糸口

 幸せな毎日が、ゆったり、のんびり足で過ぎていった。


 秋晴れの日が続き、空が低くなった。突風のような秋風がやむと、決まって雨宿りが続いた。しぶとい雨は時折、涙雨のように優しい日もあった。


 順也とは以前にも増していろんなことを報告し合うようになって、私も少しバスケットボールに詳しくなった。順也はこの冬、町の小さな大会のメンバーにも選ばれた。応援に行くのが今から楽しみで仕方ない。


 健ちゃんともとても順調に過ごしている。


 私は学生だけれど健ちゃんは社会人だから、週末くらいしかまともに会えないけれど、毎週会ってご飯を食べたり、ドライブに出掛けたり、楽しく過ごしている。


 小さな喧嘩をしたり、へたくそな手話で言い合いになったりするけれど、いつも健ちゃんが折れてくれて、すぐに仲直りできていた。


 私は、健ちゃんのことがもっともっと大好きになっていった。


 短大では幸と菜摘がいつも一緒に居てくれて、幸の覚えたての手話と、菜摘が講義内容を分かりやすくまとめてくれたルーズリーフで、勉強に付き合ってくれる。


 そして、11月も中旬の、曇り空の日。


 その日も、平和に一日が終わると思っていた。


 だけど、突然、思いがけない出来事があった。


 2時限目の食品衛生学の講義が終わった瞬間、隣にいた幸が慌ただしくなった。


 プラダの白いパイル生地のトートバッグに、誰かにせかされているかのようにルーズリーフとペンケースを詰め込んでいる。そして、スマホを握り締めて、幸は立ち上がった。


「うち、帰るわ」


〈帰る? 何かあったの?〉


「分からん。彼氏のお母さんからライン入っとって、すぐ施設に来て欲しいんやて」


〈そうなんだ〉


 残念。幸がいないと心細いな。私が肩をすくめると、幸は申し訳なさそうに両手をすり合わせた。


「ごめんな。4限目には菜摘も来る言うてたから」


 菜摘は眼科の予約があるからと、朝からまだ来ていない。


〈分かった。気を付けてね〉


 私が小さく手を振ると、幸は「ほなな」と元気に講義室から出て行った。私はロッカールームに行き、教科書をしまって、鞄を抱えてまた講義室に戻った。


 しょうがない。今日は一人でお昼ごはんか。中庭はそろそろ肌寒いし、学食はなんだか人の目が気になってしまう。


 私は講義室の一番後ろの窓辺の席で、お弁当箱を広げた。左横にはスチームストーブがあって、ふわふわと温かい。誰もいない教室に、窓から暖かい秋の日差しが差し込んでいた。


 お弁当箱を広げた時、後ろのドアから誰かが入って来た姿が、横目に入った。


 知っている人だった。


 調理実習で同じ班の男子、中島旬なかじましゅんくんだった。めずらしい、ひとりだ。男子は人数が少ないだけに、いつも6人で行動している印象なのに。何か忘れものでもしたのだろうか。


 中島くんは、私以外誰もいない講義室内をぐるりと見渡していた。


 彼は背が高い。クラスでもひとりだけ抜けている。193センチもあるんだって、といつだったか静奈が教えてくれた。背の高い健ちゃんより大きいから、印象が強い。


 小学校、中学校、高校と、バレーボール部に所属し、エースアタッカーだったらしい。菜摘と同じ中学出身だったそうだ。


 中島くんは、あまり派手じゃない。他の男子は髪の毛をアッシュグレーやベージュなんかに染めていたりするのに、彼は黒髪短髪で、無口で不愛想だ。


 でも、調理実習の時は本当に見惚れてしまう。魚を捌くのがすこぶるうまい。三枚おろしなんて、ちょちょいのちょいだ。中島くんの家は魚屋で、将来は家業を継ぐのだそうだ。


 ふと、中島くんと目が合った。


 普段は目も合わないし、接点もないだけに、私は自分からそっけなく目を逸らした。だけど、中島くんは私の隣の席に座った。


 え、なに?


 怪訝な目で見る私に、中島くんが何かを言っている。でも、口の動きが早すぎて、読み取ることができなかった。私は、フォークを置いて、スマホに書き込んで彼に見せた。


――ごめんなさい

  ゆっくり話してくれないと分からない


「あ、そうなんだ。ごめん。えっと、わ、か、る?」


 と中島くんは今度は大きな口で、ゆっくり話してくれた。その時、不愛想なだけで、悪い人じゃないんだなと直感的に思った。調理実習の時はいつも無表情で手を動かしているけれど、恥ずかしそうに微笑んだ顔が優しさを物語っていたのだ。


 きっと、不器用な人なんだと思った。


 白と紺色のボーダーTシャツがとても良く似合っている。


 私は微笑み返して、頷いた。


――分かる

  ありがとう


 スマホ画面を見せると、中島くんは「よかった」と微かに笑った。


 少し、嬉しかった。


 調理実習の時でさえコミュニケーションを取ったことがなく、私は中島くんに苦手意識を持っていたのかもしれない。体は大きいし、いつも不愛想だから、私のことを煩わしく思っているんだろうなと思っていた。


 中島くんはオフホワイト色の麻地のトートバッグを机の上に置いて、身体を私に向けて座り直した。


「訊きたいことが、あるんだけど、いいかな」


 私が頷くと、中島くんは少し照れくさそうにはにかんだ。


「ほら、いつも、戸田さんが近くにいるから、武内さんに、声掛けづらくて」


 ――幸?


 スマホ画面を見せながら首を傾げてみせると、中島くんは頭を掻いて頷いた。


「戸田さんて、男勝りで、なんか近付きにくくて」


 私は笑ってしまった。


 ――いい子だよ

   明るくてとっても優しい


 スマホの画面を見て中島くんは「そっか」と笑ったあと、また講義室内をぐるりと一周見渡して、それから、私の心臓が飛び跳ねることを口にした。


「長澤さん、のことなんだけど」


 え……。


 突然、静奈の苗字を口にされ、私は完全に戸惑った。無論、静奈のことを忘れていたわけじゃない。毎日既読無視されるけど、毎日ラインをしたりしている。


「長澤さんて、もう、講義に来ないの?」


 私は首を振った。


 首を振ったくせに、こんな弱気なことをスマホに打ち込んだ私は、情けないなあと思った。


――本当は分からない


「どうして?」


――ずっと連絡とれてないから


 私のスマホを覗き込んだ中島くんは、目を丸くした。そして、「やっぱりな」とその唇が動いた。


「先月くらいから、すごいうわさだよ。武内さん、知ってる?」


 うわさ? なんのこと?


 私はふるふると首を振って、食い付いた。今はどんな情報でもいいから、静奈の情報が欲しかったのだ。静奈の居場所をつきとめる為の、糸口が。


 ――うわさってどんな?


「あ……けど」


 と中島くんは都合悪そうに背中を丸めた。


――知りたい

  教えて


 お願い、と両手を合わせて頭を下げると、中島くんは一瞬躊躇したものの、意を決したように「これなんだけど」とショルダーバッグの中に手を突っ込んだ。


 中島くんがバッグから出した物を見て、私は一気に不安になった。


 A4サイズで厚さは1センチ程の、夜の世界の雑誌だった。表紙には濃いメイクをした綺麗な女性がアップで写っている。エナメル質の表紙をめくりながら、中島くんんの唇がゆっくり、動いた。


「おれの勘違いなら、いいんだけど。どうも、勘違いでも、なさそうなんだ」


 と、中島くんは淡々とした表情で、何枚もページをめくった。うわ、と両手で目を覆ってしまいたかった。それは、地元の風俗情報雑誌だった。雑誌がめくられていくのを見ていると肩を叩かれ、顔を上げると、中島くんが言った。


「見て、このお店の」


 そのページを開いて、中島くんは続ける。


 6人の女の人が、片手で顔を隠して、横座りをして並んで写っている。下着だけの無防備な格好で。


「この子なんだけど」


 と、中島くんが6人の中のひとりの女の人を指さした。すらりとした華奢な体型をしている。


「この子。長澤さんじゃないか、って。うわさが、流れてるんだ」


 彼の唇の動きを読んだあと、私はその雑誌を奪い取るようにして、その写真の女の子に穴が開いてしまいそうなほど、凝視した。


 違う。これは静奈じゃないよ。変な言い掛かりはやめてよ。そう言って、中島くんを睨み付けるか、笑い飛ばしてやりたかった。でも、できなかった。


 私は何も反撃できずに、あっさりと肩を落とした。


 何で……。


 顎のラインでぷつりと切り揃えられたミニボブ。隠しているつもりなんだろうけれど、私には隠せない、ピンク色のインナーカラー。


 そして、彼女は顔を隠されているものの、大きな大きなミスをしていた。右手の薬指に輝く、ホワイトシルバーのリング。


 ばかだな……。どうしてこんなこと……。


 右手の薬指を見れば見るほど、順也と同じデザインのリングにしか見えない。


 中島くんに肩を叩かれてはっと我に返る。


「この前、サークルの先輩が、呼んだらしくて。この子が来て。見たことあるって。お前と同じクラスにいる子じゃないかって、言われて」


 ――よんだって?


 私がスマホを素早く差し出すと、中島くんは頷いて「ラブホテル」と言い、続けた。


「デリバリーヘルス、って、知ってる?」


 私が首を振ると、中島くんはそのページの右下に大きく印刷された電話番号を指さした。


「ここに、電話すると、女の子が、来る仕組み。ピザ屋みたいに」


 苦しくて、なんだかやるせなくて、目を逸らしてしまいたいのにできなくて。私は写真のその女の人だけを見つめた。可愛いフォントの平仮名で「なぎさ」「19歳」と記載されてある。


 私はスマホに打ち込んで、中島くんに画面を差し出した。


 ――静奈じゃない

   なぎさって書いてある


 「これは、源氏名だよ」


 と中島くんは雑誌の名前を指さした。


「芸能人で例えると、芸名だよ。武内さんの気持ち、分かるけど」


 私は中島君の口元から目を逸らして、うつむいて目を閉じた。


 違う。絶対、違う。これは静奈じゃない。右手のリングだって、たまたま同じデザインの物を、この人がつけているだけ。


 中島君に肩を叩かれて、時間を掛けて顔を上げた。


「おれ、知ってるんだ。この世界に染まると、なかなか抜けられなくなること」


 私は中島くんの口の動きを読み落とさないように、じっと見つめた。


「おれの、姉さんが、そうだから」


 悔しそうな表情で、彼は続けた。


「おれの姉さん、風俗の世界に染まってさ。今はどこにいるのかも、分からないんだ」


 もう2年も連絡取れなくて、と中島くんは背中を丸めて、黙り込んでしまった。私も何も掛ける言葉が見つからず、沈黙が続いた。


 しばらくして、中島くんが立ち上がって、沈黙が破れた。


「風俗の世界から、足を洗わせたいなら、早い方がいいよ」


 そして、麻地のトートバッグを肩に掛けて、言った。


「戸田さんも、そこで働いてるよ」


 私は自分の目を疑った。


 中島くんは「じゃあ」と講義室を出て行った。でも、私は全身硬直していて、動くことができなかった。


 すぐに中島くんを追い掛けて、もっと詳しく訊くことなら、できていたと思う。でも、私は椅子に座ったまま、追い掛けることをしなかった……というより、できなかったのだ。


 直ぐに、静奈にラインをして、直ぐに、幸にもラインで確認することだってできるのに。それもできなかった。怖かったからだ。ラインをして問い質すことが怖かったんじゃない。仮にもし、返事が来た時が何よりも恐ろしく思えて仕方なかった。


 そんなことしていない、とか、そんなの嘘だよ、だとか。そう返事が来たらほっと胸を撫で下ろす反面、ふたりに疑心を抱くような気がする。


 そうだよ、とか、してるよ、なんて。それが返事だとしたら、私はショックで返事何て返せなくなる。


 窓の外に広がっていたのは、曖昧な空だった。これは現実なのだろうかと疑いたくなるような、晴れるわけでもなく、雨が降るわけでもない、そんな曖昧な空だった。


 今、私は悪い夢を見ているんだ。きっとそうだ。静奈も幸も、風俗で働いているなんて、誰が信じるの。ばかばかしい話だ。中島くんの思い込みだ。


 そう思う反面、私の心は棘の鎖で締め上げられるように、苦しかった。


 どのくらいぼんやりとしていたのだろう。同じ講義を受ける生徒が数人入って来て、はっと現実に引き戻された。私は慌てて開かれたままの雑誌を閉じて、鞄に押し込んだ。


 黒板の上の壁時計の針が13時20分を指そうとしている。次々に生徒が講義室に入ってくると、室内の気温も一気に上昇した。


 もう、3時限目の講義が始まる。机の上には一切手を付けていないお弁当。チーズと大葉入りの卵焼き、揚げ餃子、コーンクリームコロッケ、赤いタコさんウインナー、プチトマト、ブロッコリー。全部私の好きなものばかりだ。


 でも、胸がいっぱいで食べれそうにない。私はペットボトルのルイボスティーに手を伸ばし、がぶがぶ飲んだ。お腹は空いていないのに、やけに喉が渇いていた。


 お弁当に手を付けずに帰ったら、お母さん、心配しちゃうかなあ。私は急いでプチトマトを口に放り込んだ。あとはゼミの予習で食べる時間がなかった、そう言い訳をしよう。


 ごめんね、お母さん。とお弁当箱にふたをしながら、私はとっさに顔を歪めた。


 すっぱい。


 真っ赤に熟れたプチトマトは、息が詰まるほどすっぱかった。こんなにすっぱいプチトマトを食べたのは、初めてだ。


 3時限目の講義は終始上の空だった。みんなが講義を受けている中、私はひたすらにスマホとにらめっこだった。順也からラインが入った。それは他愛もない内容だった。それなのに、なぜか私は後ろめたい気持ちでいっぱいだった。




笹森順也


今日は練習休みになったんだ

迎えはいいからしっかり勉強するんだよ




 返信を打っている途中で、私は人さし指を止め、自分を叱責した。順也に、中島くんから教えてもらったことを相談しようとしていたのだ。


 バカだ。順也にそんなことを相談してどうするつもりだったんだろう。順也が今でも静奈を想い続けているのを、知っているのに。相談されて傷つくのは順也だ。順也に相談するんじゃない。


 でも、どうにかして事実なのか、確かめなきゃいけないことだ。


 調べて本当だった時、どうすべきなのかも考えていないけど。でも、どうやって確かめたらいいのか見当もつかない。どうしよう。


 私は、ゴールの見えないマラソンのように、その道のりが遠く感じた。


 しかし、予想だにしないきっかけは、いつだって突然やってくる。



 その日の夕方、17時すぎ、私は地元のファミリーレストランの窓際の席に緊張しながら座っていた。テーブルを挟んで向かいには男がふたり、神妙な面持ちで座っている。


 講義が終わり帰りの電車に揺られていた時、健ちゃんからラインが入った。


 亘さんが私に謝りたいと言っているからこれから少し会えないかという内容だった。もう終わったことだし、正直、一人になっていろいろ考えたかったのが本音だったけれど、会うことにした。考えすぎて、頭がいっぱいになって破裂しそうだったから、健ちゃんに会いたかった。


「真央ちゃん」


 健ちゃんの隣に座っていた亘さんが、私に向かってゆっくりと唇を動かした。今日は音声変換アプリは使わないらしい。


「本当に、ごめん。酷いこと言って、傷付けて、ごめん」

 

 と、亘さんはテーブルに額がついてしまいそうなほど、深々と頭を下げた。その隣では、「そうだそうだ、しっかり謝れ」とアイスコーヒーにストローを3本も挿して、子供の様ないたずらをして飲む健ちゃんに、


〈気にしないでって、通訳して。ふざけてないで、亘さんに、顔上げてって言って〉


 と睨みながら手話をすると、健ちゃんは得意げに「まかせろ」とソファの背にもたれかかった。そして、亘さんの肩を叩き、大きな口で言った。


「おもてをあげい」


 がっくしだ。私が呆れて肩をすくめていると、亘さんが顔を上げた。


「健ちゃんに、はっきり言われたんだ。果江はもう、過去だって。おれ、酷いね。自分の、勝手な感情で、動いて」


 私はゆっくり時間を掛けて、首を振った。亘さんの気持ちは分からなくない。幼馴染みのことを、大切に思ってしたことだから。仕方ない。


 私たちは和解し、亘さんも応援すると言ってくれた。それから私たちは、汐莉さんや順也の話をしたり、他愛もない会話をした。


 18時になると、取引先の人と会うから、と亘さんはファミレスを先に出て行った。私はせっかくだしと健ちゃんとこのままご飯を食べて帰ることにした。


 同じきのこのドリアを食べていた時、手を止めてぼうっとしていた私の顔を、大きな手が扇いだ。


「真央、どうした? 食欲ないのか」


 私は慌てて首を振った。


〈今日の講義、すごく難しかった。疲れただけ。食べる〉


 でも、ぜんぜん、全く、食べる気になれなかった。ドリア、大好きなのに。やっぱり食べ残してしまった。


 会計の時、レジの前で健ちゃんが私の肩を叩いた。私ははっとして、弾かれたように顔を上げた。また呆然として、静奈と幸の事を考えていたのだ。健ちゃんが怪訝な面持ちで私を見つめていた。


「大丈夫か、ぼんやりして」


〈ごめん! 私も、お金出すよ〉


 鞄の中を引っ搔き回して財布を取り出そうとすると、健ちゃんに手を掴まれた。


「いい。おごり。でも、1円玉、2枚あると、助かる」


 どうやら、端数分の2円がなくて、私にあるか訊いただけのようだった。私はこくりと頷いて、鞄から財布を引っ張った。18歳の誕生日に、お父さんが買ってくれたクリスチャンディオールの、長財布。ピンク色で可愛い。私の宝物だ。


 2円を差し出すと、健ちゃんがな目で私をじっと見ていた。まるで、私を疑うような、怖い目だった。


 私は、右手の人さし指を左右に振った。


〈どうしたの?〉


 もう一度2円を差し出すと、健ちゃんは「ああ、ありがと」と、でも、腑に落ちないような表情で、会計を済ませた。すると、突然、受け取ったレシートを手の中でぐしゃぐしゃに丸めて、健ちゃんは私の腕を引っ張り、店を後にした。


 強い力だった。


 ファミレスの外に出て、私が抵抗する前に健ちゃんの方から手を離した。


 「真央」


 空気が冷たい。夜空に、秋の星座が瞬き始めていた。


「ちょっと、訊きたいことあるんだけど」


〈なに?〉


「とりあえず、車に乗って」


 なんとなくぶっきらぼうに両手を動かした健ちゃんは、すたすたと車へ向かった。


 助手席に乗り込んで、間もなく、健ちゃんは何の前触れもなく、私の鞄をひったくるように取り上げた。


 やばい。そう思って、私は焦った。だから、健ちゃんの肩を強く叩いて、睨み付けた。


〈何するの! 返して!〉


 健ちゃんは冷静かつ無表情で、容赦なく、私の鞄に右手を突っ込んだ。


「これ、なに?」


 健ちゃんが取り出した物を見て、私の両手から力が抜けていくのが分かった。


 まずい。見つかってしまった。私は固まった。


「なんで、真央が、こんなもの持ってんの? お前、風俗の仕事でもする気か?」


 心臓が不快な動きを始めた。


〈違う!〉


 健ちゃんが目を細めて、疑心の塊の視線を向けてくる。


「じゃあ、なんでこれが、真央の鞄に、入ってんの?」


 健ちゃんの手話を見たあと、私は顔を上げていることができず、うつむいた。日中の出来事が、走馬灯のように目の裏側でぐるぐる回る。


 肩を叩かれた。でも、私は無視をしてしまった。


 その雑誌に載っているある女の人が、静奈かもしれない。静奈が、風俗の仕事をしているかもしれない。そんなこと、言えない。


 健ちゃんにそのことを言ったら、何かのきっかけで、順也に伝わってしまうかもしれない。それだけは、何がなんでも避けたい。順也にだけは、知られたくない。


 悶々と考えていたらもう訳が分からなくなって、疲れてしまった。私は深い息を吐き出して、横目でちらりと隣の様子を伺った。


えっ。


 私は咄嗟に健ちゃん飛び掛かっていた。健ちゃんが雑誌を捲っていたからだ。私の勢いが強すぎたのか、健ちゃんは驚いて横のウインドウに、盛大に頭をぶつけてしまった。健ちゃんが頭を抱えながら、何かを叫んだらしい。おそらく「痛い」と言ったに違いない。


 でも、私はそれどころじゃなかった。冷静でなんていられるはずがない。力ずくで雑誌を奪い返した。


 もし、健ちゃんがあのページを見て、右手にリングをしているミニボブのあの子を、見つけてしまったら。小さなことでも、何かに気付いてしまったら。


 私は、健ちゃんに背を向けるようにして、胸に雑誌を抱き締めた。


 こんなもの、短大のゴミ箱に捨ててくれば良かった。どうして持って帰って来ちゃったんだろう。バカバカ。


 健ちゃんに肩を叩かれて、私はおそるおそる振り向いた。健ちゃんは、いよいよ呆れたとでも言いたげに、私を見ていた。


「なにを隠してんの? 真央」


 私は首を振った。隠してることはあるけど、言えない。


「それじゃあ、分かんねえって」


 いつも穏やかな健ちゃんの眉間に深いしわが出来ている。私はもう一度、首を振った。健ちゃんの両手が、ゆっくり動く。


「訳が分かんねえ。ただ、なんでそんな物を、真央が、持ってるのか、訊いただけだろ?」


 なにそんな慌ててんだよ、と健ちゃんは肩をすくめた。


〈なんでもない。友達から、預かっただけ〉


「嘘つくなって」


〈嘘じゃない〉


 健ちゃんは、悲し気な目をしていた。


「おれ、そんなに頼りねえかな」


 心臓がぎゅうっと握られるように、苦しい。


「真央を好きになって、話したくて、夢中になって、手話覚えて。付き合うことができて、ひとりでいい気になってたのかな、おれ」


〈違う〉


 そうじゃない、そうじゃないんだよ、健ちゃん。でも……言えない。


 私が首を弱弱しく左右に振ると、健ちゃんは苦笑いをして、私の額を人さし指でつんと押した。


「いいよ、分かった。もう、これ以上、深く訊かない。それ、鞄にしまえ。でもな、真央」


 暗い車内で、健ちゃんの瞳がうるうると輝く。


「何か悩んでるなら、言って。じゃないと、力になりたくても、なれない。おれ、お前の彼氏だからさ、味方だから」


 私、必死になって、なにをしているんだろう。健ちゃんにこんな顔をさせたくて付き合ってるわけじゃないのに。


 なんで、必死になって、この人に、隠そうとしているんだろう。


「おれは、真央のこと、信じてるから。何があっても、味方だから」


 そして、健ちゃんは「信じてる」ともう一度手話をした。


 私ははっと思い出していた。つい最近、順也と約束したばかりだ。何があっても、健ちゃんを信じると。付き合うということはそういうことなんだと、順也も言っていたじゃないか。


「帰るか」


 と、健ちゃんはギアをパーキングからドライブに入れた。私はその手をとっさに捕まえた。健ちゃんと目が合う。


〈待って。相談がある〉


 健ちゃんは慌ててギアをパーキングに入れ直した。


「なに、どうした」


〈これ、見て欲しい〉


 私は抱きしめていた雑誌を差し出して、そのページを開いた。そして、深呼吸をした。


〈相談の前に、約束して欲しいことがある〉


 私の両手を真剣な眼差しで見つめ、健ちゃんはこくりと頷いた。私は、ひとつ間を取ってから、伝えた。


〈今から説明すること、絶対に、順也には、言わないで〉


 直ぐにではなく、少し考えてから、健ちゃんは頷いて、「約束する」と小指を差し出して来た。だから、私も小指を絡めた。


〈静奈、かもしれない〉


 雑誌を指さすと、健ちゃんは目を細めて、一点をじっと見つめた。見つめるというよりは、睨み付けているようにも見えた。


「……どういうこと?」


〈9月からずっと、静奈と、連絡がとれない〉


 健ちゃんが驚いたようにぎょっと目を見開き、少し後ろに仰け反った。


「9月から?」


〈何処にいるのか、何をしているのか、分からなくて、困っていた〉


 ラインを送れば既読は付くものの、返信は一切ない、自宅にもいない、そのことを付け加えると、健ちゃんは驚きを隠せない様子だった。


〈それで、今日、クラスの人がこれ持って、私のところに来た。この子が、静奈だって言った〉


 健ちゃんは雑誌をじっと見つめて、しばらく見つめて、私の予想通りの反応をした。頷いて、「黒だな」と肩を大きく上下させた。


「このリング。順也と、同じだよな」


 やっぱり。


 健ちゃんの口からは「いや、違うと思う」とか「そんなわけないだろ」というような、否定的な言葉は出て来なかった。


「順也には、言わないつもりか?」


〈言えないよ。それに、この人が、本当に静奈なのかも、分からないのに〉


 私は、肩をすくめた。でも、おそらく、これは静奈なのだと確信みたいなものが心の中で渦を巻いていた。


 華奢な体のラインに、ミニボブの明るい髪色と、インナーカラーのピンク色。右手の薬指に輝くホワイトシルバーのリング。


 肩を落としてうつむいていると、健ちゃんが私の顔を手で扇いだ。


「確かめてみるか」


 健ちゃんはふざけているのかと思いきや、びっくりするほど真剣な顔で私を見ている。


〈確かめるって、どうやって?〉


 「簡単だろ。客になって、ここに電話すれば、来るんじゃねえの。それで、本人かどうか確認すれば、分かるだろ」


 なるほど……確かに、それが最善で確実な方法かもしれない。


〈でも〉


 でも、もしそこに、本当に静奈が来たら。静奈だとしたら。その時、私は、静奈にどんな言葉を掛ければいいのだろう。どんな顔をしたらいいのだろう。


〈でも……〉


 とその先に詰まっていると、健ちゃんがあっけらかんとして笑うものだから、拍子抜けして、両手の要らない力がすうっと抜けていった。


「大丈夫だって。もし、静奈ちゃん本人が来たとしても、いつも通り、笑って会えばいいだろ」


 〈笑う?〉


 「そ。再会を、素直に喜べばいいんだよ。で、どうする?」


 私はイエスともノーとも答えずに、まだうじうじと悩み続けた。


 私は、静奈に、いつものように笑い掛けることができるだろうか。もしかして、責めてしまうんじゃないだろうか。不安ばかりが脳裏をよぎる。


 健ちゃんが、うじうじする私の背中を強めに叩いた。背筋が伸びる。


「静奈ちゃんは、真央の大事な親友なんだろ。会いたくないのか?」


〈会いたい。ずっと、毎日、心配でたまらない〉


 会いたくないなんて、一度も思ったことない。会いたい、静奈に。


 私が睨むと、健ちゃんは「ばかだな、真央は」と穏やかに微笑んだ。


「静奈ちゃんも、同じだろ」


〈同じ? 何が?〉


「真央が、会いたいのと同じ、そう言ってんの。静奈ちゃんも、絶対、真央に会いたいはずだよ」


 今、私たちはかなり重大で、重い話をしているのに。それなのに、こんな状況にも関わらず、空気が重たくならないのは、健ちゃんがあっけらかんとしていてくれるからなんだと思う。


「行こう。こんなとこでうじうじしてても、何も始まんないだろ。静奈ちゃんじゃない可能性だって、あるんだし」


 な!、と強く念を押されて、私は覚悟を決めた。


 静奈に、会いたい。


 友達がいなくて、つまらなかった毎日を変えてくれた、私の親友に。


 一度も面倒臭がらずに授業や講義の内容を手話で通訳して、丁寧に根気強く勉強に付き合ってくれた、静奈に。


 会いたい。


 もしかしたら、静奈は変わってしまったかもしれない。でも、静奈は静奈で。静奈であることに変わりはないのだ。


 どんなに人が変わってしまっていたとしても、静奈を大好きなこの気持ちは揺るがない。自信がある。


〈静奈に、会いたい。協力して欲しい。お願いします〉


 静奈に、会いたい。






 



 







 




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