第5話

ひとつめの遺跡は、いびつな円状の塀に囲まれた、古びた石碑だった。ぐるりと塀の外を回った後、王は「ふむ」とあごに手を添えた。


「これは、この砂漠の形だな。そちらが少しでっぱっていて、こちらがへこんでいる。タタユク、そなたの立っているところが森林の国だ」


その言葉を受けて、タタユクは驚いたように眉を上げたあと、微笑んだ。


「ならば、わたしが超えた山は、この塀ということになりますね」


傷が入ったでこぼこの側面を撫でながら、タタユクが囁く。王は、その顔に後悔が浮かんでいないことを、嬉しく感じた。


「そうだ。……タタユク、よくぞここまで来てくれた。このように旅に出ることができたのも、そなたのおかげだ。来訪を嬉しく思う」


王のまっすぐな眼差しを受けて、タタユクは頬を染めながら手を離した。塀の下をくぐりながら、小さく、口がもつれそうなほどの早口で、王に言葉を返す。


「わたくしもここに来れて嬉しゅうございます。─さあ、中へ。石碑を見てみましょう、カシュハさま」


その頬が砂色に染まっているのを見た王はひっそりと笑い、タタユクのあとに続いた。




中には、二人が並んで歩けるほどの石の床が敷かれていた。石碑は存外大きく、王の胸あたりまであった。


石碑を前にした二人は、全く違う反応をあらわにした。


「なんだ、この石碑は? 聞いたこともないことをつらつらと……それに、所々に知らぬ単語が混ざり込んでいる! あの鳥め、でたらめを書かせたな」


肩をいからせるカシュハの隣で、タタユクは目をいっぱいに開いて呆然としている。


「どうして森林の国の言葉が、ここに書かれているのでしょう? しかも、むずかしい言葉なのに、線ひとつ間違っていない美しい筆跡で」


二人はお互いの言葉を聞き、ふいと向き合った。鏡のように同じ表情を浮かべて。


「もしや、読めるのはこれらの文字か?」


王は、いくつもの単語を指差しながら聞く。その指が新たなそれを差してゆくたび、タタユクの顔には驚きが刻まれていった。


「ええ、そうです! それは、森林の国の民が守護神としている星の名前─もっとも過酷な季節を越すための祈り─森林の国の民をあらわす言葉─……あの、これらはどのような意味で使われているのですか? 私の祖母でも使わないような、古い言葉たちばかりですが……」


タタユクが混乱した顔でそう言うので、カシュハは石碑に書かれた文章を一節ずつ声に出して読んでみせた。




〈この地は砂漠である。


民たちはここを太陽の地と呼ぶ。


 この美しく厳しい砂の世界においてわれらの道しるべとなるのは、四方を取り囲む山々と、天上にかがやく星々である。


山々の名は、次のとおり。


この石が向かい合う山の名はイトゥカ─氷の国との狭間。


背を向けるはツィーカ─海の国との狭間。


右手にはペアラン─風の国との狭間。


左手にはスミラタ─森林の国との狭間。


星々の名は、ここには書き切ることができないほど数多くある。


鳥のようにはばたく“白き太陽”はもっとも過酷な乾季に、


双葉のようにひらく“リオブの樹”は雨季にのみ現れる。


 さまよえる者たちは、これらの星について歩くがよい。その先はこの地の楽園、美しき鳥と赤き布が降りる都である。


この地の民は聡明で、明朗で、客人へのもてなしを惜しまない。


隣人への思いやりを消して失わない。


汝がヨルタを唱えるとき、民は太陽にその日の幸福を祈るだろう。


汝が湖をみちびくために線を引くとき、民は星を読むため砂に身をうずめるだろう。


 汝がこの地を離れるとき、民は汝を追うことなく、山を越えるだけの水を与えるだろう。


ここに誓おう。


アユツカの民たちよ。


われらはそなたとともにある。〉






「森林の国の民のことだけ、妙に詳しく書かれていますね」


「そうだな。かつては交流があったのかもしれない。この塀のように─」


王はぐるりと周囲を見渡しながら、言葉を続ける。


「他と比べて、スミラタの山がいちばん低いからな。そなたのようにあの山を越えた者が、過去にいたのだろう」




二人はしばらく遺跡のそばで休むことにした。水筒にまだ水がたくさんあることを確認して、王は都から持ってきた果物とパンを取り出し、食事の準備をした。その頃にはもう日が落ちようとしていた。


日の出とともに王都を出立し、一日中歩いていたのだ。二人はすっかり疲れ果てて、喉は砂漠のように乾き、腹は音も鳴らぬほどに空っぽだった。水筒の水を飲み干さないようにするのは大変な苦労だったが、なんとか食事も終えて、そこでようやく一息つくことができた。


日が落ちてからもあたりには光が残っている。ふたりは薄い敷布の上でその風景をゆったり眺めていたが、ついには眠気に負けてしまった。体を横たえて、砂の音を聞きながら、うとうとし始める。


しかし、砂からすっかり熱が抜けて冷たい風が吹くようになると、タタユクの肩が震えはじめた。


「寒いか?」


「……はい。カシュハさまは平気なのですか?」


タタユクは血の気のひいた顔を上げて王を見た。今夜は大きな月が出ていて、彼の頬や口元に落ちる影がよく見える。


「この羽織は、昼間は風を通すが、夜になると風を通さなくなる。そなたにもそのような服を用意したはずだが、足りなかったようだな」


「わた、わたくしは……この国の人間ではありませんから。暑さにも、寒さにも……弱いようです」


タタユクの震えは大きくなるばかりだった。王は立ち上がって、敷き布を寄せた。そして羽織の端をタタユクの肩にかける。


「な……何を?」


「仕方がない、今夜はともに寝よう。この羽織さえあれば大丈夫だ」


「いけません」


タタユクが震えながら堅く首を振るので、王は困った顔をして「なぜ?」と返した。


「わたくしのような者が、王と共寝するなんて、変ですよ」


そして、タタユクがあまりにもばかなことを言うので、今度は笑った。


「変なものか。少なくとも、この国では変ではない。王の私が許しているのだから」


タタユクはそこでようやく目元をゆるめた。羽織の下で、彼の体がようやく熱を取り戻し始めたのだ。


「ありがとう……ござい……ます……」


安心したタタユクは、すぐに寝入ってしまった。王はふっと一息ついて、星空を目に入れないよう、すぐに目を閉じる。


王は暗闇のなかで石碑のことを思うが、うまくまとまらなかった。タタユクと共に読んだ内容は妙に詳しく、不死鳥がわざわざあのような嘘をでっちあげたとは思えなかった。


けれど、何かおかしな感じが確かにしたのだ。太陽の民がわれらの祖先だったとして、あのようなことをわざわざ書き記すだろうか? 誓いのような言葉を、なぜ王都から遠い、湖さえさまようことのない不毛の地の中心地に立てたのだろうか?


王はしばらくして、どれほど考えても答えに辿り着けないと悟り、腕のなかに顔をうずめた。この旅はずっと望んでいたことであったが、彼もまた、すっかり疲れ果てていた。


王でさえ疲れているのだ。左手に横たわる客人のそれは遥かに重いはずだった。


王の体はいつでも燃えるように熱いが、タタユクの体はそうではない。私たちははじめから明らかに違う存在だった。


それでもここまで、共に来たのだ。


王にとってはそれだけで十分だった。

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