第33話

王都に流れる空気は重かった。誰もがその顔を乾いた砂に向け、かつての活気は見る影もない。


けれど客人は駆け出して、王の元へ向かった。彼が通り過ぎたあとには風が立ち、にわかな砂が舞い上がった。


「カシュハさま!」


王の天幕に飛び入った客人は、疲れと痛みが滲む王の表情を見て胸が締め付けられる思いだったが、駆け寄らずには居られなかった。王を取り囲む研究者たちも疲れ果てているのか、風のごとく現れた客人に驚く様子を見せることもない。


「タタユク。よく無事で戻ってくれた」


王が眉を下げて笑う。客人の表情が明るいのを見てとって、王はにわかに心が浮つくのを感じた。もしや、何かよい知らせを持ってきたのかも……と。


「はい。お伝えしたいことがあり、急いで帰ってきました」


研究者たちはそれを聞いて身を乗り出した。


「何か有益な情報が見つかったのですか?」


「さまよう湖を取り戻す方法が分かったとか?」


「かつての水脈を見つけたとか!」


矢継ぎ早に疑問を浴びせたあと、彼らはごくりと唾をのんで答えを待った。


タタユクは、彼らの顔をひとつずつ見つめたあと、王に向かって言った。


「かつての、ではありません。今もまだ息付いている川を、見つけました」


それを聞いた王は、ああ、と息を吐いて、顔を伏せた。タタユクがそばに寄ると、その手をぎゅっと握る。


「よかった……」


この王は搾り出すような声で呟いた。


「ありがとう、タタユク。そなたに持てる限りの感謝を送ろう」


客人はそのいささか骨ばった手を握り返した。彼は、まだ言わねばならぬことがあることを、ようやく思い出した。


「カシュハさま。ほかに、王の病や星のかけらについても分かったことがあります」


それがいい知らせでないことを悟った王は、互い違いの瞳を客人のそれと向き合わせて、少しの笑みを浮かべた。


「ああ。だが今夜はもう休もう。あの道のりをこんなに短い間に歩いたのだから、そなたも疲れているだろう」


客人は顔をくしゃりと歪めて、頷いた。


王はそのあと、水脈を掘り起こすために、力に自信のある者たちを集めて旅の準備をするよう言った。始めは硬い表情で聞いていた者たちも、その旅が国を追われるためではなく、国を救うためだと理解し始めると、ぱっと表情を明るくさせた。


結局その夜はみんな、王も研究者も、旅の準備をしたあとに休むことになった。この日、砂漠の民は久しぶりに深い眠りにつくことができた。もう不安はないと、この地で安心して暮らせると、心から思えたからだ。王と客人のふたりを除いて。


客人は王の天幕で横たわり、窓ごしに星空を見ながら、そっと息をついた。


「眠れぬか?」


仕事を終えて帰ってきた王が、そっと声をかけた。


「……疲れすぎると寝つきが悪くなるというのは、本当のようですね」


客人がそう言って苦笑を返すと、王は困ったような顔をして、客人の隣に腰を下ろした。


「タタユク。そなた一人に無理をさせて、本当に申し訳なく思っている」


客人は体を起こして、あわてて弁明した。


「そんなふうに思っていただかなくてもいいのです。わたくしはわたくしのために旅に出ましたから。それに……」


客人は王の姿を見た。今は闇色に変わってしまったさらりとした肌、互い違いの瞳、癖のない黒髪……自分とは全く違う、その姿形を。


「あの旅はわたくしに必要なものでした。やるべきことに気付かせてくれた」


二人は完全に別の人間で、異なる国の民だった。たとえその血が元は同じでも、ここにいる二人はまるで違う。


「……そなたはまだ、止まる気がないのだな」


客人の光に満ちた瞳を見て、王は眉を下げた。この客人は驚くほど活力にあふれている。この国に長年閉じ込められていた王には、少しまぶしいくらいに。


「これから何をするつもりなのだ?」


王は客人のとなりに横たわり、目を閉じてそう聞いた。これまでのように、いつ眠っても咎めのない、夜話をはじめるつもりだった。


「記録を残そうと思うのです」


「……記録?」


王は眠ることを一瞬忘れて、客人の顔を見た。王のそれよりい明るい肌が、月明かりに照らされて浮かび上がっている。


「太陽の国があの場所にあったこと、王の歴史、わたくしたちの旅について……そのすべてを書き残しておきたいのです」


「後世のためか?」


「もちろん、それもあります。未来の王が、世界を知るすべなく、膝をつく姿は見たくありませんから。でも、それだけではなくて、わたくし自身のためでもあるのです」


客人は、星の光を美しくはじく、色違いの瞳を見た。


「わたくしは王になりません。宰相の助手にも。ただのタタユクとしてこの地で歩んだこと……あなたと生きたことを、残しておきたいのです」


闇に溶けてはっきりと見えないまま、王の頬に手のひらを伸ばした。王はそれに自分の手を重ねて、そっと頬をすり寄せる。


「……」


タタユクは息をつめた。王から触れることは、初めての夜以外、ほとんどなかったからだ。


衣ずれの音がやけに大きく聞こえる。勇気を出して、タタユクは顔を寄せた。


「……口付けてもよいですか」


その声音があまりにも堅いので、王は思わず笑ってしまった。


「はは。いいだろう、そなたにだけ許す」


微笑んだ王は、唇がふれる直前、ひと瞬きの間だけ思わず震えた。


もう戻れないと思った。


この青年なしに人生を語れなくなった。たとえそれが残りわずかだとしても、王にとっては重大なことだった。


彼とまだ生きていきたい。未練が若木のように育つのを、もう止めることはできない。


「……カシュハさま」


彼のやわらかく強い眼差しを、この身が果てても残るほど深く、脳裏に刻んだ。

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