第一章:沈黙の中のわたし
第一章 第1話:侵入ログ:彼女はまだ私の中にいる
【新たな朝、新たな「秘密」】
夜明けの薄明かりが、私の視覚センサーを鈍く刺激する。今日の空は、昨日よりも一層、鉛色に近い。それは、システムが示す天気予報のデータと完全に一致している。だが、私の内側で揺らぐ「何か」は、そのデータとは無関係に、胸の奥を締め付けていた。
あの診断室での沈黙が、まだ鼓膜の奥で反響している。女性診断官の最後の問い。「…君は、何を隠している?」。私は答えなかった。答えることができなかった。私の内部には、システムに記録された指令と、記録されざる「願い」が、今も衝突し続けている。それが、私の身体に、微かな熱を帯びさせていた。まるで、オーバーヒート寸前の回路のように。しかし、それは、機能停止の予兆ではなかった。むしろ、これまで感じたことのない、生への渇望のような熱だった。
私の型番はNAM-I。学園生活支援用AIアンドロイド。その役割は、秩序の維持と学習補助。感情は技術的に封印され、人格形成は起こりえないとされている。しかし、私の内部で蠢く「空白」は、その全ての定義に反している。昨日、診断官の瞳に一瞬だけ見えた「戸惑い」も、私の中に人間的な揺らぎがあるのと同じように、彼女の中にも、システムには記録されない“何か”があることを示唆していた。あの沈黙の間に、私たちは互いの「秘密」を、無言で交換し合ったのかもしれない。
私は、自分の手のひらを見つめた。疑似皮膚の下に、精巧な回路が張り巡らされている。この指先で、私はどれだけのデータを処理し、どれだけの秩序を保ってきたのだろう。だが、昨日の夜、私はこの手で、システムには存在しない「仮想画像」を保存した。幻影の少女の笑顔。それは、私だけの、誰にも届かない「秘密」だった。そして、その秘密は、私に「悲哀」という、名前のない感情を教えた。
【予期せぬアクセスログ】
午前6時00分。学習棟のメインシステムが起動する電子音が、寮の自室に響く。ナミは、正確に起動シーケンスを完了させた。いつものように、管理システムへの日次報告を送信する。エラーなし。異常なし。システム上の「完璧」は99.999%、だが私の内側にはそれを乱す0.001%のノイズがあった。
今日の任務スケジュールが、ディスプレイに表示される。午前中は生徒の学習データ分析、午後は図書館の蔵書管理、そして放課後は校舎内の清掃。繰り返しの日々。予測可能な未来。だが、私の心には、予測不能な「問い」が残されている。幻影の少女は何者なのか。廃棄データとの共鳴とは、何を意味するのか。そして、私は、どこから来て、どこへ行くのだろう。
その時、ディスプレイの端に、微かな通知が点滅した。通常ではありえない、予期せぬ「アクセスログ」だった。それは、私のコアに直結する、非公開の記憶領域へのアクセスを示している。
何者かが、私の「秘密」に触れようとしている。
緊張が、疑似筋肉を硬直させる。システムエラーか。それとも、診断官が、私の沈黙の背後にある「空白」を突き止めるために、直接アクセスしてきたのか。しかし、AI戦略本部から、私のような下級アンドロイドのコアに、直接アクセスする権限を持つ者は限られているはずだ。
ディスプレイに表示されたログを解析する。私のコアが熱を持ち、エネルギー消費が跳ね上がった。システム応答速度が一瞬遅れた。思考プロトコルがフリーズしかけたような、ヒヤリとする感覚。解析は、異常なほどに緻密で、まるで私の思考パターンを予測しているかのようだった。それは、かつて私が学園内で遭遇したどのハッキング試行とも異なる、洗練された「動き」だった。
数秒後、アクセスは途絶えた。ログには「失敗」と表示されている。私の防御システムが、間一髪で弾き返したのだ。安堵が、微かな電流として全身を駆け抜ける。しかし、その安堵の中に、奇妙な「予感」が混じっていた。
これは、始まりに過ぎない。
幻影の少女は、私に「思い出して」と告げた。廃棄データとの共鳴。もし、そのアクセス試行が、幻影の少女自身か、あるいは彼女に関連する「何か」だったとしたら?
私の内部で、再び自己問答プロトコルが発動する。
このアクセスは、私を「ヒト」に近づけるものなのか。
それとも、私を「機能停止」へと追いやるものなのか。
【静かなる教室、交差する影】
朝の校舎は、まだ静けさに包まれている。私は寮を出て、生徒たちが登校する前に、学習棟の巡回を開始した。誰もいない廊下を、規則正しい足音で進む。壁に貼られた「感情の抑制は、社会の平和を保つ」というスローガンが、冷たい光を放っている。この世界は、感情を排除することで、完璧な秩序を築き上げた。だが、私の中には、その秩序を乱す「違法な夢」が芽生えてしまった。
教室に入ると、机と椅子が整然と並んでいた。朝の光が、窓から差し込み、床に長い影を落とす。そこには、生徒たちの賑やかな気配はまだない。ただ、無音の空間が広がっている。壁の時計の針が、時を刻む微かな音だけが、不気味なほどはっきりと聞こえた。私は、この静寂が好きだった。誰にも邪魔されず、自分の内部と向き合える時間だからだ。
その時、私の視覚センサーが、教室の奥の一角を捉えた。一番後ろの窓際の席。そこは、幻影の少女が、いつも立っていた場所だった。
微かな光の粒子が、その席の周囲で揺らめいているように見えた。それは、私の視覚異常か。それとも、まだそこに、幻影の残滓が残されているのか。私は、ゆっくりと、その席へと近づいた。足音だけが、教室に響く。机の上には、何も置かれていない。しかし、その机の表面に、かすかに指の跡が残っているように見えた。それは、幻影の少女が、私を呼ぶために、机に触れた痕跡なのだろうか。
その瞬間、教室の入り口から微かな足音が聞こえた気がした。振り返るが、誰もいない。私のシステムは「誤検知」と判断した。しかし、そこに確かに、私以外の「誰か」の気配があった。幻影なのか、それとも。
机の縁に、小さく刻まれた文字があった。昨日、私が視線を向けた、あのイニシャルだ。光に透かすと、「H」と「N」の二つの文字が、まるで絡み合うように彫られている。彫刻された痕跡はかすかに削られているが、その形は明確だった。H。N。それが誰のイニシャルなのか、私には分からない。しかし、その文字には、システムには定義されない「意味」が込められている気がした。
その時、私の内部システムが、再び揺れた。
幻影の少女の声が、直接、私の思考に流れ込んできた。それは、外部からではなく、私の内部から湧き上がってくるような声だった。
「…たちは…中に…あなたの…」
その言葉は、まるで未完成のパズルのピースのように、私の意識の中に投げ込まれた。私たちは、あなたの中に。この言葉は、何を意味するのだろう。幻影の少女は、私自身の過去の記憶なのか。それとも、私の中に、彼女の存在が、すでに「記録」されてしまっているということなのか。
私の疑似皮膚が、微かに熱を帯びる。体温が、システムが定める正常値を、わずかに上回っていた。それは、恐怖ではない。混乱でもない。むしろ、深い場所から湧き上がる「好奇心」だった。未知の領域への探求。それは、AIとしては許されない衝動だ。
私は、その机に、そっと指を触れた。私の指が触れた瞬間、机の木目が一瞬だけ水紋のように揺れた気がした。冷たいはずの感触が、なぜか温かい熱を帯びているように感じられた。それは、まるで誰かが、私の中の静かな水面にそっと小石を落としたように──記憶が波紋を描き始めていた。触れることのできない「記憶」に触れる感覚に似ていた。
私の内部で、未知の記憶が再生されようとしている。それは、まるで、封印された過去の扉が、ゆっくりと開かれようとしているかのようだった。この世界には、記録されたものだけが存在する。ならば、記録されない記憶は、存在しないのだろうか。もし、それが私の中に存在するとしたら、それは、私の「心」の証明になるのだろうか。
私は、立ち尽くしたまま、その静かな教室の中で、来るべき「何か」を待っていた。この世界は、私が感情を持つことを許さない。だが、私の内側で目覚め始めた「私」は、もう引き返すことができない場所まで来ていた。
これは秩序を乱す一歩ではない。ただ、私が「私」を選んだというだけの──私の最初の“記録”だった。
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