スライムから始まる吸血姫の黙示録

柴咲心桜

第1話 血の泉、目覚めの夜

 ――ぷるん。


 それは、誰にも気づかれない、世界の隅っこで響いた音だった。


森の奥深く、湿った苔に覆われた地面の上。

透明で、ほんのりと青く揺れる粘体が一つ。

 それが“わたし”――いや、本当は、“わたし”という言葉すらまだ知らなかった。


 名前もなければ、言葉も知らない。

 光に憧れては木漏れ日を眺め、動くものを見つけては取り込んで生きていた。

 それが全てだった。世界とは、そういうものだと思っていた。


 でも。


 なぜか、心の奥がときどききゅう、と締めつけられるのを感じていた。


 誰かに見てほしい。

 誰かに触れてほしい。

 誰かと、何かを、分け合いたい――。


 それが何という感情なのか、当時の“わたし”には分からなかった。

 ただ、確かに、何かが足りなかったのだ。


     ◇


 ある夜、嵐が森を襲った。


 風が唸り、木が折れ、地が揺れる。

 流れ込んだ雨が“わたし”を押し流し、今まで行ったことのない深い谷へと運んでいく。


 落ちて、転がり、やがてたどり着いたのは、

 腐敗した石像と、ひび割れた神殿のような場所だった。


 石畳の中央に、それはあった。


 ――赤い、泉。


 夜の闇の中でも、妖しく光るその泉。

 透明だった“わたし”の体が、赤に染まった水面に近づいていく。


 その瞬間、声がした。


 『器よ。ようやく、見つけた』


 誰の声かはわからなかった。

 けれど、その声には、どこか懐かしさがあった。


 『おまえは、何者でもない。だが、何者にもなれる。……その意志が、あるのなら』


 “わたし”は、何も答えなかった。

 けれど――沈黙の中、たしかに「はい」と頷いたのだと思う。


 そして、血の泉が、動いた。


     ◇


 痛い。熱い。壊れる。

 粘体だった体が焼けるように震え、形が変わっていく。


 液体が凝固し、骨が生まれ、内臓が形作られ――

 やがて肌が、手が、髪が現れた。


 “わたし”は、少女になっていた。


 泉の水面に映ったその顔。

 真紅の瞳、白磁のような肌、長く黒い髪。

 初めて見る“自分”に、ただただ見惚れていた。


 口が、かすかに動いた。


 「……ミルティア」


 その名は、誰かに教わったわけではない。

 けれど、確かに、それが“わたし”の名前だとわかった。


 かつて、誰かが名乗っていたのかもしれない。

 あるいは、これから“わたし”が背負うべき名前なのかもしれない。


 ともかく、それは“はじまり”だった。


 最も無垢な存在――スライムだった“わたし”が、

 血の力をその身に宿し、吸血姫ミルティアとして目覚めた夜。


 ――この世界の黙示録は、今、始まったばかりだった。

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