置かれた場所で咲いてたまるか
光織 希楓
第1話
(――ムカつく。)
大学一年生の
ああ、まただ、泣きたいわけじゃなかったのに。ムカつく、ムカつく、ムカつく、ムカつく。
「なんでなんも言えなくなんだよ……!」
布団の中で、くぐもった声が出る。誰にも届かない、咲だけの叫びだ。
――思えば、いつだってそうだった。
*
母親による今回の「オセッキョウ」は、咲が授業終わり、先輩と三百円のラーメンを食べてきたことがきっかけで始まった。まったく、これ以上ないくらい理不尽な話だ。
咲はただ、大学生にもなったしサークル活動――咲は大学生になってずっとやりたかった演劇を始めたのだ――を通してつながりも増え、交流のきっかけにと先輩が誘ってくれたラーメンが嬉しくて便乗しただけだった。場所も近場だったし、時間を気にして十九時で解散した咲は――この歳になって二十時には帰宅しないと怒られるのも変な話ではあるが――どこにも寄り道することなく、まっすぐ家に帰ったのだ。
それなのに、この仕打ちである。
「わかってる!?あんたあたしに対して借金があんだよなあ!なんでひとりだけそうやって好き勝手遊んでいられるわけ?どういう神経してんの!」
母親は目を三角に吊り上げて、咲を一時間近く、兄姉のいるリビングに拘束し、怒声を浴びせ続けた。母はどうやら、【自分に対して借金をしている咲】が、【家で食事を用意して待っているでもなく、わざわざ外で金を払って食事をしてきた】ことにご立腹らしかった。
ここで言う、「お前は私に借金をしている」――とは、母が家計簿に細かくまとめた、咲が母に払っていない支出のことである。バイトを始めた高校一年生から、今にいたるまで。学費の補填や足りなかった教科書代など、咲が本来払うべきものを代わりに母が払った場面として納得のできるものもちらほらあれど、母とふたりで出かけて食べたときの外食代や、高校在学中に買い替えた自転車代なども含まれているので、ざっと見積もって十万はとっくに超えている計算になる。
おおよそフツウの家であればいいよいいよと出してもらえるようなお金が、「借金」として積み立てられてしまうほどには、咲の家は経済的に困窮していた。パートタイムの母と、引きこもりの兄。正社員の姉と大学生の咲、おまけに育児放棄の父。父親に関しては、咲が小学生のころには既に母親との関係が破綻していて。ある日突然「ひとりで生きていく」と言い放った挙句、リビングにあったテレビを線ごと引っこ抜いて自室にこもり、以来家族との会話をほとんどしないようになってしまった。咲と姉の
考えてみればだいぶおかしな話なのだが、たとえば玄関先に置かれた父親の靴をわざと入り口側へ向けて蹴とばすよう教育されたり、洗濯物の中に紛れた父親の衣類を、汚れた雑巾のように持つよう見本を見せられたり。小学生のいじめじみている、と当時の咲もさすがに思ったが、母親の機嫌を損ねないためには――そして「家族」という枠組みから外れないためには――従うしかなく、笑いながら母の真似をしていた幼少期の舞や咲の心情は、何とも哀れなものであろう。
とかく、この家にはそうしたヒステリックな母親がラスボスのように君臨していて、咲たち兄妹は全員、母親の顔色を窺いながら日々を過ごしている。運の悪いことに、今回咲が引いてしまったオセッキョウのきっかけは些細な、ひどくしょうもないことで、しかしその「些細な行動」が、プロ野球選手もびっくりのストレートで母親の逆鱗にダイレクトアタックを決めてしまったようだった。まさか咲自身もこの程度のことで大目玉を食らうとは思っていなかったものだから、仰天である。驚きすぎて声も出なかったわけである。
反論の隙を与えず、畳みかけるような母の説教に、咲は押し黙った。そうすれば、それ好機と言わんばかりに母親の声がどんどん大きくなっていく。
『三百円のラーメン食べて帰るくらい、兄ちゃんが高校生の時にはしてたじゃん』
『ちゃんと門限には帰ってきてるし』
『大学生になったから少しくらい羽を伸ばしたいことの何がそんなにダメなわけ?』
頭の中で数々の反論が浮かんで、喉まで出かかるのに、上手く声が乗らない。本当は怒りのままにぶちまけてしまいたいのに、咲には――母親が怖かった。
「あんたは学生だからお金払わないで生活できてるけど、社会人になったらこうはいきませんからね。ちゃんと払ってもらいます」
「別に学生だからって偉くないから。家族の一員として協力してください」
返事、というより、忠誠の誓いを求めているのだろう母の最終攻撃に、咲はうなずかない。代わりに、最大限の抵抗として沈黙を貫き、部屋へと戻ってきた――というのが、冒頭までの一連の流れだ。
(ほんとうにえらかった、と思う)
自室に戻ってひとしきり泣いた咲は、ようやくここで、自分自身を慰めた。この家では常に過緊張状態なのが当たり前で、生きるために身につけた「顔色を窺う」という術は、誰にも褒められない。だから咲は、肩こりで強張った両腕で己自身を抱き、胎児のように丸まって「今この場」をやり過ごす。余計なことを、考えないように。これ以上、自分で傷を引き受けないように。大丈夫、大丈夫と、言い聞かせるみたいに。
(ああ、今日は昔やってた夕方アニメのオープニングだ。懐かしいな)
そうやって何かを考えないことに意識を割くと、便利なことに、咲の頭は勝手に脳内BGMを流してくれる仕様だった。少し前まで、咲はこれが当たり前だと思っていたけれど、大学生になって心理学を齧り、自己分析をしたことで、これが【幼い頃から夫婦喧嘩を目の前で聞かされ、姉と一緒に耳を塞いでいた咲が身につけた現実逃避の手段】だということに気がついた。繰り返されるアップテンポなサビが、前向きな歌詞が、すこしだけ咲の身体を軽くする。
今の気分に合っているわけでは決してない。聴きたいと思ったわけでもない。原因ははっきりと定まっていないが、「イヤーワーム」と呼ばれる現象で、注意欠陥多動障害――いわゆる「ADHD」の人に多い症状なのだが、虐待による脳の萎縮で同じような症状が出ることもあるらしい──と、どこかの講義で得た知識を思い出しながら、咲はぐるぐる、思考する。
(お母さんもお母さんで可哀想な人なのは分かってるけど、だからといって僕が苦しむ理由にはならないじゃん)
ぐるぐる。
(というかこの部屋寒すぎなんだよな。殺す気かよ)
ぐるぐる。
(誘いは断れなかったけど早く帰ってきたの、録画してたドラマお母さんと観たかったからなのに)
ぐるぐる。
(文化祭公演の練習、頑張ってんだけどな。お母さんから見たら所詮「遊び」なんだろうけど。……今回の公演、主演でやらせてもらってるし観に来てって言いたかった)
ぐるぐる。
(あ~~~、イライラしてたらお腹すいてきた……大した量なかったしなあのラーメン)
ぐるぐる――と。秒速で移りかわり続ける思考の波に身を任せ、咲はきつく目を閉じる。脳内のBGMも、苛立ちも空腹も、全部見ないフリをして。ただ眠った。ふて寝といわれても致し方ないけれど――薄い布団にくるまる今の時間だけは、咲が「咲であること」を忘れていたかった。
*
親が階段を上がるとき、その踏みしめる音で機嫌がわかるのは当たり前でないことを、つい最近知ったのだ。
寝ている部屋をノックもなく開けられ、洗濯物を干すのを手伝わないだけで「役立たず」だとか、「薄情」だとか、「私が仕事に行くんだから起きろよ」とか言われるのが当たり前ではないことを。本当に、つい最近。
「いい加減起きろよ!!いつまで寝てんのかなぁ!」
(……うるさいな、毎朝)
三年生になった。母は相変わらずだ。今日は三限開始で、珍しくバイトもなく遅くまで寝られると思ったらこれである。邪魔そうに咲の布団を蹴り、無理やり洗濯物を置いた母は、「私が子どもの頃は遅くまで寝ていようものならホウキの柄がとんできたけどね」等といら立ちをにじませる。
(それ、ホウキがないだけでやってること変わんないけど)
少し前までの咲であれば、足音が聞こえた時点で飛び起きて、律儀に洗濯物干しを手伝っていただろうが――最近になってバカらしくなり、やめた。そもそも、遅い時間に家を出る咲が羨ましくてイライラするのであれば、その咲に洗濯物を干させればいいだけの話である。それを「お前に任せていると昼になる」「洗濯物は外に干すものだ」などと決めつけて自分で仕事を引き受けているのだから、咲に責められる筋合いなどない。
頭の上で延々垂れ流されるグチを異国の言語のように聞き流し、耳をふさぐようにして咲は布団をかぶりなおした。うるさい。うるさいうるさい。咲にだって、好きな時間まで寝ている権利はある。母の思い通りに動くロボットでもなんでもない。
言いたいことは今日もたくさんある。それでもまだ、口に出す勇気はなくて――報復が怖くて――咲は口を噤んだ。本音を言うのは怖かった。毎日傷つけられて、失望しているのに、子どものために一生懸命頑張っている母を傷つけることを、恐れていた。
(中途半端だな)
と、自分でも思うけれど。自分が正しいと思い込んでいる人間に、対話を持ち掛けるにはエネルギーがいる。そしてそのエネルギーを咲は、他でもない母に吸いつくされていた。
(どうせ何言っても変わんないの知ってるからしょうがないけどさ)
――そう、諦めてしまうほどには。
だから咲は何も言わない。沈黙は抵抗と同時に順応の表明だと、わかっているのに、反論しない。内側に溜まる真っ黒な感情を吸って大きくなった怪物が、己を食い破り、外に出てしまわないように。すべてを壊してしまわないように、窘めるのだ。
(まだこの家で、生きていかなきゃなんないから)
身体を縮めて、震えをいさめて、ぐっと、食いしばる。思考の波に身を任せて、嫌なことは考えないようにして、「この場」をやり過ごす。
それでも、時々虚しくなってしまう。一体この生活を、いつまで続ければいいのだろう――と。
*
(大学にいる時間の方が、よっぽど「生きてる」って感じするな)
二限終わりの昼休み、高校からの付き合いである友人といつものように昼食を食べながら、咲は笑っていた。大学はいい。出身も年齢も専門も違う、多種多様な人間がいるこの空間では、咲も少しだけ自分のことを好きになれる。
高校が自由な校風で、友達同士みな呼ばれたいあだ名で呼び合う習慣があったから、咲は友人間でのみ、自身のことを「サク」と名乗っていた。本名である「さき」の、読み方を少し変えたもの。どちらでも変わらない些細な違いかもしれないが、咲にとっては、「中性的な響き」であることが何よりも大事で。
大学へ行く時の格好は、レディースのトップスにパンツを合わせた無難なものを選んだ。本当は髪だってバッサリ切って、メンズ服に身を包みたいのだけれど。いつまで経っても「母親の納得しそうな装い」を選んでしまうのは、イイコチャンで生きてきた人生の弊害だ。
『あなたに期待してるの、咲。私の自慢の偉い子ちゃん』
猫なで声で言いながら、時々母は、愛おしそうに咲の髪を撫でる。願掛けのための長髪。上手くいかなかった母の人生の押しつけ。相手から行動の主体性を奪い、操ろうとすることを「客体化」というらしい──というのも、最近ゼミの教授から知ったばかりだった。全く、大学での生活はつくづく驚きと答え合わせの連続だ。
「……サク先輩?どうしたんですか」
考え事をしていれば、後輩が不思議そうに咲の顔を覗き込んだ。どうやら母への嫌悪感が顔に出てしまっていたらしい。家だとあれだけ主張を飲み込んで母の顔を窺い沈黙を貫いているというのに、ひとたび家を出てしまえばこれだ。咲は己の危うさと「ありのままでいられる」大学のありがたさを同時に認識する。
「あー、ごめん、さっきの講義についてだよね。実は僕もめっちゃ違和感があってさ~~……」
申し訳なさを表情と声色ににじませつつ、意識を後輩の話へと戻す。昼休み前までの講義はLGBTQ――いわゆる「セクシュアルマイノリティ」に関する講義で、シスヘテロ男性のアライ(自分の身体と認識の性別に相違がなく、異性愛者でありながらLGBTQへの理解を主張する男性)を名乗る講師がトランスジェンダーを取り巻く差別や同性愛に対する偏見について伝えるというものだった。
教室の大半を占めているだろう人はシスヘテロだろうに、講師はその人たちにトランスジェンダーや同性愛者に関するビデオを見せ、「もしあなたが彼/彼女の立場だったら?」と問いを投げかけた。そしてあろうことか、グループになってのディスカッションを求めるというのがお決まりの流れなのだ。この教室内にトランスジェンダーや同性愛の当事者がいる可能性を想像していないわけじゃなかろうに。
かくいう咲も、女性らしい自分に嫌悪感がある。髪は長いし、服もレディースもののため――双方母の思う通りの「イイコ」を演じて来たがゆえだが――母の前で上手く擬態しているつもりではあるものの、一人称は「僕」の方が心地いいし、恋愛的に好きになる対象は「生物学的同性」といえる女性だ。だから咲はこの講義にイチ当事者として参加しているのだが、何て言うか、こう、
「「グロテスク」、でしたよね~……」
モヤモヤとしたものを何とか言語化した五文字が、後輩の声と重なる。さすが高校の頃から付き合いのある後輩だけあって、咲の違和感に後輩も共感したようだ。
「いや、私は別に当事者ではないので先輩の立場とはまたちょっと違うのですが。自分の性自認を考えてみよう!とかいう紙は嫌すぎて記入すらしませんでした」
「うーんわかるな。ちょっと言葉にするのが難しくて考えながらしゃべるからゴチャゴチャしたらごめんねって先に謝っておくんだけど」
「どうぞ」
「僕は別に大学の中じゃ隠してないし性的指向を知られたところで大丈夫って感じなんだよ。だからああいうディスカッションでも普通に喋れるんだけど……トランス当事者や同性愛者にはそうでない人の方が多いわけで、それをこんな不特定多数に『見られるかもしれない』空間で書かせるって、差別の目に晒すようなもんだよなあって思う」
「あー、なるほど?その違和感かもしれません。『私はアライです』『LGBTQに理解があり、差別をしません』を全面に出しながら、シスヘテロ男性の持つ特権性に気づけてないっていうか」
「その『特権』を持つ人がアライを名乗り講義することに対する暴力性に気づけてないっていうか、ね〜……!傷つける意図とかがないのはよく分かったんだけど、全体的に若干惜しかったんだよなあ」
うんうんと頷きながら、咲は後輩の言葉に同意を示す。そして心から安堵した──良かった。この違和感を共有できる人がいて。
言い方は良くないかもしれないが、別に講義の内容などどうでもよいのだ。それよりもよっぽど大事なのは、この
(大学でなら、こんなにフツウに話せるのにな)
後輩と講義に関する討論で盛り上がりながら、咲は昨夜のことを思いだす。
本音を言おうとすると勝手に出てきてしまう涙。言いたいのに、口ごもって上手く出てくれない声。咲が何を言うのか、その一挙手一投足を冷めた目で見る母親の――顔。
「――っ」
「先輩、」
それらが脳裏によぎって、呼吸が浅くなりかけた時、丁度良く後輩が声をかけてくれたことが救いだった。
「ぅお、ごめん何でもない!次昼休みだし教室出よ」
どくどくと早まる鼓動に気づかないふりをして、無理やり笑顔を貼り付ける。大丈夫。演技は昔から得意だ。完璧な装いで席を立ったつもりで――筆箱を落とした。まずい。
「なんか今日ぼーっとしてること多いですけど大丈夫ですか?」
流れるような手つきで拾ってくれた後輩からは心配されてしまった――目ざといやつめ――が、大学で家のことを思いだすほどもったいないことはない。咲は学ぶためにここに来ているのだ。休み時間はたっぷり休んでこそ、講義にも集中できるというものである。
後輩からの問いかけを「大丈夫だいじょうぶ~、若干寝不足ってだけ」と軽く流して、咲は出していたものをリュックにしまう。周りの学生たちと比べて明らかに多い荷物。注意欠陥の傾向がある咲は忘れ物が多いので、保険のためにあらゆるものを持ち歩いているという理由もあるが――それよりも、学びへの意欲の表れだと、咲は誇らしい気持ちでリュックを背負う。
このせいで元々酷い肩こりに拍車がかかっているのだが、それはまあ、ご愛嬌ということで。
*
学ぶことをやめたら、人は人として終わるのだと、思う。
少し過激な思想かもしれないが、咲はいちばん身近な大人であった母親を見て、常々感じていた。「失敗を認めず、自分の中の常識を信じて疑わない人より、常に変化を敏感にキャッチし、間違いは素直に認めて自分を変えようとする努力をしている人の方がよっぽどカッコいいのだ」――と。
たしかに過ちを認められない事情というのも、世の中に存在しているのかもしれない。例えば、権力者(これは組織の上役という意味は勿論、母親と子どもなど最小単位の上下関係にも適用するものとする)としての矜持、とか。例えば、今まで積み重ねた歴史が根本から覆ってしまうことを避けるため、とか。いわゆるオトナの事情というやつで、大事なものを護るために人は時々嘘を吐き、真実を隠蔽する。もちろんすべての事実が明かされることが正しいことだとは咲も思っていないし、時には優しい嘘を吐く必要があることも分かっているけれど、頑なに間違いを認めず、自分が正しいと信じて疑わないような人は、言葉を選ばずにいえば、そう、哀れだ、と思ってしまうのだ。
咲だって、過ちを素直に認めることは簡単ではない。相手の主張を受け入れることができないことだって往々にしてある。自分が間違っているのを認めるのは恥ずかしいし、何より怖い。だけど、とはいえ、人と人、生きている者同士のコミュニケーションなのに、自分の意見だけ押し付けて相手の主張は一切聞かないというのはいかがなものなのか。
それが親と子、上下がきっちり定まった間柄なら、なおさら。
「――ただいま」
夜八時。鍵を開けて、咲は帰宅する。今日の講義は四時ニ十分にとっくに終わっている。
だがしかし、「家に帰る」という行為がとにかく億劫で。咲は信頼できる大好きな教授の研究室に入り浸って、課題に取り組んでいたのだった。
『いやあ、帰りたくないんですよね~、家』
そう言えば、先生は論文の執筆中であるのにも拘わらず研究室を開け、咲を椅子に座らせて、『お茶でもなんでもあるんで、好きにくつろいでってください』と笑った。温かくて、ちょっとドジで、全然先生には見えなくて。でも誰より咲の、学生の、人の話をきちんと聞いてくれる――咲の恩師で、大切な居場所。
(ああ、世の中には、こんなに僕の話を聞いてくれる大人がいるんだ)
咲にとってその先生との出会いは衝撃で、それからずっと足しげく通っている。
『学生たちがひっきりなしに来るもんですから、全然仕事が進まないんですよ』なんて苦笑いする先生はどこか嬉しそうで、そんな先生の顔を見に、咲だけでなく多くの学生がそこを訪れるのだ。
ある学生は言った。その研究室は、「ありとあらゆる暴力から守られ、人々が安心して過ごせる空間」だと。――咲も心からそう思う。少なくとも、玄関を開けた直後から母親の機嫌に意識を全集中させる必要のある自分の家とは、まるで違う。
「おかえり」
扉を開けた瞬間、今日は「ダメ」だと、思った。絶対に、何かある。母親の声色からにじみ出る不機嫌を受け取って、逃げるようにキッチンで弁当箱を洗う。リビングではいつものように、兄が笑いながらゲームをしている。
「それ終わったら、ちょっとこっち座りなさい」
(――ほら来た)
またいつもの「オセッキョウ」だ。一体全体、今日はどんな言いがかりをつけられるというのだ。反抗したいが、すれば余計怒鳴られることを知っている――兄姉の反抗期に散々なほど聞かされた――咲は、濡れた手をタオルで拭いてから、大人しく母の近くに座る。
「あんたさ、金使いすぎだよね」
そう言って見せられたのは、いつぞや没収された咲の通帳だった。母は「最初からずっと自分が管理している」と思い込んでいるが、高校一年生のとき、バイトを始めるにあたって口座開設をした際、「大事なものだからちゃんとしまっておいてね」と言われて決めた場所に隠していたことを咲は覚えている。それがいつのタイミングか無くなって、知らない間に母が管理するものとなってしまった。バイトの給料を受け取る口座だし、咲はスマホ決済をよく使うので当然普段の買い物などの履歴も残っている。完全プライベートな口座だ。
それなのに、母は勝手に通帳の記載を行い、咲に「使いすぎだ」と、言う。
「……は?」
さすがに、声が出た。やってしまってから母親の逆鱗に触れてしまったことに気づいたが、もう遅い。堪忍袋の緒が切れた母親は、咲をすごい剣幕で睨みつける。
「この前も言ったけどさ、あんた養ってもらってるって自覚ある?」
――うるさい。分かってるよ。
「ウチが貧乏なの知ってるよね。私のパート代と舞の給料で食わせてもらってんだからな」
――うるさい。学費出してくれてありがたいとは思ってるけど、進学できるほど勉強真面目にやってなかったの舞じゃん。
「あたしなんて欲しいもの買えた試しがないけど。洋服だって三人で着まわせるもの買ってるよね」
――うるさい、うるさい。欲しいなら勝手に買いなよ。誰も頼んでないよ。
「あんたは学生サマだから関係ありませんって思ってるのかもしれないけど、何様のつもりなわけ?」
――うるさいってば。
「……なんでだよ」
本当は、おかしいだろ、うるせえと、わめき散らしてやりたかった。それなのに咲には本音を言うのが怖いから、大声よりも、涙の方が先に出た。
普段は演劇で主役を張るくらいにはよく通る声も、口ごもる。涙に揺れて、声がかすれる。
「貯金は、ちゃんとしてるし。それに、……私が、稼いだ、金を、……どう、使おうが、わたしの勝手じゃんか」
そうだ。その通りだ。間違ったことは何一つ言っていない。それでも母にとっては「イイコ」でいてくれるはずの人形が牙を向けてきた反逆で、そんなことはあってはならないと、お前に発言権はないと言わんばかりに追撃する。その言葉が娘の人格を否定し、傷つけているものであることに、気づかない。
(……ああ)
また、音楽が流れ始めた。イヤなことがあった時はすぐこれだ。咲の頭が、考えなくていい、まともにとり合わなくていいと、逃げ道を作ってくれている。
(かわいそうだなぁ、ほんと)
こちらの話に耳を傾けず、「お前が悪い」という主張を繰り返す母の裏側にあるものは――きっと、頑張っているのに報われないという虚しさだ。仕事の疲れを、遊んでいるように見える咲への羨ましさを、怒りと勘違いしている。
ここまでくれば、咲に採れる選択は黙ることしかなかった。真向から向き合おうとしても無駄だ。恩師が大切にしている「対話」だって、相手に話す意志がないと成り立たない。
咲は、母が好きだった。世界でたったひとりの母である。当たり前に、今も好きだ。どうにかして救われてほしいと切に願っている。
でも、救える人は結局、救いの手に気づいて、それに手を伸ばし返すことができる人だ。自分の誤りに気付いて、立ち止まり、変わりたいと願うことのできる人だ。
今の母に何を言おうと、咲の言葉は届かない。
(あきらめたくないんだけどなあ、)
悔しかった。辛かった。罵詈雑言で傷つけられたことももちろんそうだが、母がここまで追い詰められているのに、咲には楽にしてあげることができないことが虚しかった。咲自身が自分の気持ちを大事にしたために、母の求める「イイコ」でいられなくなってしまったことが申し訳なかった。
どうして、こうなってしまったのだろう。昔の母の方がもっと笑顔があったのに。どうして。
(もう考えたくないや……)
――今日も、咲は縮こまって眠りにつく。脳内では今日の記憶を整理するように、母の怒号がフラッシュバックして繰り返される。その間にも明るいBGMは鳴り続けていて、我ながらやかましい頭の中だなと思った。
*
「それで、母に一時間近く説教されちゃって。困っちゃいましたね~、さすがに」
大学の一室にあるカウンセラーに通い続けて、もう三年になる。ここのカウンセラーも、咲にとっては「まともに話を聞いてくれる大人」で、すごくありがたい存在だ。
最初の内は、笑ってしか喋れなかった。どれだけ母親に酷い扱いを受けたことの愚痴を吐こうと、短い睡眠時間で朝バイトをこなし、その後授業を受ける毎日の過酷さを吐露しようと、咲の顔にはどういうわけか、自然と笑みが貼りつけられてしまうのだ。
そんな時だった。カウンセラーの先生が、「木花さん、面白い話じゃないよ」とそっと諭してくれたのは。
「面白くないから、無理に笑わないでいいんだよ」
やさしい、穏やかな声だった。カウンセラーは心配そうに、咲の顔を見た。瞬間、視界が滲んだ。咲の目から涙がこぼれるのは必然だった。
今までずっと、自分の家はたいして酷くないのだと思って生きてきた。直接的な暴力を振るわれているわけではないし、最低限、衣食住は保証されている。会話はないが、家庭の中に両親はそろっている。そんな「恵まれた」環境の中で、親に文句がある咲の意見などワガママで、本来我慢するべき気持ちなのだと。そう思っていた。
だけどカウンセラーに通う中で、それが抱いていい「咲だけの感情」なのだと気づかされた。どんなに罵られようと、否定されようと、その気持ちをなかったことにしてはいけないのだと。
それからカウンセラーは、咲がどうにかして母のことを救おうとするのを見て、こうも言った。
「木花さん。あなたにとってお母さんが大切で、どうにかしてあげたいと思う気持ちは本物だし、優しいなって思うよ。でもね、お母さんの問題はお母さんが解決するべきもので、木花さんは木花さんの人生を歩んでいいんだからね」
(――僕の、じんせい)
それがきっかけだ。毎朝の怒号に、「無視する」という選択が採れるようになったのは。もちろん言われたときは衝撃だった。だって咲には、母親の求める「イイコ」以外の人生なんて歩んだら、何を言われるかわからなかったから。ただでさえ母の負担を少しでも軽くするために「独り立ちをしたい」と言っただけで、やれ「どうせ汚部屋にする」とか、「仕事に失敗して自殺するんだろ」とか、やってもいないのに想像で勝手なことを吐き捨てられたのだ。実際に行動に起こせばどれだけ母を傷つけてしまうかと、恐怖で体が震えてしまう。
(だけど、もし)
もし、「自分の人生を歩む」ことが叶うなら。それほど素晴らしいことはないなと、最近になってようやく咲も思うことができるようになったのだ。
自分の部屋を持ち、好きな時間に起き、好きなものを食べ、自分で生活をする。そこには、「いつ怒鳴られるかわからない」という緊張感は一切ない――数年前は考えることすら憚られたことを、カウンセラーや、友人や、そして誰より大好きな教授と彼を敬愛する仲間たちのおかげで。彼ら彼女らが咲を「ここにいていい」と肯定してくれたおかげで、ようやく。
「ちゃんと生きたいです、僕。自分の足で立って、自分の頭でものを考えて、生きたいです」
それは、生活に苦労しながらも、人の生きる【物語】を文字に残すことに人生を賭けた恩師が、授業内でよく言っていた口癖だった。もう咲の表情に、貼り付けたような薄っぺらい笑みは浮かべられていなかった。
――翌日。授業終わり、その教授の訃報を、突然聞いた。
*
「……うそだよ、」
通知は、その教授が所属する学科の関係者にのみメールでされたらしい。咲は違う学科に所属していたから知るのが遅く、喫煙所から暗い顔をして出てきた先生ファン仲間のひとりに呼びつけられて、震える声で伝えられた。
「聞きましたか?……先生、なくなっちゃったらしいです」
意味が解らなかった。聞き間違いだと思いたかった。ひゅ、と喉が鳴って、出てきたのは「うそだ」という言葉しかなかった。
「うそだよ……うそだよ、うそだよ!うそだよ!」
ああ、そうだ。たしかに、ここ数週間の教授は咳が酷く、休講が続いていた。最後に会ったのは二週間前、いつものように研究室に入り浸っていた咲に背を向け、心配になるくらいの酷い咳をしながら、『いやぁ、微熱が全然引かなくってですね。このまま死ぬんじゃないかと思ってます』と笑っている姿だった。そう言う先生に咲は、
『またまた、冗談でもそんなこと言わないでくださいよ』
と返したのだ。あれがまさか、本当になるなんて、そんな。
「ぅ、ぁあ、ああああああああああああああああ!!!!!!」
人に見られるなんて関係なかった。そんなこと気にもできなかった。咲はその場で崩れ落ちて、大声で泣き叫んだ。
なんで、なんでなんでなんで。なんで先生が。あの時僕が症状を聞いてちゃんと調べれば。あの時病院に行くことをもっと勧めれば。悔やんでも悔やんでも、時は戻らない。見せられた訃報の文字は変わらない。
――急性骨髄性白血病。通知されたメールにはそう書かれていた。四十五歳。若かった。まだまだこれからの人だった。常に研究のことしか頭になく、誰よりも学生と飲み会をし、毎日騒ぎながらも「誰かの話を聞く」ことを大事にしていた人だった。
殺しても死ななそうなくらい元気の有り余っていた人が。どうして。こんなに急に。
(……冬に病気でひっそり死ぬなんて、キャラじゃないよ、先生)
葬儀の日。空は雲一つない快晴だった。新聞で報じられた葬儀場には、知っている顔の仲間たちも、知らない人たちも、大勢来ていた。皆が皆、似合わない黒い服に身を包んで、先生である、家族である、仲間である、彼の話をして、泣いていた。
みんな泣きすぎて目が真っ赤だった。咲もそうだ。訃報を聞いてからずっと、瞼の腫れが治まっていない。
「泣いても泣いても涙が出てくるね」
なんて、仲間同士で言い合って。牧師さんの語るありがたい話を聞き、知らない聖歌を雰囲気で口遊んで、先生に別れの花を手向けた。
棺に横たわる先生は無精ひげを剃られ、死に化粧を施されて綺麗な顔をしていた。トレードマークのサングラスも外されてしまって、別人みたいで。そして何より、眠っているみたいだった。
「火葬する段階になって急に起き上がったりしてね」
「はは、あり得る~」
みんなで泣き笑いながら、手紙を入れたり、冷たい顔を触ってみたりして、出棺を見送った。彼のファンを名乗る人同士が、「自分がいちばん彼と――だった」と競い合うほどに、彼のことを愛していた。そのくらい多くの人に影響を与える、太陽のような人だった。
そのまま仲間たちは、いつもの流れで飲み会に行こうという話になって、大勢入れる飲み屋に流れていった。「そっちの方が先生も喜ぶっしょ」という企画者の意見には賛成だったが、どうも呑む気になれなくて、咲は飲み会を断り早めに家路についた。
それでも、帰る道中、どうしても涙は止まらなくて。歩いては泣き、先生のことを想い、また泣いた。途中家族から送られてきた、「もうそろそろ帰っておいで」「どこにいるの」というメッセージは、全部無視した。
*
(――あれから、どれだけ経ったんだろう)
相当なことがなければ毎日学校に行ける咲も、バイトも授業も出られない日が続いていた。カーテンすら開けない陰鬱な部屋に閉じこもって、食事もとらず、ぼーっと天井を眺めるだけの時間が過ぎる。
本当は、普通に授業に出た方が、先生も喜んでくれるのだろうな、と思う。
とにかく謙遜する人だったから、自分の死がここまで他人に影響を与えるのだと知ったら、申し訳なくなって成仏できないだろうし。「やめてくださいよぉ、木花さん」なんてふよふよ浮かびながら頭を掻いている幽霊の先生の姿が目に浮かんで、久しぶりに少しだけ、笑みがこぼれた。
――母からは、訃報の翌日から「いつまでだらだらしてんだ」という怒声を浴びせられ、無理やり外に連れ出されて買い物に付き合わされた。挙句の果てには、無気力でいつにも増して家事の手伝いをしない咲を目に、「あたしが死んでもそこまで悲しんでくれないだろうね」と皮肉られる始末。本当に母親という人は、自分のことしか考えていない。
――父からは、珍しく部屋を覗かれて何があったと訊かれたかと思えば、事情を説明した咲に対して「何でそんなんでお前がそこまで悲しまなきゃなんないんだ」と言われた。人の心というものがないのか。
両親揃いも揃って、デリカシーの欠片もない。何でこの人たちが生きていて先生が死んだんだ、なんて、思ってはいけないことまで考えてしまって、咲は自分のことが嫌になる。
そうだ。この暗い部屋がいけないのだ。さすがに電気をつけて、食欲がなくても何か食べるべきだ。そうしないと人間は、
(しんでしまう、んだから)
その文字が頭に浮かんで、また泣きそうになった。もう目が取れそうなほど泣いたのに。いかん、これではと何とか自分を奮い立たせて、重たい身体を持ち上げ、電気をつける。
ただでさえ汚い部屋がさらに荒れていた。
掃除をする気が起きるわけもないので、そのまましばらくぼんやりしていれば、ふと、目に入るものがある。
(……なんだこれ)
机の下に、ぐしゃぐしゃになった紙の束。
手繰り寄せれば、高校三年生――丁度四年前くらいの咲が書いた、小説だった。
(うっわ、懐かしい)
当時咲は文芸部に所属していて。月に一度小説を書いて、小さなグループで発表していた。文化祭で発行する部誌を毎年の目標に据えていて、その年は最後だからと張り切っていたのだが――コロナウイルス感染症の拡大により、中止。突然学校に行けなくなり、一生に一度の機会がなくなったと嘆いたところを、見かねた卒業生の先輩が「オンライン文化祭」を開催し、発表の場を設けてくれたのだった。そこで咲が発表した小説は、「Rewrite the future」。いかにも中二病がつけそうなタイトルではあるが、当時十八の咲が書いたにしては傑作だった。
――物語は卒業間近、高校の教室。惰性で日々を送っている主人公の描写から始まる。かつて憧れていた十八歳の日々も平凡で、ただ決められたルーティーンをこなしているだけなことに辟易としている。ある日彼女は気づく。明日に希望を見出せなくなったのは、自分が夢を諦めてしまったからだ、と。
彼女には挫折の経験があった。自分に才能があると信じていた文章を、他者に酷評され、散々に言われたこと。自信をもって言えた「小説家になる」という夢が急に恥ずかしくなって、書くことそのものが嫌になって、遂には筆を折った。それから、毎日が途端につまらなくなってしまった。
そんな彼女に与えられたのは、一度きりのやり直しの機会だった。普段通り高校に向かったつもりが、着いたのは小学校の教室。目の前には見覚えのある小学生。「小説家」という眩しい夢を持ちながら、自信がなさそうなかつての自分。
主人公はそこで、夢を持ったままの自分を羨み、そのくせ自信がないことに苛立ち、――そして、ずっと悔やんできた失敗を話して聞かせる。自分のような人生を歩まないように。夢を追いかけ、明日に希望をもって生きられるように。
話を聞かされた小学生は作家になることを決意し、その代償として、「夢を叶えられなかった」世界の主人公は消えていく。去り際、ずっと直視できなかった自らの名前を呼ぶ。
明転。序盤と同じ教室。――そこにはたしかに、真剣に創作に向き合う「作家」がいる。
「……あ、」
我ながらいい話書いたよな、と、ただ懐かしむだけのつもりだった。
それなのに、咲の目からは、もう出し尽くしたと思っていた涙があふれて止まらない。こんな稚拙で、しかも自分が書いた文章で泣くなんて、ナルシストだ。自画自賛だ。そう思うのに。
(こんなところに)
こんなところに、――答えが転がっていたなんて。
これは咲が書いた小説だ。小説家を目指していた咲が、自分の実体験をもとにして書いた、小説だ。もちろんタイムスリップをしたのは作り話だが、現実の咲も同じように文章を書くのが好きで、同じように他者の何気ない一言で筆を折られている。
けれど、その経験がどうしたっていうのだろう。
(先生だってそうだ、最初からすごかったわけじゃない)
咲は思い出す。先生の語りを。とにかく人と会い、人の話を聞きまくる先生の研究は地道で、最初は誰からも評価されなかった。それでも諦めず、彼は自分のやりたいを貫いて、あそこまで尊敬され、愛される人になったのだ。諦めないことの大切さを、身をもって教えてくれていたじゃないか。そうだ。
(人生の【物語】は、書き換えられる)
かつての咲は、既に気づいていた。どれだけ否定されようと、所詮他人の言葉だ。人生の主人公も、脚本も演出も全て自分なのだ。他者に干渉する権利は本来ない。たとえそれが、腹を痛めて産んでくれた親であっても。
(僕は、「僕」だ)
――そう、自分の人生を生きていいのだ。咲はここ数年間、本当に多くの人から、その肯定を、愛を、受け取ってきたじゃないか。
「いつまでも引きこもってちゃ、いられないですね」
一人きりの部屋。いつも先生相手にそうしていたように敬語で喋れば、不思議ともうひとりじゃない気がした。
ぐしゃぐしゃの小説を机に置いて、起き上がる。久々に、何かを書きたいと思った。咲はもとより、表現することが好きなのだ。世界への怒りを、愛を、感動を、そして何より、――咲自身がここに生きている証を、遺したい。
「生きますよ、僕。自分の足で立って、自分の頭でものを考えて。生きます」
あの日の希望を言い切りの形にして、宣言する。心なしか、少しだけ視界が明るくなったように思った。
*
それから、咲は今まで以上にバイトにも学業にも精を出した。最後の学費を納めてから、半年間。それだけあれば、引っ越し費用の半分は貯まる。
以前からことあるごとに家のことを相談していた相手がタイミングよく仕事をやめ、上京の機会を窺っているというから――思い切って、「共謀」を持ち掛けた。咲が親元から離れ、自分で生活するだけの力を身に着けられるまでの、期間限定のルームシェア。
四年間お世話になった大学の坂を下り、振り返って一礼する。咲はここに来て、文字通り見える世界が変わった。この世は生まれた家が、与えられたものだけが全てではないのだと、気づかされた。
前を向き直り、空を見上げる。葬儀の日と同じ快晴だった。今日も家の外で、咲は生きている。
この世はどうしてか金儲け第一主義で、拡大・発展・成長を続けようとするサイクルはどこか息苦しい。だからこそ咲は、あえて立ち止まる。人が、文化が、言葉が、街が、想いが、自然が、歴史が、ただここに「在る」ということを、愛していたいから。
前を見る。咲が多くの人のおかげで今生きていることと、自分が誰かの生きる理由の小さな欠片になっている可能性を信じて、立つ。
――ああ、世界はこんなにも広くて、こんなにも綺麗なのだ。であれば、同じ場所で立ち止まっている理由などどこにもない。
あれだけ伸ばしていた髪も短く切った。憧れていたメンズ服に身を包めるようにもなった。さあ行こう。恐れるものなど何もない。ここからが物語の始まりだ。
「置かれた場所で!!!!咲いてたまるかってんだ!!!!バーーーーカ!!!」
そう叫んで、一歩、踏み出した。
咲は生きていく。
咲きたい場所を目指して、己が足で歩いていく。
置かれた場所で咲いてたまるか 光織 希楓 @mituori_noka2
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