【歌と心】歌に「心」を込めるな――込めているフリをしろ
晋子(しんこ)@思想家・哲学者
私たちはいつになったら本物の『歌』を歌えるようになるのか…
歌には心を込めなければならない。
誰もがそう言う。歌は感情表現だ。歌詞に感情を乗せて、声に魂を込めて、聴く人を泣かせろ――。
でも、本当にそうなのだろうか?
私は、そうは思わない。むしろ逆だ。
歌に心を込める必要はない。
いや、正確に言えば、意図的に心を込めようとした時点で、それはもう嘘くさくなる。
感情を乗せようと努力した歌は、なぜか人の心を打たない。涙を流して歌っても、こちらの胸には響かない。それは、歌に「感情の演技」が混じってしまっているからだ。
音楽は本来、心に自然と宿るものだ。
怒っていれば声が震えるし、悲しければ自然と喉が詰まる。
そのとき、私たちは感情を“込めよう”としているわけではない。
ただ、感情が勝手に声に現れてしまっているのだ。
これこそが、本当の意味で「心のこもった歌」なのではないか?
努力して込めるのではなく、気づいたら滲み出てしまっているような、そんな「無意識の情動」こそが、人の心を動かす。
だから、私はこう思う。
歌に必要なのは、「心を込めようとすること」ではなく、ただ「正直に歌うこと」だ。
正直に音程を出し、正直にリズムを刻み、正直にその曲と向き合っていれば、勝手に心はにじみ出る。そこに下手な演技はいらない。
むしろ「感動させてやろう」と思った瞬間に、すべてが台無しになる。
しかし、ここで一つ矛盾が生まれる。
本番のステージでは、そんな自然な状態を保つのが難しいのだ。
照明が当たり、客席の視線を浴びる。失敗できないという緊張、拍手を期待するプレッシャー、完璧な表現をしなければならないという使命感……。
そんな状況の中で、果たして自然に心を滲ませることなんて可能だろうか?
たぶん、無理だ。
だからこそ、「心を込めているフリをすること」が必要になる。
これは偽善でもごまかしでもない。
むしろプロの歌い手とは、「心がこもっているように見せる技術」を持った人のことを言うのだと思う。
その技術とは、たとえばフレーズの終わりにほんの少し息を残すことだったり、目線の動きだったり、ブレスのタイミングだったりする。
それは舞台上の「演技」だ。
けれど、それを見抜ける人はいない。むしろ、その演技を通して、観客は「本物の感情」を受け取ったと錯覚する。
そして不思議なことに、そうやって「フリ」を続けていると、いつしか本当に感情が乗ってくる。
つまり、「心を込めているフリ」は、やがて本当に心を呼び起こすスイッチになる。
だから私は、こう結論づける。
歌に心を込めようとしてはいけない。
だが、心を込めているフリをすることは、極めて大切である。
本物の感動は、演技と感情の一致から生まれる。
偽物のように見えて、実はその「フリ」こそが、感情を引き出すための鍵なのだ。
結局、音楽とは「真実だけでは足りない世界」なのだと思う。
ただ正直でいるだけでは、伝わらないことがある。
だからこそ、人は「フリ」をする。
その「フリ」が積み重なって、やがて本物の歌になる。
演技と誠実は、対立するものではない。
感動とは、嘘のように見える真実なのかもしれない。
以上
【歌と心】歌に「心」を込めるな――込めているフリをしろ 晋子(しんこ)@思想家・哲学者 @shinko
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