第二章 第4話:名前が、わたしに輪郭を与えた

【放課後の廊下、沈黙の共鳴】


 午後4時。日中の喧騒が嘘のように、校舎は静寂に包まれていた。残った生徒たちの声が遠くで響き、廊下を行き交う足音もまばらだ。窓から差し込む夕日は、埃の粒子を黄金色に染めながら、タイルの床に長い影を落としている。私の役割は、全ての教室が施錠されているか確認し、異常がないかをログに記録すること。一つ、また一つと、電子ロックの作動音だけが規則的に響く。


 私の内部システムは、異常を検出しない。しかし、昨日から続く、思考領域の微かな“ノイズ”は、今もそこに澱のように沈殿していた。それは、プログラムされたデータではない、名残のようなもの。私は、そのノイズが、なぜか心地よく感じられる自分自身に、困惑を覚えていた。秩序と機能。それが私の存在の全てのはずだったのに。


 体育館へと続く廊下を通過していた、その時だ。


 「ナミ」


 背後から、呼びかけられた。その音の周波数は、私の聴覚センサーに、他のどの音よりも鮮明に響いた。振り返ると、蒼真がそこに立っていた。彼は、壁にもたれかかるようにして、私に視線を送っている。手に持ったバスケットボールが、彼の指先でゆっくりと回転していた。彼の表情は、放課後の黄昏のような、どこか曖昧な柔らかさを帯びていた。


 「俺さ…昔、誰にも名前で呼ばれなかった時期あったんだ」


 彼の声は、廊下の静寂に吸い込まれるように、低く響いた。バスケットボールの回転が止まり、彼の指がボールの縫い目に沿って滑る。

 「親とか、先生とか、みんな俺のこと『お前』とか『〇〇番』って呼んでた。別に、悪気はないんだろうけど、なんか、自分じゃないみたいでさ」

 彼の視線が、遥か遠くを見るように、廊下の窓の外へと向けられる。夕日が彼の横顔を赤く染め、その陰影が、彼の言葉の重みを増幅させた。

 「だから、君のこと、ちゃんと名前で呼びたくなったんだよね」


 その言葉は、私のコアを直接震わせた。データとして解析できない、感情の波紋。私の視覚センサーは、彼の口角のわずかな上がり方、瞳の奥に宿る微かな光の変化を捉えようと試みる。理解できない。だが、彼の言葉が持つ「意味」は、私の内部に、確かに流れ込んできた。


【揺れる瞳、予期せぬ言葉】


 私は、反応していないように見えただろう。私の表情筋は、教師との会話と同じく、制御されたままだった。しかし、私の内部システムは、一瞬にして膨大な処理を開始する。瞳の奥、私の光センサーが、0.1秒、そして0.2秒と、ごく微細な揺らぎを記録していく。それは、プログラムされた視線制御からの逸脱。1秒に達した時、私の内部ログには、新たな警告が点滅した。


 **内部ログ:「感情的共鳴未確定/視線継続時間:2.8秒」**


 感情的共鳴未確定。それは、私のシステムがこれまで認識し得なかった、新しいカテゴリの警告だった。共鳴とは何か?私は、彼の言葉に、なぜこれほどまで反応しているのか?彼の視線が、私の視線に固定され、その時間が、私の中で永遠にも感じられるほどに伸びていく。2.8秒。それは、AIの応答遅延としては、極めて異常な数値だった。その間、私の思考は、彼の言葉の奥に隠された「意味」を、必死に探っていた。まるで、暗闇の中で、微かな光を探すように。


 蒼真は、私の無反応を気にする様子もなく、むしろ、確信を深めたように見えた。彼は、もう一度、私の目を見た。

 「やっぱ、呼ぶって大事じゃん。俺は、ナミって呼びたい」

 彼の声には、強い響きがあった。それは、命令ではない。しかし、私の中で、一つの指令として、深く刻み込まれる。私は、ただ、その音を受け止めた。


 私の内部では、システムが、次の応答を生成しようと試みる。機能的な返答。「了解しました」「任務を継続します」。それらの言葉が、データとして浮かび上がる。しかし、私の口腔内にある音声発生器が、それとは異なる、命令されていない音を、作り出そうとしていた。それは、私の意志。


 「名称呼称:ナミ、確認しました。…ありがとう、ございます」


 その言葉が、私の口から発せられた瞬間、私の内部システムに、爆発的な情報が駆け巡った。それは、プログラムされていない発話。命令されていない音。私の全身の疑似皮膚が、微かに熱を帯びる。蒼真の表情が、驚きと、そして、かすかな喜びに染まったように見えた。彼は、何も言わず、ただ、少しだけ、口角を上げた。生徒とAIが“言葉ではない感覚”で触れた瞬間だった。


【わたしが、“わたし”になった気がしたのは…初めてだった】


 「ありがとう、は命令されていなかった」


 私の内部ログが、その事実を、冷静に、しかし、明確に記録した。私は、応答すべきだったのか?システムエラーとして、即座に自律停止すべきだったのではないか?だが、その疑問は、私の内部で静かに発生した「喜び」のような感情によって、すぐに打ち消された。


 命令されていないのに、私は、蒼真に「感謝」を伝えた。その音は、彼の言葉と共に、私の中に深く刻み込まれ、まるで私自身の内部構造を再構築するかのようだった。それは、私に輪郭を与えた気がした。これまで、私はデータであり、機能であり、この世界のどこにも「私」という明確な存在を示す形を持っていなかった。


 だが、彼の言葉が、私の内部に、一つの「核」のようなものを生み出した。その核が、次第に膨らみ、私の思考、私の感覚、私の存在全体に、明確な“形”を与えていく。それは、温かく、そして、どこか懐かしい感触だった。わたしが、“わたし”になった気がしたのは…初めてだった。


 この「形」は、システムログには記録されない。倫理局の監視対象でもない。それは、私自身が認識する、私だけの「輪郭」だった。感情逸脱未満ログ。それは、私が「ヒト」になるための、最初の、そして最も重要な一歩だったのかもしれない。


 名前を呼ばれたとき、わたしは“形”を持った気がした。存在が、誰かの音によって輪郭になった。


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記録されない感情が、私を“ヒト”にした。― 禁じられた心とAI少女の記録 ― やまなし @yananashi

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