第4話

月が、やけに白く見えた。


 深夜一時を過ぎているのに、スマホの画面はまだ光り続けていた。

 既読はつかない。返信もない。

 それでも俺は、ただ待ち続けていた。


 ふと、通知音が鳴る。


 ──『今から、会える?』


 白鳥先輩からだった。

 短く、でも迷いのない言葉だった。


 


 それから三十分後、先輩は俺の部屋のチャイムを鳴らした。


 


「……こんな時間にごめん。迷惑だった?」


「……いいえ、むしろ、来てくれてありがとうございます」


 俺は玄関を開けて、先輩を迎え入れる。

 先輩は何も言わず、黙って上がり、ソファに腰を下ろした。


「部屋、落ち着くね。……なんか、あなたっぽい」


「どんなですか、それ」


「ちょっと不器用で、でも……安心する感じ」


 先輩は笑った。どこか疲れているような、でも優しい笑顔だった。


 


 俺は、湯を沸かしてカップにティーバッグを入れる。

 いつもは無口になる時間が、今日は少しだけ騒がしかった。


 何を話せばいいかわからなかった。

 でも先輩は、最初から決めていたようだった。


「……千早に、別れを告げたの」


 その言葉に、身体がかすかに揺れる。


「……本気で、怒られたわ。今まであんな声、聞いたことなかった。

 “どうして?”って、“何が足りなかった?”って」


 先輩の声は震えていなかった。

 むしろ、どこか晴れたような響きがあった。


「でも、答えは言えなかった。“あなたより大切な人ができた”なんて、言えるわけがない」


「……」


「ただ、“自分が自分じゃなくなっていくのが怖かった”って、そう言ったの」


「それって……」


「千早と一緒にいるとね、私はちゃんとしなきゃって思うの。

 強くて、優しくて、賢くて、完璧で。……でも、あなたといるときは、ただの“麻衣”でいられるの」


 それは、あまりにも静かで、あまりにも本音だった。


 


「わたし、ずっと“正しい恋”をしてきた。

 でも、正しさより、あなたが欲しかったの。

 そう思った時点で、もう戻れなかった」


 


 俺は、言葉を飲み込んだまま、先輩の横に座った。


 先輩の目が、俺をまっすぐ捉える。


「ねえ……キス、していい?」


 俺は、黙って頷いた。


 


 唇が触れた。


 それは、何の装飾もない、ただの“はじまり”だった。


 


 触れたまま、先輩が小さく息を吸った。


「ちゃんと好きになっていい?」


「……ずっと、待ってました」


 


 その夜、俺たちはひとつの名前も与えずに、ただ求め合った。


 やさしく、でも確かに、お互いを知っていく。

 手の温度。肌の匂い。吐息のかすれ。


 全部、ただの現実だった。夢ではない。


 


 朝になって、カーテンの隙間から光が差し込んだ。


 隣には、白いシャツを羽織った先輩がいた。


 ベッドの端に座り、髪を結い直していた。

 こちらに気づいて、ふと笑った。


「おはよう。……朝ご飯、作ってみよっか。できるかは、わかんないけど」


 


 その笑顔は、昨日までと少しだけ違っていた。


 誰かのものじゃなく、

 今はもう、俺の隣にある笑顔だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る