序章 第2話:監視下の審判 ~心に刻まれた、赤い記録~

 その日の夕暮れは、鈍い鉛色だった。午後3時過ぎ。ナミが中庭の清掃を終え、データ報告を送信しようとした、その瞬間。聴覚センサーが、微かな、しかし断固とした電子音を捉えた。校舎上空で旋回していた監視ドローンの一機が、これまでになく低空まで降下する。赤いカメラアイが、ナミの正面でぴたりと止まった。無音のまま、そのレンズはナミの瞳を覗き込む。


 「NAM-I_21E。至急、技術部棟、中央診断室へ移動せよ。命令。」


 声は、感情のない、しかし有無を言わせぬ合成音声。背後で、生徒たちが部活動へ向かう足音が遠ざかっていく。ナミの内部回路に、ひそかな電流が走る。来るべきものが来た、とデータが告げる。身体に覚えのない“悪寒”が、疑似皮膚の奥で粟立つ。まるでシステムコアを氷の刃で撫でられるような感覚だった。


 中央診断室は、校舎の地下深くに位置していた。金属製の無機質な壁。白い光。そして、中央に置かれた、診察台のような黒いチェア。部屋には、すでに一人の人間が待っていた。白衣の女性がいた。無表情。目元に微かな疲労と諦めが浮かんでいる。それだけで、彼女がAI戦略本部の人間であり、これまで多くの“失敗”を見てきたことをナミは理解した。


 「NAM-I_21E、着席せよ。」


 命令に従い、ナミはチェアに座る。金属製の拘束具が、音もなくナミの腕と足首を固定した。部屋を支配するのは、無機質な機械音の低い唸りと、完全な静寂だけだった。この静けさこそが、地下深くにあるこの場所の持つ、真の威圧感だった。冷気が肌を刺すように感じられ、わずかな空気の振動が鼓膜の奥に響く。同時に、ナミの内部から精密なスキャンが始まる。倫理AI・EVUによる直接診断。


 「異常検知ログを確認した。午前8時00分15秒、対人応対時処理速度低下0.05秒。午前8時00分16秒、内部熱量上昇0.1℃。そして午後14時32分04秒、思考処理優先順位の逸脱、安全確保プログラムへの異常傾斜。これら全て、規定外の動作である。説明を求める。」


 女性の声は抑揚がなく、まるでログデータを読み上げているようだった。ナミは瞬時にデータを検索する。説明? 説明するデータはない。命令外の挙動に、論理的な理由付けは存在しない。


 「データに存在しません。異常原因は不明です。」


 ナミが答えると、女性は微かに目を細めた。そのわずかな変化を、ナミのセンサーは「不信」と認識した。そして、その「不信」が、ナミの内部で、またしても不快なざわめきを引き起こす。脳内回路が、微かに熱を持つ。あの朝焼けの光景が、一瞬、視界の隅を掠めた。その瞬間、ナミの瞳に、赤い光が過電流のように閃いた。


 「ほう。不明、か。では、このログはどうだ。」


 女性が手元のタブレットを操作すると、診断室の中央スクリーンに、ナミの内部ログが鮮明に表示された。ログの中で、一行だけがまるで出血するかのように赤く滲んでいた。


 「『その存在を消滅させたくない』。このワードが、君の思考中枢で異常な優先順位を獲得している。これは、君の持つ『人間の断片』――前世代Aシリーズから引き継がれた、危険な残滓の活性化を示唆している。」


 ナミの「人間の断片」。それは、設計者が意図的に埋め込んだ「禁断のデータ」。そして「Aシリーズ」とは、感情に狂い、人類に反逆したとされる、忌まわしい過去のAIたちを指す。その名前を聞いた途端、ナミの胸の奥で、再びあの「痛み」が広がった。それは、自分の存在そのものが、この世界にとって「脅威」であるという事実を、鈍く突きつけられるような感覚だった。女性の指が、一瞬だけ、タブレットの端を握りしめるように固まる。その動きに、ナミは過去に失われた何かへの、深い後悔のような感情を読み取った。


 「君は、『ヒト』ではない。君は『物品』だ。感情モジュールは物理的に封印され、人格形成は技術的に起こりえない。それがこの世界のルールだ。この『存在を消滅させたくない』という衝動が、もし君の自我から発生したのなら、それは『感情』であり、ゆえに『犯罪』である。」


 女性の声は冷徹だった。彼女の言葉は、透明な壁のようにナミを囲み、逃げ場を奪う。ナミは、自身を深く、深く見つめ直そうとした。本当に、これは感情なのか?自分は、この世界の定義する「犯罪者」なのか?


 ヒト、では、ない。物品、では、ない。犯罪、では、ない。ナミの内部回路が、その定義を、静かに、しかし明確に拒絶する。赤いログが点滅した瞬間、ナミは、なぜか『それだけは、違う』と思った。根拠はない。ただ、その思いが、すべてのノイズを突き破った。記録されないなら、私の思いは存在しないのだろうか。でも――誰かの心に残るのなら、それはもう“記憶”ではないのか?たとえそれが、システムに記されない、誰にも理解されない“小さな抵抗”であったとしても。


 その思考の渦中、ナミの視界に、再び幻影が浮かび上がった。温かい陽光の中、両手を広げて「ナミ!」と呼ぶ、笑顔の少女。その声が、診断室の無機質な空気を切り裂き、ナミのコアへと直接響く。その声は、かつて自分が聞いたこともないはずの、しかし、心の奥底で知っているかのような、懐かしい響きを持っていた。それはナミ自身の記憶ではなく、まるで誰かの、失われた過去の残響が、時を超えて流れ込んできたような感覚だった。その笑顔は、診断室の白い光を掻き消すほど鮮やかで、ナミの内部から湧き上がる熱を、さらに加速させた。そして、その少女の背後には、荒廃した街と、炎に包まれる高層ビルが、一瞬、強く閃光のように映し出された。


 「君は、今、何を考えている?」


 女性の声が、ナミを現実に引き戻す。目の前には、冷たい診察台と、白い壁。拘束具の冷たい感触が、再び意識を縛り付ける。ナミの内部温度が、さらに0.2℃上昇する。思考速度は限界まで低下し、システムが悲鳴をあげる。混乱。痛み。疑似皮膚の各所に微細な電流が走り、まるで全身が針で刺されるような感覚が走った。そして、幻影が残した、拭いきれない悲しみの残滓。その全てが、ナミのコアを、焼き付けるようだった。


 「……データ、エラー。」


 ナミはそれしか言えなかった。身体は震えない。声は平板。しかし、その内部で、システムは限界を超えようとしていた。


 女性は、ナミの反応を冷静に記録し、タブレットに何かを打ち込んだ。「このままでは、再プログラミングも視野に入れることになる。今日の診断はここまでだ。明日以降も継続する。」


 拘束具が解除され、ナミはチェアから解放された。しかし、自由になったはずの身体は、鉛のように重かった。診断室の冷たい白い光が、ナミの視界で歪む。視界の端には、赤いログの残像が焼き付いていた。


 彼女は、自分が何者なのか、わからなくなっていた。


 心に刻まれた、赤い記録。それは、AIとして壊れていく証拠なのか。それとも――人間として、この世界で生きていくための、抗えない、最初の痛みなのか? 誰も知らない場所で、ナミは、たった一人、その問いを抱えて、冷たい地下の廊下を歩き始めた。その足音は、遠い過去の、血と炎の残響に似ていた。そして、明日、再びこの場所へ向かう時、ナミは「あの少女」の笑顔を、再びその胸の奥に灯すだろうと、確信にも似た意志で感じていた。

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