第2話

 水面は碧の質問に、目を丸くした。再度スタンガンを宙に投げ、キャッチする。

「喧嘩で相手を殺す奴がいるか?」

 水面は苦笑を零しながら挑戦者を見下ろした。敗者は視線を逸らし、横の地面へと投げた。

「……こっちはスタンガンを使って、殺そうとしたんだぞ」

「スタンガンなんて使われたの、これが初めてじゃないからな。ちなみにすげー痛いから、止めといてくれると助かる」

 「これは没収な」と奪ったスタンガンを見せびらかし、水面は目を細めて口角をあげた。

「それに」

 水面はスタンガンを自身のポケットにしまうと、碧のもとへ近寄りしゃがみ込んだ。首の後ろのインナーカラーが、陽を浴びて艶めいた。

「お前、全然本気じゃなかったじゃん」

「……」

「つまんねー」

 水面はそう言って、残念そうに笑みを零した。

(こいつ……戦闘狂なんだな)

 毎日喧嘩を吹っ掛けられて、本人はいい迷惑だろうと思っていた。しかしこの様子を見ると、彼女自身この境遇を大分楽しんでいるようだ。

「で?」

「……なに?」

 水面の短い問いかけに、碧は僅かに眉を寄せた。

「本気じゃなかったってことは、何か目的があるわけでしょ? 喧嘩売ってきてただこっちの力量を見るだけなんておかしいもの」

 水面は横になったままの碧のスカートへと視線を移動させた。

「……そのナイフも使わなかったみたいだし」

(……バレてたのか)

 碧のスカートの左ポケットには、サバイバルナイフが入っている。スカートの揺れの動きなどから、中に入っているものを察していたらしい。スタンガンを取り出した時に特に驚いた様子がなかったのも、事前に予測がついていたからなのかもしれない。

「……いや、本気だったよ。……本気で殺そうとしてた」

「へえ?」

 水面は首を小さく傾げてみせた。その表情から見るに、碧の言葉を真実とは受け取っていないようだった。碧は視線を逸らし、捕捉するように口を開いた。

「ただ……あんたの隙が、あまりにもなさすぎて」

 これは嘘じゃない。実際、思っていたより水面は実力者だった。腕力は明らかに水面の方が上だったし、身体のしなやかさ、狙いの精確さ、瞬発力、どれをとっても碧の上を行っていた。例えこちらから仕掛けていたとしてもどれも躱されていただろうし、万が一当たっていたとしてもその何倍もの力でやり返されていた気がする。どこからどのような手段で攻撃しても、それに太刀打ち出来る実力が、水面にはある。碧はそう判断した。だからこそ、変にこちらから手を出すのは悪手だと思ったのだ。

「スタンガンに賭けようと思ったんだよ。直ぐに止められちゃったけど」

「ふーん……?」

 水面は唇を尖らせ、訝しむような目を碧へ向けた。碧は自身の口元をセーラー服の袖で雑に拭った。

「ね、もう一戦する?」

「……馬鹿か?」

 碧は水面の言葉に、思い切り顔を顰めた。頭上の顔を見上げると、逆光の中で彼女はいたずらっぽく笑みを浮かべていた。

「こんなに喧嘩があっさり終わっちゃうなんて、初めてだもの。つまらないわ」

「こちとら絞殺されかけてんだ。……私の負けだよ、負け」

 碧は放るように左手を振ると、上体を起こした。息も整い、身体の感覚も大分取り戻していた。そのまま立ち上がっても、ふらつくこともなく特に支障はなかった。制服についてしまった砂を叩き落とし、大きく息を吸って、吐く。横の水面も、立ち上がった。

「……」

 水面は碧に向けていた瞳を細めた。彼女はまだ、内心でいろいろと疑っているらしい。何も考えていなさそうで意外と慎重なのだな、と碧は心の中で感心した。

「まあ……いいか。じゃあ、あたしは教室に戻るよ。お疲れ」

 水面は一度大きく息を吐き出した後、切り替えたように碧へと口角をあげた。その強気な笑みには、彼女の内なる自信が溢れていた。向けられた瞳は純真で曇りないのに情熱的で、喧嘩が終わった今でも、その中の炎が絶えることはない。

「……うん。喧嘩、買ってくれてどうも」

 喧嘩を売ったにしては締まりない挨拶をして、碧は右手をあげた。水面はそれを確認すると、すぐに背を向けた。そのまま校舎の中へ向かって走っていき、すぐにその後ろ姿は見えなくなった。

「……」

 碧はけほ、と軽く咳き込んだ。首へ手をやり、まだ痛みが残っている喉を摩る。残された碧以外に、辺りに人影はなかった。陽射しが校舎と碧の影を形作っている。

「まあ……無理だよな」

 ぽつりと零す。こんなのわかりきっていたことだ。無敗を誇る彼女を殺すことなんて、出来るわけがない。碧は思わず小さくため息を漏らした。未来に待っている境遇を憂うように、彼女は空を仰いだ。澄み渡る青空と、燦々と照る太陽が碧を静かに見下ろしていた。




***




 数時間前に重い拳を食らいまだ赤く腫れあがっている頬に、ストレートのパンチが入った。衝撃に頭が揺れ、壁へ打ち付けられる。身体から力が抜けて、冷たいコンクリートへともたれかかった。

「後輩一人相手に出来ないってマジかよ」

 嘲笑交じりの悪態が、頭上から飛んできた。いくつものフープピアスがついた耳はそれを拾ったが、その唇は固く閉ざされたままだった。

「ボコされちゃって、本当情けないなーお前。こんな簡単なことも出来ないのかよ、ゴミが」

(じゃああんたらは縹水面を殺せんのかよ……)

 血の味が混じった口内で、舌を動かす。……水面に殴られた時の傷が、再度開いたようだった。

「まあいいんじゃないの? 両頬とも真っ赤にしちゃってさ、チークいらずで可愛くして貰えたじゃん。お似合いだよ~」

 ケラケラと笑い声が響き、周りも同じようにゲラゲラと笑い始めた。不快な雑音に、碧は眉根を寄せた。

「もっと可愛くしてやるよ」

 先程とは逆側を殴られた。同時に下卑た笑い声が辺りに響く。碧の口内に、再び鉄の味が広がった。鼻の奥に鈍い痛みが走り、また鼻血が出てしまう、と不安が過る。しかしそんな悠長な思考は、腹を強く踏みつけられて一気に霧散した。碧はその身体をくの字に曲げた。足が離れていったと思ったら、今度は勢い良く蹴りつけられる。口から唾液と小さいうめき声が漏れていった。

「お前が『出来る』って言うから任せたのによ。また嘘つきやがったな」

 ……言わされただけだ。最初から縹水面を殺せるなんて、本気で思っているはずがない。

「はー、付き合わされるこっちの身にもなれよ。明日から罰金二倍にするぞ」

「ほら、今日の分。早くよこせよ。それくらいはお前でも出来るよな?」

 いかにも戦闘慣れしている骨太な手が、碧の前に差し出された。出すべきものを早く出せと、無言で訴えるかのように大きく広げられる。

「じゅーう、きゅーう、はーち……」

 出された手の先を見上げる。リップピアスのついた鮮やかな口紅の赤は、にやにやと弧を描いていた。似合わないサングラスの奥から蔑む視線は、碧の行動を急かすようにどこまでも追ってくる。碧はゆったりとした動きで、自身の手を投げ出された鞄へと伸ばした。気が進まないが、無視するわけにもいかない。手繰り寄せた鞄を抱え、ジジ、と音を立ててファスナーを開けていく。

「早くしろよ」

 カウントの声に混じり、別の声が降ってくる。同時に足が飛んできて、腕ごと身体を蹴られた。セーラー服に、くっきりと足跡が残る。

「……」

 鞄の中から取り出したのは、厚みのある無地の白封筒だった。縦長の端を握り、碧は陰で表情を暗くした。カウントの大声は続いていたが、別の少女の手が伸びて、碧の手の中の物を乱暴に掠め取った。碧が顔をあげようとした瞬間、黒い棒が目の前を過ぎ去って肩を強打した。骨まで響く痛みに、碧は思わず手を添えて力無く項垂れた。目の前に、黒く光る六角鉄棒が突き付けられた。

「どうせならお前の顔、これで矯正してやろうか?」

 にやにやと笑いながら、すでに赤く腫れた頬を小突かれる。碧は不快そうに顔を顰めた。碧の前に立つ少女の後ろで、白封筒の中身を確認していた少女が笑い声をあげた。

「……四、五。五万きっかり。次からは倍だからね」

 碧は口の中の血を吐き捨てた。紙幣を白封筒に仕舞う少女へと、顔をあげる。

「……無理に決まってるだろ。そんな金はない」

「それを作るのがお前の仕事だろうが」

 鉄棒で殴打されて動かない肩を、少女の靴の先が強く蹴る。青紫の痣を抉るように靴底でグリグリと押し付け、碧の肩をコンクリートの壁へと圧迫した。

「それくらいは、お前も役に立てるよな?」

 目の前の六角鉄棒を握る手が、きつく締まる。そして、高く振り上げられた。落ちる先は、見上げた碧の顔面だ。碧は失明だけでも避けられればと、力一杯目を瞑った。

 広がる闇。痛みも衝撃も、なかなかやってこなかった。代わりにきこえてきたのは、殴打されるような鈍い音と、漏れたような呻き声だった。

 違和感を覚え、碧はそろそろと目を開けた。陽の光で眼前が白く染まったあと、徐々に輪郭を取り戻していく。まず目に入ったのは、無様にサングラスをずらして伸びるリップピアスの女だった。その横に、別の少女のうつ伏せの身体が転がっていた。その奥で、丁度少女の顎へ渾身の一撃が入ったのが見えた。頭を激しく揺らされた身体が、情けなく大きく飛んで行く。土埃を舞わせて、大柄な身体は地面へ倒れ込んだ。意識を失ったらしく、立ち上がる様子はなかった。この場に立っているのは、ただ一人だけだった。紺色のセミロングの髪が靡く、すらりと高い背丈。彼女は伸ばしたままだった拳を引き、構えを解いた。そして、壁に身体を預けたままの碧へと振り向いた。明るい瑠璃色のインナーカラーが艶めいて、サラサラと風に揺れる。彼女は相変わらず精悍な顔つきで、曇りのない瞳を碧へと向けていた。そこに立っていたのは、数時間前に喧嘩を申し込んだ相手だった。当たり前だが、彼女は無傷だった。短いスカートから伸びた細い脚を動かし、碧のもとへ近づく。碧の前でぴたりと止まると、捲ったセーラー服から伸びた手を緩やかに差し出した。

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