第10話

「うん、いいんじゃないですか。全体的に文章の違和感はないし、面白いと思いますよ」


コピー用紙をたたみながら細美が頷くのを見て、ほむらはガタンと椅子から立ち上がった。


「ほんとに面白いって心の底から思ってますか?」


必死の形相に、細身は思わず笑った。


「思ってる、思ってる」


「はああ〜……よかった……ここまで長かったあ……」


机の上ににだらりと体を投げ出して、ほむらは魂も一緒に出ていきそうな声をあげた。廊下を通り過ぎる女子学生が「なにあれ?」「怒られてんのかな」とひそひそ囁く声が教室まで届き、細美は喉を鳴らす。


「第一話としては、これでいいと思いますが……問題はそのあと。きみはこれを完成させて、ゆくゆくはどうする算段なんです? 賞に応募するのか、ネットか何かに掲載するのか……賞をねらうなら、締切をしっかり守らなきゃいけませんが」


ほむらは“締切”という言葉を聞いて震え上がった。


「ネットに載せることにします。応募は考えてません!」


彼の課題の提出状況をよく理解している細美は、ひとつため息をついて、「そうですか」と答えた。


「まあ、それも目的によりますから……ただ見て欲しいだけならネットに公開すれば十分ですが、プロになりたいならとにかく応募経験を重ねた方がいいと思いますけどね」


細美は担当クラスでもない生徒の遊びのような執筆に真剣に付き合っている。過去に経験があると言っていた彼が内心どう思っているかは分からないが、ほむらや彼の作品を茶化すことは一度もなかった。ほむらはそれに居心地のよさを感じつつ、他人事のように変な先生だなあと思っていた。


「プロになるとか有名になるとかは、いらないんです。ひとりだけに届けたいので」


ほむらがまっすぐに見上げて言うと、細美は少々面食らった。


「……なるほど」


ほむらは若者のみずみずしさを具現化したような若者だった。時折、周囲の大人たちはその猪突猛進さが羨ましくなる。


「それなら、一話完成させるごとにどこかのサイトに載せるのはどうです? 反応があればモチベーションに繋がるでしょうし」


若者はふむと考え込んで、しばらくあとに頷いた。


「そうします。でもあの、続きも見てもらえますか? 言葉とか漢字の使い分けとか、まだ不安なので」


そのタイミングで下校時間を知らせるチャイムが鳴った。ほむらがびくっと肩を鳴らしたあと、時計を見て鞄の取手をつかむ。細美はチャイムが鳴り終わるのを待って、電気のスイッチに近づきながら、言った。


「もちろん。ここまで来たんだから最後まで付き合います。ただ続きが気になるから、卒業までに完成させてくださいね」


「えっ……卒業まで?」


ふたりは教室を出たあと、肩を並べて廊下を歩いた。


「というか土岐さん、そろそろ三年生ですよね。来年の夏までには必ず終わらせてください。絶対。それ以降は私も時間を取れなくなりますから」


「えええ……無理だよそんなの……」


「無理でもやるんですよ」


「ここまで書くのに半年もかかったのに……」


細美は生徒玄関までほむらを見送って、「頑張ってくださいね」と声をかけた。


「完成、楽しみにしてますから」


対する青年は、水に濡れた小動物のような表情に、ほんの少し喜びの明かりを灯した。


「がんばります……」


さようならを言い合って、細美はほむらの背中を見送った。


「……若いなあ……」


四十路の身には少々刺激が強いが、できる限りのことをしたいと細美は思っていた。それは彼自身がかつて十七歳で、あの青年を見ていると、その輝かしい日々が蘇ってくるからだった。しかしその日々も遥か彼方─先に立つ者としてできるのは、彼の羽化したばかりの羽根が傷付かぬよう、そっと支えることだけだ。




─その一方。ほむらはそんな思いも知らず、数時間後には箸を片手にスマートフォンとにらめっこしていた。


「ほむら、行儀悪いからやめなさいよ」


「ん〜……」


「ちょっと! 聞いてんの⁉」


「んー」


「……まったく、こうなると聞く耳持たないんだから……」


ため息を吐く母親の前でほむらがじっと眺めているのは、小説投稿サイトの作品ページだ。


「(投稿してすぐだけど、読んでくれてる人が結構いる! 明日の朝には“彼”が見つけてくれてるかも……)」




そんな彼の期待とは裏腹に、作品にそれらしいコメントは来なかった。第二話、三話……と続けても、音沙汰はない。


「やっぱり小説とか読まないタイプだったのかなあ?」


ほむらは意気消沈して明李に愚痴った。


「まだ五話でしょ? 諦めるには早くない?」


慰める明李に対し、ほむらは唸る。彼にはどうしても、これを通り過ぎることができない理由があった。


「でもタタユクはああいうの、絶対見逃さないタイプなんだよ。おれが贈ったものなら、砂漠の砂の中からでも宝石を見つけられるよ。そういう人だったじゃん」


「まあ……分からなくはないけど」


明李は半目して同調した。そうなのだ。“彼”はこの青年─カシュハに関しては、常識外れなほどに熱意を注いでいた。


「だからさあ、まだ“彼”はこの世界に居ないのかも。こんなに歳の差があると困っちゃうな……」


ほむらのつぶやきに、明李は反応しなかった。ただ目を閉じて、そうであればどれほど良いだろうかと思うにとどめた。


「でもまあ、完成させるよ。これは今の“彼”にじゃなくて、タタユクに贈るものだから」


「……うん。それがいいと思う」


その顔に迷いがないのを見てとった明李は、薄く笑って答えた。前世がどうだったかは知らないが、今の彼のまっすぐさは、ある種の希望に思えた。これほど美しい直線ならば、きっとかの愛し子にもすぐに会えるだろうという、願いにも似た希望だ。

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