30. 漆黒の海で交わす約束

 ――寒い。

 肌を刺すような冷気が、遠のいていた意識を呼び戻す。

 ゆっくりと目を開けるが、視界は黒に染まったままだった。


 いや、違う。

 この感覚には覚えがある。

 ――海だ。

 研究所で、毎晩眺めていた夜の海。

 それと同じ、静かで冷たい気配。


 足元を見下ろすと、さざ波が空の光を拾い、かすかに銀色の揺らめきを見せていた。

 どうやら俺は、どこかの海の上空に“浮いている”らしい。


 顔を上げると、青みがかった緑色の光のカーテンが、夜空をゆっくりと舞っていた。

 オーロラだ。

 実物を見るのは、これが初めてだった。


『……さん』


 空気のようなかすかな声が、頭の中に響く。


『……颯太さん』


 その声と共に、目の前に一人の女性が現れた。

 長く艶やかな黒髪。

 透き通るような白い肌。

 微笑んだ口元から、静謐な気配が漂う。


「初めまして、ですね」


 優しく、どこか懐かしさを感じる声だった。

 ――リゼに、似ている。


「リゼ……?」


「違いますよ。リゼではありません」


 よく見ると、瞳の色が違っていた。

 まさか……。


「……女神、様、ですか?」

「はい。正解です」


 彼女は、子どものように無邪気な笑みを浮かべた。


「先ほどまでのこと、見ていましたよ。わたしを信じてくれて、嬉しかったです。聞いていた通り、優しくて……頼もしい方ですね」


 本物だ。

 本当に、“女神”がいた。

 明確な根拠はない。

 けれど、不思議と――そう確信できた。


 ……だとしたら、まずい。

 カイムたちも、この場所に転移しているはずだ。


「女神様、大変です! あなたを狙っている連中が――」


 慌てる俺に、彼女は穏やかに首を振った。

 

「知っています。けれど、心配はいりません。彼らがここへ来ても、わたしを害することは、そう簡単なことではありませんから」


 それよりも――と、女神は言葉をつないだ。


「リゼ……あの子は一緒ではないのですね」


 その声音には、ほんの少し寂しさがにじんでいた。


「あの子と一緒でなければ、あなたの願いは叶いませんよ」

「えっ?」

「彼から聞いたはずです。――わたしには、あなたの“願い”を直接叶える力はない、と」


 カイムの言っていたことは、本当だったのか?


「次は……リゼと共に来てください。わたしも、あなた方を信じて待っています」


「ま、待ってください! まだ、聞きたいことが――!」


 俺の言葉が届くよりも早く、彼女の姿は光の粒となって消えていった。

 そして、視界がゆっくりと暗転していく――。




 気がつくと、周囲は見慣れたフォルテリアの風景に変わっていた。

 だが、ついさっきまであったはずのアルカナ本社は――地面から抉り取られたように、跡形もなく消失していた。


 そうだ、マリアは!? セシルは……!

 

 全身に走る寒気を振り払い、周囲を見渡す。

 少し離れた場所に、見覚えのある人影が倒れていた。


「マリア!」


 慌てて駆け寄る。

 ……よかった、息はある。


「ん……」


 マリアがうっすらと目を開ける。


「大丈夫か?」

「……あれ? 急に暗くなって、それから――」


 彼女はそこまで言うと、はっとしたように起き上がり、勢いよく俺を突き飛ばした。


「セシル! ……いたっ!」


 そのまま走り出し、視線の先――倒れているセシリーに駆け寄る。

 その傍らにはアレンや他の隊員たちの姿もあった。


「セシル……よかった……!」

「マリアちゃん……無事で、よかった。心配、したんだから……」


 目に涙を浮かべ、二人は固く抱きしめ合う。


 ……えっと。

 俺のことは――?


 感動的な再会の傍らで、俺は少しだけ心がチクリとするのを感じた。


『ソウタさん、聞こえますか?』


 通信が入る。

 セラさんの声だ。


「はい。こっちは……まあ、色々ありましたが、ひとまず落ち着きました。そちらは?」

 

『ご無事で何よりです。“ゲート”が一瞬だけ膨れ上がり、アルカナごと消失したときは――正直、肝を冷やしました』

『こちらもなんとか魔物を退けました。ひとまず、危機は去ったと見ていいでしょう』

 

「……お互い、お疲れ様でした」


 俺は少し間を置いて、続ける。


「……ただ、首謀者たちは目的を果たして、女神のもとへ行ってしまいました」

 

『……そうですか。ですが、どうかご自分を責めないで。街も、人々も無事なのですから。ソウタさんは――よくやってくれました』


「……ありがとうございます」


 頑張ったんだ。

 そう、言ってもいいのかもしれない。


 セラさんの声に、張りつめていた気持ちが少しだけ緩んだ気がした。




 リュキア社に戻った俺たちは、それぞれのいきさつを共有した。

 避難所となった同社には相当数の魔物が押し寄せたが、ヴァンガードや私設部隊の奮闘で、奇跡的に死者は一人も出なかったという。


「うにゅ~……」


 ラボの机に突っ伏したルミナが、奇妙な声で呻いている。

 俺のギアを作るために徹夜し、そのまま防衛戦に参加したのだから、無理もない。

 あのタイミングでギアが届かなかったら、俺もマリアもどうなっていたか。


「お疲れ様。ギア、ありがとう。マジで助かったよ。あれがなきゃ、死んでた」


 ルミナがむくりと顔を上げ、ぱっと笑顔になる。


「でしょっ!」

「なんていうか、イメージしたことがそのまま現実になる感じ。マジで、なんでもできそうだった」

「そう! それが術式の二重構造! リアルタイムでイメージを術式に変換する術式なの! ま、リゼっちの協力でめちゃくちゃ進化したんだけどね!」


「リゼにも感謝しないとな」

「うんうん! たー坊の世界の人って、ギアなしで脳内だけで術式を組むんでしょ? 意味わかんないよね!」

「あはは……」


 まあ、俺にはその“脳みそ”の才能がないわけだが。


「……ねえ、たー坊」

「ん?」

「お願いが……あるんだけど」


 ルミナが、もじもじと照れたように言う。


「ボク、いま――めちゃくちゃ疲れてます。たー坊のために徹夜して、防衛戦にも参加して、マナもすっからかんで……」


 彼女はずい、と顔を近づけてきた。

 キラキラした瞳に吸い込まれそうで、心臓がどきりと跳ねる。


「だからね――そのギアで、なでなでしてほしいな」

「――へっ?」


 想定外のお願いに、変な声が出た。


「そのギアで撫でてもらえたら、疲れも吹っ飛ぶと思うんだ~」


 よくわからないけど――。

 そういうことなら、やってみるか。

 癒しをイメージすると、手にはめたギアが光りだす。

 そのまま、ルミナの頭をそっと撫でた。


「~~~~ん、ああ~……しあわせ……」


 なんだこれは。

 めちゃくちゃ奇妙な光景な気がするが、ルミナは心の底から気持ちよさそうだった。


 しばらく撫でていると、ふと、背後にひんやりとした気配を感じた。


 ――嫌な予感がする。

 こういうのは、大体当たる。


「……何やってんの?」


 凍てつくような声に、俺は恐る恐る振り返った。

 

 そこには――腕を組み、汚物でも見るような目をしたマリアが、立っていた。

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