 幸は怒らなかった。でも、寂しそうに笑った。


「まあ、な。真央の気持ち、全く分からんわけちゃうけどな」


 そう手話をしたあと、ほんの少しだけ肩をすくめて、幸が続けた。


「あの後なあ、大変やったんやで。みんながな、それぞれな、ほんまに大変やった」


 私も肩をすくめた。


「真央も大変やったと思うけどな。静奈も、順也くんも、うちかて、大変やったんやで」


 こくりと頷く私を見て、幸は優しい微笑みを浮かべた。


「うちな、今、この近くの、老人福祉施設で、栄養士の仕事しとんねん」


〈先輩のお店で、働いてるんじゃないの?〉


「ああ、働らいとったで。上京してから1年くらいな。せやけど、辞めたわ」


 幸の先輩の勧めだったらしい。せっかく栄養士の資格があるのだから、生かすべきだと。うらやましいと思った。資格を生かして仕事をしている幸が、輝いて見えた。


「ところで、真央はどないなんよ」


 と幸が訊いて来た。


〈どうって?〉


 訊き返すと、決まっとるやん、とニカッと笑い、オープンキッチンの中で作業するマスターを指さした。


「あの男と、どないな関係なんや。真央のか?」


 そして、幸が親指を立てるジェスチャーをして、今度はニタニタした。


〈コレなんて古いよ〉


「はぐらかさんでもええやんか。どないなん」


 なんと答えたらいいだろうか。彼氏でもなんでもない。でも、確かにマスターは大切な人だし、北海道へ一緒に来て欲しいと言われた。


「さっき、なんや、ええ雰囲気に見えたからなあ」


〈彼は〉


 今の状態を包み隠さずそのまま正直に伝えると、急に、幸の顔付きが真剣になった。


「行くんか、北海道に。どないするん」


〈まだ決めてない。迷ってる〉


 私の両手を見て「そうかあ」と背中を丸めた幸は、どことなく安堵したようにも見えた。


「彼は、真央の」


 幸の瞳はあの頃と変わらず、丸くて綺麗で真っ直ぐで、吸い込まれそうになった。


「大事なひとなんやなあ」


 恋なのか、恋じゃないのか。それさえ、自分自身がいちばん分からなくて困惑しているのに。大事な人だということが、幸に分かるの。


〈どうして、そう思ったの?〉


 やって、そうなんとちゃうん、と幸が微笑む。


「北海道やで。そんな遠いとこに行くの迷うとるっちゅうことは、そういうことちゃうん」


 難しい顔をして首を傾げると、幸は眉毛を八の字にして笑った。


「何とも思うとらん男に、今の生活を投げ出してまで、着いて行く女なんかおらん。迷うとるんはそういうことちゃうん」


 確かに。そうなのかもしれない。


〈でも、恋なのか、異性として好きなのかと訊かれたら、分からない〉


「なんや、それ。好きなんとちゃうんか」


〈分からない〉


「なあ、真央。ほんまは、まだ……」


 と言いかけた言葉を飲み込むように、幸は一瞬両手を止めて、あからさまに「せやけど」と話題を変えた。


「大切な人のことで、悩まん人なんか、おらんで」


 幸の言った言葉の裏側に、どんな意味が隠れていたのかなんて、能天気な私はまだ気付けなかった。


 あの海辺の町を、陽だまりを、自らの意思で捨てて来てしまった私には、分かるはずもなかった。


 どんな返事をすればいいのか分からず、うつむいた私の肩を幸が叩く。顔を上げると、幸は包み込むような微笑みを浮かべていた。


「うちも、ぎょうさん迷うたよ。迷うたし、悩んだ」


〈何を?〉


「旬のことや」


 あの後、幸は幸で、前に進もうとしたのだろう。


「旬がな、好きや言うてくれてな。そのままでええよ、嵐士のこと想うてるうちでええんや言うて。好きや言うてくれてな」


 幸は、中島くんの気持ちを受けようとしたらしかった。


 ほんまに嬉しかったんやで、と幸は言い、でも切なそうに笑った。


「せやけどな、どうしても、あかんかった」


 結局、中島くんとは続かなかったらしい。


「旬のこと、傷付けるだけ傷付けて、そんで、終わってもうた」


 幸は言った。中途半端な気持ちで、誰かの人生に着いて行ったらあかんよ、と。


「誰かの人生に着いて行くんやったら、本気で、全力で着いて行かなあかん。その人に失礼やん」


 そう言って、幸は首元のネックレスに触れた。


「うち、なんぼしても、嵐士のこと忘れられへんよ。どうしても無理や」


 忘れようとすればするほど、忘れることなんてできんかった。そう言った幸の両手は、なぜだか泣いているように見えた。


「真央には、うちと同じことして欲しくない。同じ思いさせたないねん」


 幸は、出逢った時からそうだった。ずばずば、思ったことを言う。さっぱりしていて、さばさばしていて、真っ直ぐ、想いを両手でぶつけてくる。


「真央がほんまに彼のこと、思うとるんやったら、なんも言わんし応援したる。せやけどな、中途半端な気持ちなんやったとしたら、真っ向から反対や」


 幸が言っていることはもっともなことだった。


「あ、ちょっと、ごめんな」


 その時、幸に電話があったようだった。手短に話し終えた幸は、


「職場の同僚からやったわ」


 と顔の前で両手を合わせるジェスチャーをした。


「ごめんな。待ち合わせしとったんやった。これから仕事やねん、うち。遅番。遅刻してまう」


〈大変、急いで〉


 窓の外に視線を投げると、本降りだった雨は小降りになって、西の空が明るくなり始めていた。立ち上がった幸がハッと思い出したように、鞄に手を突っ込んだ。


「せやった。あかんあかん。せっかく会えたっちゅうに、肝心なもん忘れてまうとこやったわ」


〈なに?〉


「あんな、これなんやけど」


 幸が差し出して来た物は、純白の二つ折りのカードだった。それも、なぜか3枚ある。


「良かったで。今年は間に合うたわ」


 今年は?


「早う、受け取ってや」


 首を傾げながら3枚のカードを受け取った私に、幸は「真央のせいやで」と満開の桜のように笑った。そして、3本指を立てて、突き出す。


「3度目の正直って、このことを言うんやな。今年がその3度目うやで」


 開いてみい、と幸に促されて、1枚目のカードを開いてみることにした。開いて、目を見開いた。


拝啓 牡丹の花が咲き誇る今日この頃。

皆様にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

さて、このたび、私たちは結婚する運びとなりました。


 慎重に息を吐き出しながら、2枚目のカードを開いてみる。全く同じ内容の文章が綴られてあった。今度は3枚目を開いた。やっぱり3枚全て同じ内容だった。でも、カードを持つ手が、指が、震えた。小刻みに震える私の手に、幸が手を重ねてきた。


「なんで、真央が泣かなあかんねん」


 あほやんなあ、そう言って、今度は春風のように微笑んだ。自分のことのように、それ以上に、私は嬉しくてたまらなかった。嬉しくて、勝手に涙があふれて来る。


〈結婚するんだね〉


 せやねん、と幸が頷く。


〈どうして、3枚もあるの?〉


 訊いた私の額を人さし指で軽く突いて、幸は呆れ顔だ。


「日付、よう見てみい」


 3枚の日付を2回見直して、私は固まった。私の……せいなんだね。


「せやから、言うとるやんか。真央のせいやでって。真央の、せいや」





拝啓 牡丹の花が咲き誇る今日この頃。

皆様にはますますのご清祥のこととお喜び申し上げます。

さて、このたび、私たちは結婚する運びとなりました。

私たちふたりの門出を見届けていただきたく、人前結婚式を行いたいと思います。

なお、挙式のあとにはささやかながら披露宴の小宴を催したいと思います。

お忙しい中、誠に恐縮ではございますが、是非ご出席くださいますようご案内申し上げます。                  

                 敬具




          記


日時  令和〇年 6月14日(〇)


人前結婚式    午後2時より

披露宴      午後4時より


場所


人前結婚式    セントマリンチャペル

披露宴      リストランテ・アンジェ

 

 

           令和〇年 5月吉日


          笹森順也  長澤静奈




 ほんまにあんたらには振り回されっぱなしや、と幸は苦笑いした。


 「真央がおらんと結婚式なんかしたない、言うてな。去年も、一昨年も。式場、キャンセルしとんのやで」


 キャンセル料もバカにならんて、と幸が続ける。


「いちばん来て欲しい人が来おへんのやったら、何年でも、何十年でも、キャンセルしたる言うてきかんねやんか。静奈のあほうがな」


 なあ、真央、と幸が私の顔を扇ぐ。


「そろそろ、ふたりを結婚させたってよ。うちからのお願いや」


 涙で幸の笑顔がゆらゆら滲む。


〈私なんかが、行ってもいいのかな〉


「当たり前やんか! 当たり前やろ。真央のこと、待っとるんやで」


 私は、この3年という歳月を、一体、何の為に生きてきたのだろう。


「真央は、新郎の幼馴染みやんか。新婦の親友やないん?」


 何もかも忘れて、全部なかったことにしてしまいたくて。ただ必死にもがいていただけだ。ばかみたいだ。それでも、こんな私をあのふたりは待っていてくれたのだと知り、胸がいっぱいになった。


「な。せやから、一緒に行こうや。一緒に、帰ろうや」


 だけど、私は二つ返事で頷くようなことはできなかった。式の日が、マスターの出発予定日と丸被りしていたからだ。まだ、マスターに返事はしていないし、順也には会いたいし、静奈のウエディングドレス姿は見たいし。大好きなふたりの門出を祝福したい。


 でも、やっぱり、今の私にはできない。私は3枚の招待状を、幸に返した。


〈ごめん〉


「はあ? なんでなん?」


 あほちゃう? 、と幸の顔から一瞬で笑みが消えた。


「行かん、言うんか」


 私が頷くと、幸が眉間にしわを寄せて私に一歩詰め寄った。


「何でや」


〈私に、ふたりを祝福する資格はない〉


 だって、私は、ふたりに酷いことをしてしまったのだ。こんなにも私を思ってくれていたというのに。いつも隣に寄り添って、私の耳に、言葉に、声になってくれたふたりに、失礼では済まされないような事をしてしまった。ふたりの優しさに甘えるだけ甘えて、いざとなったらその優しさを切り捨てるように、自ら連絡を絶ってしまった。


 合わせる顔なんてない。できれば、できることなら、幸にも会いたくなかった。3年前の私を知っている人すべてに、会いたくなかった。私は震える両手に言い聞かせるように、幸に伝えた。


〈ごめんね。できることなら、もう、幸にも会いたくない〉


 私はもう、あの頃の私ではないのだ。私は3年前を忘れてしまった。捨ててしまったのだ。もう一度ごめんと頭を下げようとした、その時だった。


「どんだけあほなんや。そうやって、また、逃げるんか?」


 怒った顔の幸が私の肩に掴みかかって来た。掴まれた両肩に鈍痛が走る。顔が歪んだ。幸はまるで、般若のお面のように、怒っていた。


「また、3年前と同じやんか! 逃げるんか」


 悔しくて、悔しくて。それよりも自分が情けなくて、


〈逃げたんじゃない! そうするしかなかった!〉


 怒鳴り散らすように乱暴な手話をして、幸の両手を振りほどいた。


「逃げただけやないか! 突然、東京に行ってもうて、連絡も取れんようにしたのは、真央やんか!」


 違う! 違う、違う!


 なんだか身体が熱くて、けだるい。イライラするのに、頭が茹だるように熱い。


 〈幸に、私の何が分かるの?〉


「はあ?」


 私たちは火花が散りそうな勢いでにらみ合った。


「うちは真央やないからな、分かるわけないやん!」


 言い返せない私を、幸が片手で押し飛ばす。


「真央だけが、辛かったんとちゃうで! なんも知らんくせに、知っとるような顔すなよ!」


 幸の言ってることは最もだと思う。でも、私も分かって欲しかった。辛くて切なかった私の3年という歳月を。だから、私も幸の肩を押した。


〈私は〉


「やめろ、落ち着け」


 その時、割って入って来たのは、マスターだった。止めに入ってきたマスターを突き飛ばし、私は一心不乱に訴えた。


〈辛かった! ずっと、苦しかった!〉


 勝手に涙があふれて、頬を伝い落ちて行く。泣くつもり何て微塵もないのに、心が掻き乱れていて、どうにもコントロールができなかった。


〈諦めたくなかった! でも、諦めて、忘れるしかなかった!〉


 何をしたわけでもないのに、全力で走ったように息が上がる。呼吸が乱れ狂う。


〈頑張って忘れないと、前を向けなかった!〉


 順也、静奈、幸や中島くんとの別れは勿論、健ちゃんとの別れは、私にとってはそれくらい辛かったのだ。


「そんなん、綺麗ごとやんか!」


 幸が食い下がる。幸もまた、興奮しているのだと分かる。華奢な両肩がゆっくり上下している。


「真央はそれでええかも分からん! せやけどな、あんな別れ方されたこっちは、もっとキツイ思いしとんねん!」


 なんで分からんねや! 、と幸は大きな口で言ったあと、一歩また一歩と詰め寄って来た。


「順也くんは気丈にふるまっとったけどな、静奈は、毎日毎日、泣いとったんやで。真央と連絡とれなくなってから、毎日泣いておったわ」


 私だって同じだった。辛くて、寂しくて、心細くて、泣いてばかりいたよ。


 窓から、店内に鮮やかな西日が差し込んだ。外の雨は小降りからさらにきめ細やかな霧雨に変わっていた。


「真央が北海道に行くのは自由や。真央の人生に口出しはせんよ」


 せやけどな、と言った幸も、私も、次第に冷静さを取り戻していった。


「一度でええから、あの町に帰ろ。真央」


 どうして、幸がここまで必死になって私を説得するのか、分からなかった。


「ちゃうねん、順也くんと静奈だけちゃうねん。3年前に縛られとるやつが、もうひとり、おるんや」


 必死に説得する幸の髪の毛を、西日がまるで紅茶の色にキラキラと輝かせる。


「初めから、簡単に忘れられる恋やって、分かっとるんやったら、誰も本気の恋なんかせえへんよ」


 私は、どうしてこうバカなんだろう。誰も私の辛さを分かってくれないと、やきもきして生きていた。だけど、本当に何も分かっていなかったのは、他の誰でもない私だったのだ。


「真央が辛かったのは、十分わかっとるよ。辛かったやろ、分かるわ。せやけどな、真央」


 と、幸が言葉を詰まらせるように、両手を詰まらせる。


「せやけど、いちばんしんどかったんは、真央やないで。いちばんは、あの男や」


 身体が、硬直した。動くことが出来なかった。そこに立って、幸の両手から紡ぎ出されるメッセージを受け止めることが、精一杯だった。


「これは、真央が持っとき。今日はもう行かなあかん。明日また来るわ」


 幸が、立ち尽くす私の手に3枚の招待状を持たせる。でも、私はというとすでに放心状態で、招待状はそのまま床に落ちて散らばった。招待状に長い手が伸びる。拾ってくれたのは、マスターだった。


 できれば、マスターには知られたくなかった。3年前、私が通って来た道を知られたくなかった。可哀想だと思われるのが嫌だった。


 身体が火照る。目の前がくらくらする。息をするのもしんどくて、ふらりとよろけた。


「ほんならな。また明日」


 幸が背を向けて離れて行く。入口には背の高い観葉植物があって、そこで、幸が振り向いた。


 ああ、くらくらする。どうしてこんなに体が重だるいんだろう。吐く息も心なしか熱い気がする。私はふるると頭を振って、幸の両手の動きを見つめた。


「真央なんやないの? 忘れたい言うて、いちばん忘れられんでもがいとるんは、真央やんなあ」


 なあ、真央。一度、あの町に帰ろ。帰って、3年前のあの日に縛られとるあの男を、解放してやり。もう、自由にしてやり。


 そう言い残して、幸は店を出て行った。


 ぐらりと身体が左へ傾く。ぐるぐる回る視界の中に、いつかの懐かしい海の水面と、夕立が見えたような気がした。熱い。よろけた私は、マスターの腕に支えられていた。意識が遠のいていく。


「あ! おい」


 ぐるぐる、目が回る。回る景色の中、マスターの口が大きく動いている。


「お前、熱が……」


 え?


 次第に意識が遠のく中、ぼんやりと自分は熱があるんだなあと思った。ただ、はっきりと覚えていたのは、これから起ころうとしている何かを暗示させるような、幸の手話だった。


 なあ、真央。一度、あの町に帰ろ。帰って、3年前のあの日に縛られとるあの男を、解放してやり。もう、自由にしてやり。


 その日、私は高熱を出して寝込んでしまった。目が覚めたのは真夜中で、まだ気だるい体のままベッドを抜け出した。カーテンを開けると、外は真っ暗で雨が降っていた。雨粒が打ち付けるひんやりと冷たい窓ガラスに手のひらを当てる。


 幼い頃から、ずっと思っていた。小さなことでめそめそと泣いちゃいけないんだと。耳が聴こえない私が泣くと、みんな可哀想に思ってしまうから。だから、どうしても我慢できない時は、こっそり泣いていた。それが、本当に強い人間なんだと思っていた。


 だけど、泣くことは悪い事じゃないと、我慢することの方が駄目だと教えてくれた男の人と、過去に出逢った。彼はあっけらかんと笑う人で、陽だまりのように暖かい人だった。彼は、ライオンになりたいと願っている人だった。


 彼と私に何か出来事があったり、変化が訪れる時は、決まって雨が降った。


 ごめんね。私、自分だけがこんなに辛いんだと思っていたの。知らなかったの。あなたが、そんなになってしまうまで、苦しんでいたこと。知らなかったの。だって、あなたはきっと幸せに過ごしているんだと、信じていたから。


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