夕立
肌を撫でる風はまだ夏を含んでいるのに、美岬海岸はどこか切なげに秋の始まりの雰囲気が漂っていた。
穏やかに凪いだ、水面。
白く輝いていた太陽が、照れた人間の頬のように紅潮し、沈み始める。
雪だるまのような形をしていて、水平線から湧き上がっているように見えるのは入道雲。
上空は薄雲が広がり始めている。
波打ち際に近い砂浜で、何組かバーベキューをしているようだ。美味しそうな、こうばしい香りが潮風に流されて、駐車場までふわふわと漂ってくる。
凪いだ水面に、夕日が映り込んでオレンジ色に反射して眩しい。
さっき購入したストラップを渡そうとした時、健ちゃんがドアを開けて車を降りた。
「夕日、もっと近くで、見よう」
私は頷き返して、ストラップをサロペッパンツのポケットに忍ばせて、車を降りた。
水平線の向こうで、入道雲がさっきよりも大きく膨らみ、夕日の朱色に染まっている。
波打ち際を並んで歩くと、ふたりの影が長く縦に伸びた。白い波が私の足元付近まで打ち付ける。透き通った水だ。水中で細かい砂がくるくると踊っているように見える。
健ちゃんが私の肩を叩いた。顔を上げると、健ちゃんがジーンズのポケットに右手を突っ込んだ。取り出したのは、手のひらサイズの紙袋。ゾウ、ブタ、キリン。動物たちの可愛いイラストがプリントされている。
首を傾げると、健ちゃんは私の右手を引っ張ってそれを手のひらに置いた。
「やる」
私が自分を指さすと、健ちゃんは小さく笑って「うん」と頷いた。
「気に入るか、分かんないけど」
紙袋を開けてみると、小さなマスコットが付いたスマホストラップが出て来た。私はそれを夕日にかざした。
白い、子ウサギのマスコットだ。
緩く吹き抜ける潮風に揺れる子うさぎは、まるで元気に飛び跳ねているように見える。
「真央、うさぎが好きなんだろ」
私は嬉しくてたまらなくて、3回連続で頷いた。そして、〈ありがとう〉と両手を添えた。
健ちゃんは「べつに」と照れくさそうに突っぱねて、ふいっと水平線の方に視線を移した。
――すっごくうれしい 大切にするね
そんな健ちゃんの肩を叩き、スマホ画面を差し出す。
「安物だけどな」
そんなことない。私が首を振ると、健ちゃんはいよいよ本格的に耳まで赤くなって、「のど渇いたな」とあからさまに話題をすり替え、海の家の近くにあった自動販売機を指さした。
「真央は、なに飲む? 買って来る」
――お茶
スマホ画面を見せると、健ちゃんは「オッケー」と笑って、自販機に歩いて行った。健ちゃんが戻ってくるまでにスマホに子うさぎのストラップを付けようと思い、悪戦苦闘していると、背中を叩かれた。
えっ、もう戻って来たの?
と振り向くと、そこに立っていたのは健ちゃんではなく、知らない男の人だった。反射的に後ずさりしてしまった。
誰?
砂に後ずさりした足が取られて、後ろに転びそうになってしまった。次の瞬間、男の人が私の腕を掴んで、手繰り寄せるようにぶっきらぼうに引っ張った。
私は咄嗟に鼻を押さえてしまった。耳が聴こえないぶん、私は嗅覚が鋭い方だと思う。
酔っぱらっているようだ。男の人からは、アルコールと煙草の混ざった匂いが強烈に漂って来る。麦と炭酸の弾けるような匂い。ビールの匂いだ。
「ひとりで来たの」
一緒に飲もう、そう言った彼の指さす方を見ると、友人たちとバーベキューを楽しんでいるのだと察した。
私は左右に強く首を振った。
鼻の頭と耳まで赤くなって、目は充血しているし、よろよろと足取りもおぼつかず怪しい男の人は、若いのか年相応なのか、判別に悩んだ。おそらく、20代後半くらいなのだと思う。かなり酔っぱらっているようだ。
私は酔っ払い男の手を振りほどこうと、必死に抵抗した。でも、どんなに抵抗しても、男の人は力を緩めない。
頭にきた私は、酔っ払い男の左足のすねを蹴っ飛ばした。
「痛てえなあ」
酔っぱらい男は穏やかだった表情を歪ませて、私を怒鳴ったようだった。大きく開いた口から、強烈なアルコールの匂いが漂ってくる。
でも、少しも驚かず、びくつきもしない岩のような私を見て、きょとんとしてしまった。私が怖がりもしないから、拍子抜けしたのだろう。
怖くなんかない。
怒鳴り声なんてどんなものなのか聴いたこともないし、無視されたり、可哀そうねと同情されたりする方が、私はよっぽど怖い。
手を離して欲しくて抵抗し続ける私の腕を、酔っ払い男はもっと強い力で掴んできた。少し痛いくらいの力だ。これが男の人の力なんだろうか。すごい威力だ。
痛い、折れるかも、と思ったその時、大きな背中が私の前に現れた。酔っ払い男の手をほどいてくれたのは、健ちゃんだった。掴まれていた部分には、酔っ払い男の指の跡がくっきりと赤くなっていた。
健ちゃんが酔っ払い男に何か言ったようだ。
まさか、喧嘩になる?
私は慌てて健ちゃんのTシャツの裾を引っ張った。でも、私の心配は全く要らなかったようだ。健ちゃんがどう対応したのかは分からない。でも、酔っ払い男は機嫌良くにこにこしながら健ちゃんの肩を叩いて、仲間たちの方へふらふらしながら戻って行った。
拍子抜けした私は、相当間抜けな顔をしていたのだと思う。健ちゃんが私の顔を指差して笑った。私がつんとした態度をとると、健ちゃんは急に真面目な顔つきになった。
「負けん気も、ほどほどにな。女のくせに、男に蹴り入れたりするな」
なんで私が怒られなければいけないのだろうか。納得できない。私はなにも悪い事してないのに。
なんで、と反抗する目つきをして、健ちゃんの肩を強く突き飛ばした。健ちゃんは呆れたと言わんばかりに眉間にしわを寄せた。
「何もなかったから、いいけど。あの男が、まじで切れたら、お前、どうする気だったんだよ」
私はスマホに文字を打ち込んだ。
――私、そんなに弱くない 酔っぱらいなんかこわくない
「そういう事じゃなくて。もし、おれが気付かなかったら、お前は」
私は最後まで健ちゃんの唇を読まずに、再びスマホに文字を打ち込んだ。
――助けて欲しいなんて言ってない ひとりでも大丈夫だった
健ちゃんは「だからそうじゃなくて」と言いかけ、口をつぐんで、不機嫌な顔のまま水平線を睨み付けるように見つめている。
イライラする。気持ちがおさまらない。スマホに文字を打ち込む指が怒りで震える。夕日がとろけ始めた海は穏やかに凪いでいるのに、私の気持ちは嵐の時の波のように荒れ狂っていた。
――友達だからって そこまで心配して欲しくない
それを読んだ健ちゃんは「いいってもう」と私の手ごとスマホを右手の甲で振り払った。私は健ちゃんを睨み上げた。
「真央、あのな」
健ちゃんが私の両肩を捕まえて、続けた。
「勘違い、するな。お前、何も分かってないんだよ」
分かってないのは、健ちゃんの方だ。
健ちゃんは、他の人とは違う目で、順也や静奈と同じ目線で私を見てくれているんだとばかり思っていたのに。私の自惚れだったんだろうか。
耳が聴こえないんだから、立場をわきまえなさい、なんて。健ちゃんもそう言いたいのだろうと思うと、とても悔しかった。だから、またスマホに感情を書き殴って、健ちゃんに突き付けてやろうと思ったけれど、やめた。
今日一日があまりにも楽しかったから、幸せだったから、なおさら悔しくて、すごく悲しくて、なんだかもう甚だ面倒臭くなってしまったのだ。
やっぱり、ふたりきりで会わなければ良かった。
ひどく惨めだった。
聴くことができない、直ぐに言い返すことさえできない、機能を果たせない飾り物でしかない耳と唇に腹が立った。
肩を掴む両手を乱暴に振り払い、健ちゃんを強く睨みつけた。私は、感情をこうすることでしかぶつけることができない。
悔しくて、情けなくて、涙があふれてしまいそうだ。
下唇を力いっぱい噛んでうつむいた私の右頬を、優しい指が摘まんで引っ張った。
顔を上げると、健ちゃんと目が合った。
「言いたいことあるなら言え。我慢するな。鼻が伸びるって、教えただろ」
私はもう一度健ちゃんを睨んだあと、スマホに文字を打ち込んだ。
――結局 健ちゃんも 私をかわいそうだと思ってる
画面を覗き込んだ健ちゃんがけろりとして笑った。
「そんなこと 思ったことねえよ」
――ウソ 思ってる
健ちゃんは自分の唇を指さして「きけよ」と言った。
「そういう意味で、言ったわけじゃない。友達以前の、問題」
そして、もっと大きな口で、ゆっくり続けた。
「友達、とか。耳が聴こえない、の前に、真央は、女の子だろ」
え……と、私は固まり、そして、瞬きの仕方を忘れてしまったようだった。眼球が渇く。
「おれ、もっともっと、真央のこと、知りたいんだ」
そう言って、健ちゃんは私の手の甲にそっと触れて「払ってごめん、悪かった」と言った。
「これからも、真央と、一緒に、いたい」
もう草木も枯れた荒れ地のようだった感情が、一気に引けて行った。一気に引けて行ったと思ったら、今度は目の奥が熱くなって鼻の奥がつーんとしみた。
私の感情は忙しい。
健ちゃんはいつも通り、無邪気な笑顔で笑っているのに。八重歯を覗かせて、笑っているのに。目の前が涙で滲んで、せっかくの笑顔がぼやけて見える。
一緒にいたい。と、私も同じことを思った。だから、頷いて、なんとか笑った。
仲直りだな、と笑う健ちゃんに、私はサロペットパンツのポケットから、赤ちゃんライオンのストラップを取り出して渡した。
「おれに?」
頷くと、健ちゃんは大きな口で「ガオー」とライオンの真似をした。
私はスマホに今の気持ちを素直に打ち込んで、健ちゃんに差し出した。
――私も健ちゃんのことたくさん知りたい 一緒にいたい】
「なんだ。気が合うな、おれたち」
私たちは同時に吹き出して笑った。
その瞬間だった。
突然、健ちゃんがどんぐり眼を大きく見開いて、背中を丸め、びっくりした様子で「お」と口を開けた。そして、水平線をじっと見つめている。
何?
私も水平線を見てみたけれど、特に驚くようなものは見えない。ただ、確かに、水平線は不思議な色合いをしていた。
さっきまでの穏やかな夕日色ではなく、白い入道雲もない。不気味な黒鉛色と鉛色が混ざり合ったような積乱雲が横に広がり始め、夕日を飲み込もうとしている。
あやしい、空色。
でも、水面は相も変わらず穏やかに凪いでいる。
私の鼻がつーんとそれを捕らえた。塩分をたっぷり過ぎるほど含んだ、浜の岩が焦げるような磯の匂い。
突然、湿った風に煽られた。雨が降るかもしれない。そう、直感した。ついさっきまで、本当に綺麗な夕日が水面に映り込んでいたのに。
健ちゃんが、私の肩を叩いた。
「今、すごい雷だったな」
そう言った直後、健ちゃんははっと口をつぐんで、でも悪びれることもなくあっけらかんとして笑う。
「ごめんな。普通に忘れてた。真央には、聴こえないもんな」
こんな感じで。でも、逆に気を遣われるよりこんな感じで接してくれるから、心が軽くなる。私が首を振ると、健ちゃんは私の両肩を掴んで体を前後に揺すった。
「オロオロ、ドーン」
そして、大きな口で叫んで、どんどん広がる真黒な雲を指差した。
「雷の、音。オロオロ」
私はスマホに打ち込んで確認した。
――オロオロ?
「オロオロして、どうすんだよ。そんな音じゃねえし」
吹き出すように笑った健ちゃんが、「ちょっとかせ」と私からスマホをひったくるように奪った。そして、何かをぱぱぱっと打ち込んでわたしに返して来た。
――ゴロゴロ
へええ。雷はそういう音なのか。
健ちゃんが教えてくれる音には、いつも楽しいおまけがついてくる。まるで雑誌の付録みたいに。
だから、妙にわくわくしてしまう。
水平線が、カメラのフラッシュのように光った。これが私にとっての雷だ。もちろん、音は無い。
雷は、好き。お母さんや静奈は怖いから嫌いだと言う。でも、私は好きだ。だって、綺麗だから。
一瞬だけ凄まじい光を放った水平線。塩分を含んだ辛い匂いの潮風が、私の頬を撫でる。
肩を叩かれて顔を上げると、間抜けな埴輪のような顔の健ちゃんが訊いて来た。
「雷、怖くないのか」
私は頷いた。
――好き 綺麗だから
「だって、落ちるかもしれないんだぞ。ドーン、て」
ドーン、か。へえ。ドーン、なんだ。雷も。
――雷 もっと好きになった
私のスマホ画面を上から覗き込んで、健ちゃんは「え、なんで」と不思議そうに首を傾げた。
――ドーン 花火と雷 おなじ音なんだね
「ああ、なるほどな」
健ちゃんは納得がいったようなすっきりした表情のあと、柔らかく微笑んだ。そして、私の頬に右手でそっと触れた。
「真央の、目に映る世界は、全部、きれいなんだろうな」
まさか。そんなことはない。
絶対、音であふれている世界の方が、綺麗で楽しいに決まってる。
だから、私は首を振った。
すると、健ちゃんの右手は私の頬から、右耳たぶに移動した。右の耳たぶをそっと摘まんで、健ちゃんが言った。
「真央の、音に、なりたい」
健ちゃんの唇を読んだ私は、瞬きをすることができなかった。まるで雷に全身を打たれたように固まってしまった。
「おれ、真央の、音になりたいんだ」
西の空に黄緑色の稲妻がジグザクと走り、突然、風が止んだ。
冷たい。
雨がひと粒、ふた粒、私のまつ毛の先に触れて弾けて、細かく散った。硬直していた私は、その瞬間に、やっと瞬きをした。
健ちゃんが両手を広げて、曖昧な色の上空を仰ぐ。
「雨、だ」
海面に小さな円が幾つも幾つもできて、波紋を作り、そして広がっていった。
「おい、車に戻るぞ」
私たちが慌てて車に向かって走りだした、その次の瞬間だった。まるでバケツをひっくり返したような水が、空から降って来た。でも、西の上空は明るく晴れていて、水平線に沈む夕日が赤く燃えるように染めていた。
真っ黒な雲の切れ間から、水面に向かって金色の光が筋になって差し込んでいる。なんてきれいなんだろう。と、私は立ち止まってしまった。それくらい、厳かで美しい光景だった。
「夕立だ」
急げ、と健ちゃんが私の手を引いて駆け出そうとする。でも、私はその手を振りほどき、スマホに打ち込んだ。
「なんだよ、どうした」
健ちゃんが大きな手でスマホに傘をさしてくれた。
――夕立は、どんな音?
「あー」
健ちゃんが大きな口で言ってくれているのに、夕立が激しくてうまく見えない。びしょ濡れついでに首を傾げてみせると、健ちゃんはそれはそれは可笑しそうに笑って、私の右手に人さし指で書いた。
「ザー」
そして、ずいっと顔を近付けて、言った。
「ザー、だよ。ザー」
私はしっかりと頷いて、そして、雨を表す手話をした。
両手の甲を健ちゃんに向けて10本の指を雨が降るように降ろした。
「雨? それ、雨の手話?」
うん。そう。雨。ザー、ザー。健ちゃんが教えてくれた、雨の音。私は何度も何度も雨の手話をした。すると、私の手の動きに合わせて健ちゃんが「ザー、ザー」と音を添えてくれた。
「なんかもう、びっしょびしょだな。手遅れだな、もう」
そうだね。健ちゃん。
私たちは夕立に打たれ、びしょぬれになりながら、波打ち際で笑った。ほどなくして、夕立が通り過ぎ、健ちゃんが空を見上げて微笑んだ。
「上がったなあ」
西の空が明るい。夕立のあとは、夕方独特の雨上がりの空が広がっている。不思議な空合だ。淡い薄紅色に燃えた空に、くすんだ赤紫色。
「真央のせいだぞ」
と、健ちゃんが雨に濡れた鬣をかき上げて、私の頬をつねった。
「あの時、すぐ、車に戻ってたら、ここまで濡れなくて良かったのにな」
私も雨を含んで重みを増したおだんごを結び直して、健ちゃんの頬をつねり返した。
「本当に、負けず嫌いだな。かわいくねえ」
余計なお世話だ。私はそうやって生きて来たのだ。
私は健ちゃんに向かってあっかんべえをした。うお、生意気だな、と健ちゃんが私を捕まえようとする。私はその手をするりとかわして、素早く逃げる。雨上がりの砂浜は走りやすいように思えて、なかなかしんどい。
必死に走ってはいるのに、すぐ後ろに健ちゃんの気配を感じる。数メートルも逃げ切れずに、すぐに追いつかれて、とうとう腕を捕まえられてしまった。
「真央、見ろ」
健ちゃんが指さす方を見て、私は眩しさに目を細めた。
西の空に、赤い夕陽。まるで朝焼けのように神々しい。その上に架かるのは、七色の橋。虹だ。
「虹。久し振りに見たな」
健ちゃんはどこか遠くを見るような目で、どこか切なそうに、虹を見つめていた。
私たちは、どちらからともなく、自然に手を繋いで虹を眺めた。
「見たこと、ある?」
質問に私が首を傾げると、健ちゃんが虹を指さした。
「虹ってさ、一本だとは、限らないんだ。二重に、重なって、架かる時がある。でな、濃い方の虹に願いごとすると」
願いが、叶うんだ、と健ちゃんは言った。
本当なのか、嘘なのか、健ちゃんのでたらめなのか。それは分からない。でも、本当でも嘘でも、でたらめでもいいと思った。もし、本当に願いが叶うなら、その二重に重なる虹を見てみたいと思った。
「真央の、願いごとは、なに」
私はスマホの画面に打ち込んだ。
――聞いてみたい 健ちゃんの声
画面を見た健ちゃんは、少し寂しそうに目をふせた。迷惑だったかもしれない。そんなこと言われても返事にこまってしまうね、さすがに、健ちゃんでも。
私は重たくなった空気を変えようと思い、逆に訊いてみた。
――健ちゃんの願いごとはなに?
やや間があって、健ちゃんが言った。
「ライオン。ライオンに、なりたい」
思わず、スマホを落としてしまうところだった。ライオンになりたいと言った瞬間の健ちゃんの瞳に、吸い込まれてしまいそうだった。
「ライオンくらい、強くなれたら、真央を、守ってやれるから」
たいへんだ。
私の心臓の中で、100匹の子うさぎが飛び跳ね始めた。
健ちゃんの右手の親指が、私の下唇をつつと優しくなぞった。健ちゃんの顔がゆっくり近付いてきた時、鬣のような髪の毛先から落ちた雨粒が、頬を伝った。明るいキャラメル色の髪の毛に夕日が浸み込んで、セピア色に輝いて見える。
健ちゃんから離れることも、拒否することだって、簡単だった。でも、私はその瞳から目を逸らすことができなかった。ひどく傷ついたような、悲しい目を、健ちゃんはしていた。
どうして、そんなに、泣きそうな目をしているんだろう。そう思ったときはもう、健ちゃんの大きな手が私の耳ごと包み込んでいて、そっと目を閉じた。
自分の唇が震えていることに気付いたのは、健ちゃんの唇が触れた瞬間だった。
初めてのキスは、熱い夕立に虹が溶けた、優しい雨の感触だった。
「おれさ、ここ何年か、ずっと、人間不信だったんだ」
驚いた。こんなにも人懐こくて、明るい健ちゃんが?
「なんかもうさ、辛いことばっか続いて、苦しかったんだ。だから、ライオンが好きなんだ」
私は、健ちゃんの唇を読み取ることに必死だった。
「ライオンは強いから、うらやましい。おれも、無敵になりたい」
初めて会った日から、健ちゃんはいつも無邪気で、あっけらかんとしていた。そんなふうにいろんな思いを抱えているなんて、想像もしてなかった。
「本当に、まじで、辛かったんだ」
けれど、本当に辛そうに話すその表情を見ていると、なぜだか無性に、こっちも泣きたくなった。
「でも、真央に会って、変わろうって、思うようになった」
健ちゃんの過去に何があったのか、私には分からない。でも、よほど辛いことがあったのだろうと、分かるような気がした。
「泣くな。なんで、真央が泣くんだよ」
健ちゃんが私の涙を親指で拭ってくれたその時に、自分が泣いていることに気付いた。
「真央は強いな。かっこいい。おれも、真央みたいに、強くなれると思う?」
私はスマホに打ち込んで、健ちゃんに差し出した。
――健ちゃんは強いよ わたしなんかより ずっと強い
それを見た健ちゃんはちょっと自信なさげに、でも、微笑んだ。
「ありがとな」
私は頷いて、またスマホに文字を打ち込んで健ちゃんに見せた。
――ライオンほどじゃないけどね
私がふふんと偉そうなジェスチャーをすると、健ちゃんは悔しそうに私を睨んだ。
「生意気。まじで、負けず嫌いだしな。なんか、悔しい」
肩を弾ませて笑う私に、健ちゃんはいつもより強い力でデコピンをした。そして、私に背を向けると、海に向かって何かを叫んだようだった。
――なんて言ったの?
背中を叩いて、スマホ画面を見せると、健ちゃんは八重歯を見せて屈託のない顔で笑った。
「真央は、幸せになれるよ。今、虹に、お願いしといてやったから」
真央の、願いごとが、全部、叶いますように、って。
と、健ちゃんは言い、「帰るぞ」と私に背を向けて、ひとりすたすたと歩きだした。その後ろ姿に、思わず目を細めた。キャラメル色の髪の毛に夕日が当たると、キラキラ輝いて眩しかったから。
私は、ライン画面を開いて、健ちゃんにメッセージを送った。
――ありがとう
すたすたと歩いていた健ちゃんが何かに気付いたのか、立ち止まり、ポケットからスマホを取り出して確認している。トーク画面に既読が付いた。そして、振り向いて呆れたように笑った。
「どういたしまして」
ほら、帰るぞ、まじで風邪ひくって、と健ちゃんが来い来いと手招きをしている。とっても眩しい、笑顔で。
その瞬間、私は、思わず胸を押さえた。子うさぎたちの正体を、知ってしまったから。
私、この、弾けるような笑顔が、好きだ。あっけらかんとして、無邪気に笑う、この人が、好きなんだ。だから、子うさぎが飛び跳ねるんだ。
私は一度空気を飲み込んでから、健ちゃんに向かって両手を動かした。
〈私、健ちゃんの、笑顔が……好き〉
「は?」
雨上がりの風が、私の背中を押した。
「だから、手話、分かんねえって。まじで、分かんねえの、おれ」
分からなくていい。
〈でも、健ちゃんが、笑うと、うさぎが、飛び跳ねる〉
私の手話を見て、健ちゃんが楽しそうに駆け寄って来た。
「お、それ、分かる。うさぎだ」
当たり。私は微笑みながらしっかりと頷いた。すると、健ちゃんは嬉しそうに笑って、元気に笑った。
やっぱり、この笑顔が好きだと思った。
たぶん、初めて会った日から、ずっと。私は、健ちゃんを好きだったのだ。
「帰るぞ。真央の父ちゃんに、怒られる」
そう言って、健ちゃんが私の手を握った。私もその手をしっかりと握り返した。
「来週の日曜日も、あけといて。その次も、そのまた次も」
もうじき、夕日が沈む。空が少しずつ夜の始まりの準備を始めたようだ。南の空に、ひとつだけ、小さな星が弱い光で輝いている。
「また、一緒に、いろんなとこに、遊びに行こう」
私は頷き返しながら、思った。ずっとこうして、いつまでも健ちゃんと手を繋いでいたいと。離したくない、とも。
別に、わがままを言うつもりはない。
両想いになりたい、とか、付き合いたい、だとか。そんなこと、望んじゃいけないことは分かっている。無理なこともちゃんと理解しているから。
ただ、ずっと、一緒にいたいと思った。恋人が無理なら、友達のままでいいから。だから、こうして一緒に笑っていたい。そう思った。
でも、そんなことさえ、叶わなかった。
せっかく、距離が縮んだと思ったのに。
輝き始めたばかりの目の前が暗く閉ざされようとしていたことに、私はまるで気付いていなかった。
健ちゃんの過去を知ってしまう日が間近に迫っていたなんて、想像もしていなかった。
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