疑惑

 どうして、私は白雪姫に生まれて来なかったのだろう。


 小学1年生の頃、朝起きていちばんに思うのは、そんなメルヘンチックなことばかりだった。私は、小さい頃から絵本を読むのが大好きだった。だから、毎晩、ベッドのお供は絵本だった。


 どうせ音は聴こえないし、テレビなんてつまらない物でしかなかった。だから、いつもお父さんにおねだりをして、たくさんの絵本を買ってもらった。数多い絵本の中でも、白雪姫がいちばん好きだった。


 でも、不思議なことに、毎晩読んでいるのに、いつまで経っても結末が分からなかった。それは、毎晩、途中で眠ってしまうからだ。


 綺麗で心優しい白雪姫が森へ捨てられ、7人の小人に出逢い、そして、王子様に出逢う。なんて素敵なんだろうと、幼いながらも胸を躍らせた。でも、毎晩、私はある場面まで読むと、吸い込まれるように眠ってしまうのだった。


 魔女に変装したお妃様の毒林檎を白雪姫が食べようとしているところで、私は夢の世界へ吸い込まれた。早く結末を知りたくて、ある日、私は最後のページから読んでしまおうとしたのだ。だけど、お母さんは、そんなことしたらつまらなくなっちゃうよ、と私に言った。


 物事にはちゃんと順番と段階があるんだよ。どんなに時間がかかってもいいから、ちゃんと読み進めなきゃ、途中が分からなくなっちゃうよ。そしたら、せっかくの物語も中身がスカスカになっちゃうよ。近道ほど遠回りな道ってないんだよ。そう言われてしまった。


 だから、私は、毎晩、最初から1ページずつ大切に白雪姫を読むことにした。そして結末を知った時、お母さんのいう通りにして良かったと思った。


 だって、白雪姫と王子様が幸せになれることを知ってから、森へ捨てられてしまうことや、毒林檎を食べてしまうことを知っても、結末は決まっているからだ。


 でも、大人になると、どうしても近道を探してしまうし、選んでしまう。早く欲しい物を手に入れたい一心で、近道を選ぼうとしてしまうのだ。近道ほど遠回りの道はないというのに。




 年が明けて早々から、大きな問題が浮上した。果江さんのことだ。果江さんはまだアメリカに帰っていない。あれから結局、幼馴染みである亘さんの実家に居候の身だ。


 あの日以来、果江さんが私の前に現れることはなかった。初対面したあの日の数日後、果江さんは体調を崩し、年末に市内の大学病院に入院し、年明けに退院した。果江さんのお母さんも、もうすぐアメリカから一時帰国するそうだ。果江さんをアメリカへ連れ戻しに。


 果江さんのお母さんが来ると聞いて、私は内心ほっとしていた。このまま果江さんはアメリカへ戻れば、私と健ちゃんにも影響が出るような出来事が起きないだろうと、安易に思い込んでいた。


 穏やかに凪いだ波のような毎日が続いていくんだと、思っていた。でも、違った。


 その日は、凍てつくような氷点下の一日だった。私と健ちゃんに、またひとつ大きな変化が訪れた。





 冬休みなのにもったいないと思った。まだうす暗い朝6時に、ふと、目が覚めてしまったからだ。二度寝をしちゃおうとまぶたを閉じたけれど、どうにも目が冴えてしまって、仕方なく起きることにした。


 リビングへ下りて行くと、もう、お母さんが起きていた。でも、いつもと少し、様子が違った。朝なのにひどく疲れた顔で、ダイニングテーブルの椅子に腰かけていた。


 私は背後からお母さんの肩を叩いた。お母さんが弾かれたように振り向く。


「あ……真央。おはよう」


 お母さんの目の下はくまができていた。それに心なしか顔色も良くない気がする。心配になった。


〈おはよう。どうしたの? 疲れた顔してる〉


 お母さんは「そんなことないよ」と元気よく立ち上がり、エプロンをして笑った。


「ただ、お父さんのいびきが、すごーく、うるさくて。寝不足」


 私が笑うと、お母さんが訊いて来た。


「真央は? 今日出掛けるの?」


 私は首を振った。


「予定はないよ。どうして?」


「だって、冬休みなのに、こんなに早起きするんだもの」


 まあ、確かに、最近の私はぐうたらだ。


 健ちゃんとも2週間ほど会っていない。年末年始も会えずじまいだ。忙しい。急に用事ができた。仕事で残業だ。理由はさまざま。


 だから、最近の私はお昼前後に起きる。


「早起きだから、予定があるのかなって思ったの」


〈よく分からないけど、目が覚めちゃった〉


 大きなあくびをした私をお母さんが笑った。


「朝ご飯まで、もう少し、眠っていたら?」


 私は頷いて、部屋に戻った。ベッドにもぐりこみ、スマホをタップして、はっとした。


 1月15日。今日は健ちゃんの誕生日だ。


 私はベッドから飛び起きて、勉強机の引き出しを開けた。スカイブルー色の包装紙で丁寧にラッピングしてもらった小箱を手に取る。年末に順也と静奈に付き添ってもらって行ったショッピングモールで購入した、健ちゃんの誕生日プレゼントだ。


 最近、健ちゃんに連絡しても忙しそうで、会えないのも我慢していたけれど、誕生日くらいはいいんじゃないだろうか。


 会いたいな。


 プレゼントを見つめながら、いいことを思いついた。以前、健ちゃんからもらった合鍵を握り締める。私は部屋を飛び出して、リビングに向かった。


 いい匂い。目玉焼きのこうばしい匂いが漂っている。朝食の支度をしているお母さんの肩を叩く。


〈教えて欲しいことがあるんだけど〉






 午後15時すぎ、私は健ちゃんのアパートへ向かった。


 仕事を終えて健ちゃんが帰宅するのは、残業がなければ17時30分頃だと思う。いつも仕事が終わるとその時間帯にラインメッセージが届くから。それまでに、健ちゃんが好きな料理をテーブルに並べて、プレゼントを用意して待っていたら、びっくりするだろう。


 びっくりしたー! そう言って八重歯を見せて笑うかもしれない。


 私はそんなことを想像してうきうきしながら雪路を急いだ。


 アパートに訪れたのは2週間ぶりで、すでに懐かしささえ感じた。粉雪が薄く積もった螺旋階段をゆっくり上り、合鍵で健ちゃんの部屋に入った。


 私は、勘が良い方なのだと思う。


 ドアを開けて玄関に入った瞬間に、違和感に気付いた。匂いだ。それと、雰囲気。まだ日中だというのに、分厚いカーテンが閉まったままの、薄暗いリビング。


 閉まったままのカーテンの僅かな隙間から日の光がか細く差し込み、リビングを舞う小さなほこりを照らしていた。


 2週間、彼は本当に忙しかったのかもしれない。きれい好きな健ちゃんが、しばらく掃除をしていなかったことは、一目瞭然だった。リビングの床にはスウェットが脱ぎ捨てられたままになっていた。


 キッチンを覗くと、空になったビールの缶やコンビニのお弁当の空の容器が転がっている。きれい好きとはいえ、結局、男のひとり暮らしなんてこんなものか。私はひとつため息を落とし、鞄と料理の材料が入ったビニール袋をキッチンのテーブルに置いて、腕まくりをして気合を入れた。


 まずは、リビングの掃除からだ。まずは分厚いカーテンを一気に開ける。眩しい。窓を全開にすると、冬の新鮮な良く冷えた空気が勢いよくリビングに入って来た。床に脱ぎっぱなしのスウェットを拾い上げる。


 

 灰皿に盛り上がった吸殻。灰が灰皿の周りに散らばるほど、吸殻が山盛りになっている。こんなに山盛りにして危ないな。吸殻を片付けようと伸ばした右手を、私はとっさに引っ込めた。


 なんだろ……これ。


 灰皿の下に、手紙のような物があったからだ。健ちゃんが書いたのだろうか。まさか。だって、今日、私がアパートに来ることは知らないはずだ。引っ込めた右手をもい一度伸ばして、でも、そこまで深く考えることもせずに、その紙を引っ張った。



 けんちゃん へ


 昨日はごめんね

 亘におこられて私どうかしてた

 スペアキーはポストに入れておきます


 けんちゃん

 20歳なんだね

 Happy Birthday to you


              かえ



 あれほど掃除も料理もやる気満々だったのに、それを見てしまった瞬間、一気に落胆した。もう、何も手に付かなかった。床に座り込み、窓から入り込む冷たい風に打たれていた。


 読んだだけでなんとなく理解してしまう。たぶん、きっと、昨日、果江さんはこの部屋に泊まったんだ。スペアキーはポストにと書いてあるくらいだから、健ちゃんが仕事に行ったあとに帰ったのだろう。


 外が吹雪いていることにようやく気付いた。窓から冷たい氷の粒のような固い雪混じりの風が入ってくる。私は無心状態で窓を閉めた。そひて、手紙を灰皿の下にそっと戻した。


 疑心に満たされた目で、リビングをぐるりと見渡した。昨日、この部屋で、ふたりは何をしていたのだろう。ただ、話をしていただけかもしれない。それだけのことだったのかもしれないけれど、イライラしてむかむかして、喉の奥が締め付けられるように苦しかった。


 息をするのも億劫に思えるほど、激しい嫉妬心にかられた。


 リビングは日の入りと共に一気に暗くなり、ついには真っ暗になった。私は明かりもつけずに、ただ、リビングで呆然としていた。どれくらいそうしていただろう。しばらくして、突然、目の前がぱっと明るくなった。


 はっ、として顔を上げると、仕事の作業着姿の健ちゃんが驚いた顔をして立っていた。


「真央。電気も付けないで、なにしてんの」


 スマホで時間を確かめて自分に呆れてしまった。ここへ来た時はまだ明るかったのに。今の今までただぼんやり過ごしていた自分にため息さえ出ない。


「鍵、開いてたから、びっくりした。不用心だな」


 健ちゃんが微笑みかけてくる。でも、私は何も返さずに、ただ健ちゃんをじっと見つめ続けた。健ちゃんが不思議そうに首を傾げて私の顔を扇いだ。少しだけ雪の匂いがした。


「いつ来たの?」


 私は、嘘をついた。心の中が真っ黒だった。


〈さっき、来たばかり〉


 私が笑うと、健ちゃんも微笑んで、私の頬と手に順番に触れた。私の心臓に住んでいるはずのうさぎが元気に飛び跳ねることはなかった。


「うわ、冷てえ。待って、今ストーブつけるから」


 そう手話をして、健ちゃんはファンヒーターにスイッチを入れた。そんな健ちゃんの後姿を見ていると、なぜだか急に無性に泣きたくなった。


 健ちゃんがキッチンへ向かった。私もついて行く。ダイニングテーブルの上に置いたままのビニール袋を覗き込んで、健ちゃんが笑顔になった。健ちゃんが人参を取り出す。


「この材料、おれ、分かったかも」


〈当ててみて〉


「ハヤシライス」


 私は両手で大きな輪を作り、頷いた。


〈今日、健ちゃんの誕生日だから。お祝いしに来た〉


 私が〈おめでとう〉と手話をすると、健ちゃんは埴輪のように口をまんまるに開けたまま固まってしまった。その顔を扇ぐと、健ちゃんは照れくさそうに笑って、自分の誕生日を忘れていたのだと笑った。


 私もつられて小さく吹き出した。


「しょうがないだろ。最近、忙しかったんだよ」


 そう言って、健ちゃんは私を抱き寄せ、顔を近付けてきた。その瞬間、私は後悔した。どうしてキスを拒んでしまったのか、自分でも信じられなかった。


〈ごめん〉


 私は、傷付いた顔の健ちゃんの胸を軽く押し返して、話題を変えるように手話をした。


〈お腹減ったよね? ハヤシライス、作るね〉


 ハヤシライスは健ちゃんの大好物だ。だから、美味しいのを作りたくて、お母さんがレシピをきいて来た。健ちゃんは腑に落ちないような顔をしたけれど、直ぐに笑って「着替えてくる」と寝室へ行った。


 私は気付いていた。たった今、私と健ちゃんに溝が生じてしまったことに。でも、知らないふりをして、私はハヤシライス作りに取り掛かった。人参の皮をピーラーでむいていると、スウェットに着替えた健ちゃんが来て、キッチンの中をうろうろし始めた。


 何かを探しているようだ。テーブルの上をかき分けてみたり、食器棚を覗いてみたり。私は握っていたピーラーの角でまな板を2回叩いた。健ちゃんが弾かれたように顔を上げる。


〈どうしたの?〉


 首を傾げると、健ちゃんが訊いてきた。


「真央が来た時、鍵、開いてた?」


 心臓が飛び跳ねた。健ちゃんが何を探しているのか、分かってしまうのが嫌になる。この部屋の、スペアキーだ。そして、次の瞬間、自分のとった言動にぞっとした。


〈開いてた。鍵、閉めてなかった〉


 嘘を、ついてしまった。本当は、きちんと施錠されていたこと、果江さんからの置手紙を見つけてしまったこと、スペアキーはポストの中にあること。それを素直に教えてあげることが、私にはできなかった。


 いちばん恐ろしいのは、今、嘘をついてでも確かめようとしている自分が、ここにいることだった。


「え、開いてた? そっか」


 そう手話をしたあと、健ちゃんの唇が「おかしいな」と動いたような気がした。そのあとも健ちゃんはリビングをうろうろしたり、玄関をうろうろしていた。リビングをうろつく健ちゃんのところへ行って、肩を叩いた。


「どうした?」


 振り向いた健ちゃんが少しぎこちなく笑ったように見えてしまう。自分の両手がなぜか震えた。


〈昨日、誰か、遊びに来た?〉


 訊いて、私はこっそり唾を飲み込んだ。一拍あって、健ちゃんが首を振った。


「いや、来てない」


 ひどくがっかりした。健ちゃんが、嘘をついた。


 なんだか全てがばかばかしく思えて、自分の存在なんてプランクトンよりもちっぽけに思えた。私は健ちゃんの目を見つめ、笑いながらため息を吐いた。


〈鍵なら、ポストに中にある〉


 健ちゃんの黒目に映り込む自分が、ずるくて情けなく見えた。こんな試すような真似をする日がくるなんて。


〈鍵を、探しているんだよね?〉


 どうして、健ちゃんは、私に嘘をついたのだろう。悔しくて、悲しくて、切なかった。


 先に目を逸らしたのは、健ちゃんの方だった。


「亘だよ。亘が来た。ごめん、隠して」


 嘘つき。返す言葉が見つからない。もうひとつ嘘を増やされてしまった。


 鍵、取って来る、と健ちゃんは玄関に向かって行った。


 私の体内に真っ黒でドロドロした感情が生まれていた。鍵を持って戻って来た健ちゃんに駆け寄る。


〈嘘つき!〉


 乱暴な手話をして、健ちゃんの右手を叩いた。健ちゃんの手から鍵が落ちて、床に転がった。健ちゃんが拾う前に、私が先に鍵を拾った。そして、そのままテーブルに思いっきり投げつけてやった。


 いつもはノーコンのくせに、こんな時に限ってヒットしてしまうのはなぜだろう。鍵はテーブルの上で跳ね返り、フローリングの床をカエルのように飛び跳ね、窓辺で止まった。


「なんで、そういうことすんの。せっかく、久し振りに、会えたのに」


 それはこっちのセリフだ。


 私は健ちゃんからあからさまにテーブルの上の灰皿を寄せて、その置き手紙を健ちゃんの顔の前に突き出した。


 健ちゃんの顔色がみるみるうちに変化していく。嘘は、ばれるから、嘘なのだ。私は手紙を健ちゃんの胸に押し付けた。


〈亘さんが来たなんて、嘘! 果江さんが来たくせに〉


 私、汚い人間だったんだ。そう思った。汚いくらい、意地悪で性悪な女だ。


 違うんだ、そう言って、健ちゃんは手話をしようとしたけれど、それを遮るように、私は続けた。


〈忙しい、忙しいって。本当は、果江さんと会いたくて、忙しかったの?〉


「違うって」


〈泊めちゃうくらい、果江さんと一緒にいたかったんでしょ?〉


「違うって。泊めたのは昨日だけ。昨日は、仕方なかったんだ」


 そんな事はどうでも良くて。泊めた理由を知りたいわけじゃなくて。ただ。どうして隠したり、嘘をついてしまったのかを知りたかった。


 わざわざ亘さんを使うような真似をしてまで、嘘をついた理由を知りたかった。その理由を訊くと、健ちゃんは肩を落とし力なく教えてくれた。


「果江を泊めたいなんて言ったら、真央がへんに不安になると思ったから」


 それは、そうかもしれない。そうだと思う。


 でも、こんな形で知ることになるくらいなら、一晩中、眠れないくらい不安でいたほうがマシだったかもしれない。怒りが引き潮のように、ゆっくり失せて行った。


 〈それでも、正直に言って欲しかった。私は、健ちゃんを信じていたから、言って欲しかった〉


「ごめん」


 そう言った健ちゃんは、本当に申し訳なさそうな顔をしている。


「でも、何もなかった。それは、本当だから」


 何もなかった。健ちゃんがそう言うのだから、本当にそうなんだろうと思う。でも、頭で理解できても、感情はそううまくコントロールできなかった。引き潮のように引いたばかりの怒りが、今度は竜巻のように加速してやってきた。


〈何もなかったのなら、どうして、嘘をついたの?〉


 足の指先から手の先まで、熱湯に浸したように熱い。


〈やましいことがあるから、嘘ついたくせに。嘘つき!〉


 嘘つき、ともう一度繰り返して、言ってはいけないことを、私は両手に託してしまった。


〈まだ、果江さんを、忘れていないくせに。あんなわがままな人の、どこが、そんなにいいの?〉


「果江のこと、悪くいうな」


 健ちゃんの優しいはずの目が、鋭くつりあがっている。


「真央は、果江のこと、何も分からないだろ。果江は、悪い子じゃない」


 本物の、ライオンみたいだ。こわい。


〈果江さんを好きなら、戻ればいい。アメリカについて行けばいい〉


 そうだ。私は、ずっと、たまらなく不安だったのだ。果江さんが帰国した、あの日から、毎日。


 やっぱり、果江が好きなんだ、忘れられないんだ。だから、別れよう。いつ、そう言われるか、いつか、そう言われる日が来るんじゃないか。毎日そればかりだった。


 健ちゃんに訊いてみたくて仕方なかった。本当は果江さんのことがまだ好きなの? 、って。


 でも、それを訊いてしまったら、本当に健ちゃんが私から離れて行く気がして、怖くて確かめることができなかった。


〈毎日、思って、悩んでいた。健ちゃんは、本当は、果江さんのところに、戻りたいんじゃないかって〉


 自分でも信じられないくらい両手が震えた。けんちゃんの両手も、私に負けないくらい震えている。


「毎日、そんなつまらないこと、考えてたのか」


 私は健ちゃんを睨み付けた。


〈つまらないこと? 全然、つまらないことじゃない〉


 健ちゃんも私を睨んで来る。


「真央も嘘つきだ」


〈私?〉


「信じるって言って、全然、信じてくれてない。結局、おれのこと、信じてないじゃん」


 感情のない、冷たい、手話だった。


 悲しかった。ショックだった。悔しくてたまらなかった。でも、否定できない自分が何より情けなかった。私は下唇を強く噛んだ。


〈そうかもしれないね。私、健ちゃんを、信じることが、できない〉


 そんなことを言ったこの両手を切り落としてしまいたかった。健ちゃんが泣きそうな顔をして、私の両手をじっと睨むように見つめていた。


 もう、終わりだ。正直、そう思った。今、このまま話し合っても埒が明かないと思う。難しい表情で固まる健ちゃんの顔を扇ぐ。


〈また、今度にしよう。埒が明かない〉


 健ちゃんが「そうだな」と頷く。


〈いつ、時間あるの?〉


 訊くと、健ちゃんは都合悪そうにこう言った。


「まだ、もう少し忙しい。ごめん」


〈また?〉


「どうしても、やらなきゃいけないことあって」


〈最近そればっかだね。なにをしてるの?〉


 今日だって、仕事は定時で終わっているみたいだし、じゃあ、何がそんなに忙しいのだろうか。


 ごめん、と健ちゃんが背中を丸めた。


「今はまだ、言えない」


 そのあとも、健ちゃんはただごめんと謝るばかりだった。私が思いつくことなんて、ひとつだけだった。果江さんだ。彼女が関係しているのだと思った。


 私は本当に単細胞で、何も分からない世間知らずのお嬢さんで、何も分かっていなかったのだ。健ちゃんが忙しそうなふりをしている、本当の理由を。


「必ず、連絡する。だから、待ってて。それまではここに来ないで、できるだけ、家にいた方がいい」


〈もういい〉


 私は健ちゃんを突き飛ばして、キッチンへ向かった。そして、急いでコートを羽織り鞄を抱えた。その衝撃で、鞄から誕生日プレゼントの箱が床に転げ落ちてしまった。私を追い掛けて来た健ちゃんの足にぶつかって、プレゼントが止まった。健ちゃんがそれを拾い上げる。


「これ、もしかして、プレゼント?」


 こんな物、買わなければ良かった。私は健ちゃんからそれを引っ手繰るように奪い取り、キッチンのゴミ箱に投げ捨てた。叩きつけるように、捨てた。


 中身はジッポライターだ。店員のお姉さんが教えてくれた。好きな人にジッポライターを贈ると「永遠の愛」という意味があるのだと。


「なにしてんの、ばかか」


 慌てた様子で健ちゃんがゴミ箱からプレゼントを引っ張り出した。私は健ちゃんの手を捕まえて、首を振った。


〈順也が、教えてくれた〉


「何を?」


〈人を好きになって、付き合うっていうことは、何があっても、その人を信じることだって〉


 それができなくなったら、もう、ダメなんだよ。健ちゃん。


〈私は、信じることができない〉


 そう手話をして、私は健ちゃんからプレゼントを奪い返した。


 〈でも、好きなの。どうしても、健ちゃんが好き〉


 突然、健ちゃんが私を強く抱き寄せた。健ちゃんの匂いがする。健ちゃんが身体をそっと離して、言った。


「おれは、真央一筋だよ」


〈それなら、ここに来るななんて言わないで。私は、毎日でも、健ちゃんに会いたい〉


 今できる、素直じゃない私の、精一杯の素直だった。


 毎日でも、その腕に抱きしめてもらいたい。いつも、ふたりで笑い合っていたい。


 でも、健ちゃんは頷いてはくれなかった。


「今は、だめだ。ごめん。でも、絶対連絡するから。待っててほしい」


 なんだか、とても惨めだった。酷い孤独感に打ちのめされた気分だった。私の家はこのアパートからすぐ近くなのに。会おうと思えば、毎日でも会える距離なのに。下を向く私の前に、健ちゃんが小指を突き出してきた。


「約束。必ず、連絡する」


 私は健ちゃんを睨み付けてプレゼントを投げつけた。プレゼントは健ちゃんの右肩をかすめて、床に落ちた。健ちゃんが何か言おうとしているのを無視して、玄関に向かう。ブーツを履いてドアノブを回した時、腕を掴まれた。振り向くと、健ちゃんが必死に何かを言っていた。


 でも、何を言っているのか、唇の動きが早くて読めない。私は、健ちゃんの腕を振り払った。


 分からない、分からない、聴こえない!


〈分からない! 聴こえない!〉


 健ちゃんが慌てて手話に切り替えようとしたけれど、無視して、乱暴な手話でねじ伏せた。


〈分からない! 分からない分からない! 聴こえない!〉


 そして、私は玄関を飛び出した。部屋を出て右がエレベーター、左が螺旋階段になっている。螺旋階段を一気に駆け下りようとした時、また健ちゃんに捕まってしまった。


「暗いから、送ってく」


 ひとりで帰れる! 、そう叫んで怒鳴ってみたかった。私もみんなのように感情を声に出してみたい。私は健ちゃんを睨み付けてその手を振り払い、コートのポケットに手を突っ込んだ。取り出したそれを健ちゃんに投げつける。銀色の合鍵は健ちゃんの右の頬にかすり、通路に転がった。


 こんなふうでしか、私は感情をぶつけることができない。怒鳴り散らす代わりに、態度や力ずくで示す。


〈もう要らない。果江さんにあげればいい〉


 健ちゃんは通路に落ちた合鍵を悲しそうに見つめていた。


 こんなにも失礼なことをしているのに、健ちゃんは怒らなかった。だから、よけい切なかった。健ちゃんの両手が動く。


「どうすれば、おれの話、きいてくれる?」


 冬の夜の凍てつく空気が肌に突き刺さる。


〈聴けるわけないでしょ〉


 どうしてだろう。私の心は、麻酔なしでメスを入れられたように痛かった。


〈だって、私には耳がないから〉


 ぐるぐる、ぐるぐる。螺旋階段を駆け下りた。いちばん下まで降りて、アパートを見上げる。角部屋の玄関のドアが開き、明かりが漏れる。でも、その明かりは吸い込まれるように消え、ドアが閉まったのが見えた。


 私は甘ったれていた。


 直ぐに健ちゃんが追い掛けて来て、また、私の腕を捕まえてくれるんじゃないかと、心の片隅で待っていた。でも、健ちゃんが追いかけてくることはなかった。


 私は、アパートに背を向けて歩き出した。真っ暗だ。道は街灯が幾つもあって明るいのに、まして、雪明かりでいつもより明るいくらいなのに、まるで真っ暗な洞窟の中を歩いているような気分だった。


 私は歩きながら泣いた。


 なんとなく、分かってはいたのだ。健ちゃんと……健常者と付き合うことになった日から、いつかはこんな日が来てしまうことを。


 どうして、私は大好きな人の声を聴くことができないのだろう。健ちゃんの声を聴いてみたい。どんな声をしているのか、この耳で確かめてみたい。


 大粒のわた雪が、町を白く包み込んでいた。藍色の夜空に、乳白色の三日月が鮮明に浮かんでいる。それはそれは綺麗な冬月夜だった。






 家に帰ると、リビングでお父さんがひとり、コンビニのお弁当を突いていた。私はキッチンでほうじ茶を煎れて、お父さんに差し出した。


〈飲まないと、喉詰まるよ〉


「ありがとう」


〈どうして、お弁当なの? お母さんは?〉


 訊くと、お父さんが肩をすくめた。


「お母さん、ちょっと体調が悪いって、寝たよ」


 私は目を大きく見開いた。びっくりした。15時頃、私が家を出た時にはすごく元気だったのに。いつもと何か変わった様子もなかった。いつも明るくて、元気満々なお母さんが寝込んでしまうなんて。


〈大丈夫なの?〉


 食事中のテーブルに身を乗り出して訊く私を、お父さんは笑い飛ばしながら立ち上がった。そして、カラーボックスからバスタオルを一枚取り出して、私の髪の毛をごしごし拭きながら言った。


「ただの、風邪、だって」


 私はほっと胸を撫で下ろして、お父さんの正面に座った。すると、お父さんも席に戻って、笑いながら手話をした。


「それより、お父さんは、真央の方が心配だなあ」


〈私?〉


 柔軟剤の優しい匂いがするバスタオルで髪の毛を拭きながら首を傾げて見せると、お父さんがお弁当の唐揚げを咀嚼しながら頷いた。

 

「健ちゃんのアパートに、行ってきたんじゃないの?」


 私は苦笑いしながら頷いた。


「それなのに、どうして、そんなつまらなそうな顔してるの?」


 むむ。お父さんも、なかなか鋭い。侮れないかもしれない。


〈そんなことないよ〉


 健ちゃんと喧嘩してしまったなんて、言いたくなかった。


〈楽しかったよ〉


 と、笑顔を作って、ふいっと視線を逸らした時、お弁当の左横にあった物が視界に飛び込んできた。透明なクリアファイルに、文字がびっしり詰まったA4サイズの紙が挟まれている。


〈それ、なに?〉


 私がそれに手を伸ばそうとした時、先にお父さんが手を伸ばしてぱっと裏返しにした。


「ああ、会社の書類だよ」


 ふうん、と私はあまり気にも留めずに立ち上がり、


〈お母さんの様子、見て来るね」〉


 と、リビングを後にした。


 2階に上がりふたりの寝室のドアをそっと開けると、ダブルベッドにお母さんが横になっていた。細心の注意を払って静かにドアを開けたつもりだったけれど、音を立ててしまっていたらしい。


 お母さんが身体を起こしてしまった。


「真央」


〈ごめんね。うるさかった?〉


 私が両手のひらを擦り合わせて肩をすくめると、お母さんは首を振って優しく微笑んだ。


「起きてたから。おいで」


 私はベッドに近寄り、お母さんの隣に座った。


「おかえり。早かったね」


 お母さんは、私の頬に手で触れて、「冷たい」と笑った。


〈外、すごく寒かったから。お母さんの手は、温かい〉


 安心する。お母さんの手は、温かくて、ほっとする。お母さんが心配そうな顔で右手の人さし指を左右に振った。


「どうしたの? 健ちゃんと、なにかあったの?」


〈どうして、そう思うの?〉


 何もなかったのに、と首を振って笑うと、お母さんは私の目を指さした。


「だって、泣いた跡がある」


 お母さんはすごいと思う。私の小さな変化にすぐに気づく。だから、お母さんに嘘は通用しない。観念した私は、肩をすくめながら白状した。


〈喧嘩した〉


 私は小さく覚悟した。喧嘩の理由を訊かれると思ったから。


「そう」


 でも、珍しいことにお母さんが喧嘩の理由を訊いてくることはなかった。お母さんは、私の背中を手のひらで叩くと、爽やかに笑い飛ばした。


「そんな日もあるよ」


 拍子抜けしてしまった。


「付き合っていれば、そりゃあ喧嘩のひとつふたつ、あるわよ」


 だって、赤の他人同士が、好きだって、付き合ってるんだもの、とお母さんはけろりとして言った。私はお母さんの両手をじっと見つめていた。


「お母さんと、お父さんは、運命の人同士なの」


 急にそんなことを言い出すものだから、お母さんがとても可愛らしい少女に見える。


〈運命の人、同士?〉


「そうなの」


 世界の人口は約78億人だから、お母さんは、その中のひとりに出逢って、恋に落ちて、結婚したんだけど、それがね、お父さんだったの。


 だからね、お父さんは、お母さんの、運命のひとなの。


 お母さんはそう言って、笑った。


「だから、頑張るしかないの」


〈頑張る? 恋って、頑張るものなの?〉


 お母さんが可笑しそうに私を笑って、頷いた。


「頑張れば、ちゃんと乗り越えていけるように、真央を産んであるって、お母さん言ったでしょ」


 この人は、どこまで強いのだろう。純粋にそう思った。お母さんは強い女の人だ。だから、お母さんなのだと思った。


「真央が諦めない限り、大丈夫」


 お母さんの目はどこまでも真っすぐで、背筋が伸びる。


「好きなら、頑張れ、真央」


 私はしっかりと頷いた。


〈ありがとう〉


 いつも、私の背中を押してくれて、ありがとう。お母さんはにこにこしながら頷いていた。私は、お母さんに頼まれて、洗濯物をたたみにリビングへ戻った。


 お父さんはお風呂に入ったようだった。


 洗濯物をたたみ終えて、なんとなく窓を開けてみると、順也も部屋の窓から夜空を見上げていた。私は窓枠を爪で突いた。弾かれたように、順也が見下ろしてきた。


「真央」


〈なに、してるの?〉


「見て、ほら」


 と順也が夜空を指さした。


「綺麗だね。オリオン座だよ」


 本当に綺麗。しばらくオリオン座に見惚れてから視線を戻すと、順也と目が合った。


「今日、楽しかった? 健太さんの、誕生日だったんじゃない?」


〈楽しくなかった〉


 私は苦笑いをして、肩をすくめるジェスチャーをした。


〈喧嘩しちゃった〉


 思い出すと、胸が痛くなる。どうして、あんなことを言ってしまったんだろう。どうして、あんな態度を取ってしまったんだろう。私は胸を押さえた。


 順也が右手の人さし指を左右に振った。


〈思い出したら、心臓が、痛い〉


 すると、順也はこんなふうに言うのだった。


「それは、真央の心が、泣いてるからだよ」


 どんなふうに痛いの? 、と順也が訊いた。まるで、病院の先生みたいに。


「症状を、教えてみて」


〈例えば、麻酔なしで、手術を受けている感じ。そんな経験したことはないけど〉


 私の訴えを訊いて、順也が可笑しそうに吹き出した。


「うわあ、それは、かなり重症だね。痛そうだな」


 今日の順也は夕暮れの穏やかに凪いだ波のような笑い方をする気がする。


「でも、その痛みは、真央の心が正常な証拠だよ」


〈正常?〉


 私が首を傾げると、順也が「そうだよ」と頷いた。


「健太さんのことを、ちゃんと好きな証拠だね」


 うん。そうだ。好きだ。私は、健ちゃんが大好きだ。でも、よく分からない。


〈でも、健ちゃんは、私に嘘をついた〉


 私は、あのアパートに果江さんが泊まったことを、なぜか順也に言い出すことができなかった。


〈忙しい、忙しい。最近はそればかりで、私の気持ち、分かってくれない〉


 私と順也の空間を、つめたい冬の風が吹き抜けていった。その時、藍色の空から白い小人が降りて来た。雪だ。


「確か、真央は、牛乳が嫌いだったよね?」


 突然、順也がへんな事を訊いてくるものだから、私は首を傾げながらも頷いた。牛乳は苦手だ。


「自分の気持ちを分かってもらいたいなら、まず、先に相手の気持ちを、分かってあげなきゃいけないよ」


 順也の手話は、静かに浸透してくるような優しい動きをする。


「自分を好きになって欲しいなら、まずは、自分を好きになってあげないと」


〈自分を?〉


「真央が牛乳嫌いなのに、牛乳って美味しいよねって、友達に薦められないよね」


 私は頷いた。なるほど。そして、ものすごく、反省した。


 結局、私はいつも自分の気持ちばかり健ちゃんに押し付けていたことに、やっと気づいた。恥ずかしくなった。まるで、小さな子供が欲しい物を買ってもらえなくて、だだをこねるのと一緒だ。


 最低だ。自分がとても嫌な人間に思えて、たまらなくなった。なんて心の狭い人間だろう。きっと、順也もそう思ったかもしれない。


 呆れてるだろうな、とおそるおそる顔を上げると、順也はきらきらの笑顔で「真央」と私を呼んでいた。うん? 、と首を傾げて見せた私に、順也はひとつひとつの言葉を繋ぎ合わせるように、丁寧に手話をした。


「真央ひとりだけが、苦しんでいると思わないで。もしかすると、健太さんは、もっと、悩んでいるのかもしれない。真央より、もっと」


 順也の言葉たちは、私の胸に強く深く突き刺さった。


「真央だけが、苦しいわけじゃないんだよ」


 そして、不思議なほど真っ黒だった心が浄化されていった。


「時には、嘘が必要なことが、あるんだと思うよ」


〈必要な嘘なんてあるの?〉


「あるよ。特に、守りたいものがあるのなら、なおさらだよ」


 私は、とんだ非常識者だ。


 何も分かってないふりをして、分かろうともしていなかったのかもしれない。


「健太さんが嘘をつくくらいなら、もしかしたら、とても悩んでいることが、あるんじゃないかなあ」


 順也が予想したことの意味を、私はまだ分かっていなかった。


 冬の月は、儚いのに、とても色濃く夜の町を照らしていた。


 私と順也は、澄んだ冬の夜空を見上げて、たぶんきっと、同じタイミングで空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

















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