好きになった人には、すでに“彼女”がいました。でも諦めませんでした

夜道に桜

第1話

最初に惹かれたのは、声だった。


 低くて、透明で、どこか醒めていて。

 感情の起伏が少ないくせに、なぜか一言一言が心に残った。


「これ、間違ってるよ。ギリシャ神話に“グリフォン”は出てこない。あれは中世の創作」


 初対面だった。

 大学の図書館、文学部のゼミ資料を集めていたとき。

 間違って書き写していた俺のノートを、ふいに覗き込んで指摘してきたのが、白鳥先輩だった。


 さらりとした黒髪と、切れ長の目。

 明らかに“浮いてる”雰囲気なのに、それを隠そうともしない。

 その横顔が、やけに印象に残って――


 俺はそれ以来、何度も図書館へ足を運ぶようになった。


 


 白鳥麻衣。文学部三年。


 知的で、美しくて、どこか遠い人。

 最初は、ただ憧れていただけだった。

 けれど、偶然を装って何度か話しかけているうちに、先輩は少しずつ俺のことを覚えてくれた。


「青木くん。相変わらず暇そうね」


「ひ、暇じゃないですよ。先輩がいるとわかってて来てるわけじゃないです」


「ふふ。嘘下手すぎ」


 そんな風に、笑ってくれるようになった。


 名前を呼ばれるたびに、心臓が跳ねた。

 笑ってくれるたびに、どんどん惹かれていった。


 でも――それは全部、罪だった。


 


 先輩には、恋人がいた。


 女の人だった。


 名前は、千早さん。

 先輩と同じゼミにいた別学部の人で、今は外部の編集プロダクションに勤めているらしい。


 俺は偶然、その姿を見かけたことがある。


 図書館の前で、白鳥先輩の手を握っていた。

 細くて白い指先を、千早さんは迷いなく絡め取っていた。


「……帰ろう?」


 優しい声だった。

 微笑む千早さんに、先輩は何も言わず、黙って頷いた。


 俺の存在なんて最初からなかったみたいに、

 二人は自然に、並んで歩いていった。


 


 その夜、眠れなかった。

 何をしてるんだろう、と思った。

 “叶わない”って、わかってたじゃないか。


 でも、それでも。


 


 翌週、ゼミ帰りに、また声をかけた。


「先輩、あの……これ、レポートの参考になるかと思って……」


 差し出したのは、自分のノートだった。

 全然話せなくていい、ただ、少しでも繋がっていたかった。


「ありがとう。……青木くんって、まっすぐだよね」


 そう言って笑う先輩の笑顔が、残酷なくらい優しかった。


「私ね、あの人とは……ずっと一緒にいるつもりなの」


 まるで、俺の気持ちを見透かしたように。

 それでも、拒絶ではなかった。


「だけど、最近ちょっと喧嘩が多くて。価値観の違いっていうか……疲れちゃう時、あるんだ」


 先輩は、誰に言うでもなくそう呟いた。

 俺は、言ってしまった。


「……俺じゃ、駄目ですか?」


 空気が凍る音がした気がした。


 だけど、先輩は逃げなかった。

 むしろ、まっすぐに俺の目を見た。


「駄目よ」


 はっきり言われた。

 けれど、怒っていなかった。

 むしろ、声は震えていた。


「私、ちゃんと恋人がいるの。今でも好きよ。……それでも、寂しくなる夜がある。それを言い訳にして、誰かに甘えるわけにはいかないの」


「……俺は、言い訳でいいです。最初はそれでも。先輩が、本当に疲れた時に、思い出してくれたら」


「そんなこと言って……本気で、誰かを壊すことになったら、どうするの?」


 先輩の声が低くなった。


「俺は……先輩を一番にしたいんです。他の誰かの幸せより、先輩が笑ってくれる方がいい。そんなの間違ってるかもしれないけど、それでも、諦められないです」


 


 沈黙が落ちた。

 先輩は、ただ俯いていた。


 そのまま別れた。

 でも、次の週――


 


 また、会ってくれた。


 


 少しずつ、時間が増えていった。

 白鳥先輩は、彼女と別れていない。

 でも俺に、会うことをやめなかった。


 ――その時点で、もう裏切りは始まっていたのかもしれない。

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