15.1945年(春和元年)8月 香港⑥
「
高貴ゆえに誰も呼んではくれない名前を呼んで。
マコトは玉座に見立てた椅子に座っていた睦子に覆い被さった。
低く鈍い音と
粉々になったガラスが光を反射して、煌めきながら降り注ぐ。
マコトの身体の下で守られながら、睦子はそれを見た。
ぽたりと何かが睦子の頬に落ちた。
でも、次の瞬間、それが何かを確認する間もなく、腕を力強く引かれた。
「陛下はご無事か! 避難を!」
焦げ臭い匂いと白煙が立ち込める部屋の中で、誰かが叫んだけれど、睦子はすでに駆け出していた。
マコトに手を引かれて。
特別室から廊下に続く、重厚な装飾のドアを開けると、タタタッ、と短く連続した銃声が聞こえた。
廊下の見張りは、銃声が聞こえる方を向いていたから、二人は逆へすり抜ける。
「陛下! 誰か陛下をお止めしろ!」
背中からそんな声が聞こえ、一瞬立ち止まりそうになる睦子の手をマコトが強く引く。
「亡命!」
「え?」
「今度こそ連れて逃げるから俺を信じてくれ!」
「信じろって━━」
「こっちへ、睦子!」
マコトがまた、名前を呼んだ。
『陛下』でも『ハル』でもなく『ちかこ』と。
まるで、ただの女の子みたいに呼ぶ。
睦子がソ連外交官のフリをしていたマコトに、執拗に本当の名前を聞いたのは、自分が名前で呼ばれたかった裏返しでもあった。
━━名前を呼んで、連れて逃げてくれるの?
胸に広がった期待に泣き出しそうになった。
でも、たぶんまだ泣いている場合じゃない。
亡命が成功すると決まったわけでもない。
マコトを信じていいか、わからない。
逃げていいか、わからない。
逃げた後、どうなるかわからない。
逃げて、帝国や民がどうなるのかわからない。
逃げて、自分が生き延びられるかわからない。
怖い。
怖い。
怖い。
でも。
━━でも、私は賭けたい!
走って、走って、走って。
全力で走って。
階下のシーツや布団が積まれた部屋に身を潜めた。
「迎えが来るまで少し待ってください」
上がる息を整えながらマコトが言う。
睦子も大きく息を吸って、呼吸を整えようとしていると、マコトが顔を覗き込む。
「え、ちょっと、近いわよ、顔が」
睦子は急に恥ずかしくなって顔を背けた。
顔が妙な熱を持っている。
「睦子、頬に血が……怪我ではないか。よかった」
マコトは静かに言って、指で睦子の頬を撫でる。
驚いて飛び上がりそうになったが、はたと気づく。
睦子はそこでようやく、マコトが怪我をしていることに気づいた。
「あなた、頭から血が出てるわよ……」
「あー……、傷自体はかすり傷だと思うけど、血痕が落ちてないかな……」
睦子の震えた声を受け流して、マコトは血痕を辿られないかを心配した。
こめかみに触れて出血量を確認する。
黒髪のかつらを外し、元々頭に巻いていた手ぬぐいを巻き直す。
「たぶん止血出来てるから問題ないと思うけど」
「……自分のことになると途端に雑になるところあるわよね、あなた」
「そうか?」
「上海の部屋なんて、ベッド以外の家具がなかったじゃない。そういうところよ」
「諜報員の隠れ家なんて荷物は最低限だから、あんなもんだ」
「ほんとにそうなの? でもやっぱりこの巻き方は雑だと思うの」
睦子は、どうにか出来ないかしら、とマコトに手を伸ばすも、応急処置の仕方は知識としてはあっても、実践したことはないので、これ以上巻き方が良くなるとは思えず、手を引っ込めた。
その時━━。
コンコン、と扉を叩く軽い音がした。
「面白や花に
ドアの向こうから聞こえた声は男のものだった。
━━和歌?
睦子は首を傾げる。
記憶が正しければ
なんて素敵なのだろう、花に親しげに寄り添うアゲハ蝶の姿が、もし私もその蝶のようになれたなら、愛する人のそばに寄り添えるのに、という歌。
「
そして、返歌のようにマコトが諳んじたのは、山家集に載っている西行法師の歌だ。
垣根に咲く花に親しげに寄り添って飛ぶ蝶が羨ましいけれど、その姿もまたむなしいものなのだ、という意味だ。
「符丁だ」
そう言って、マコトは立ち上がる。
「長いわねぇ。上の句と下の句で十分じゃないかしら」
睦子が言うと、マコトは首を横に振る。
「上の句と下の句じゃ、敵がこの和歌を知っていたら符丁として成立しない」
「唱えてるうちに攻撃されたらどうするのよ?」
「唱えてても敵が来たら中断して攻撃する」
マコトはドアノブを回し、用心深くドアを細く開ける。
ドアの向こうから覗き込んでいるのは半山区の屋敷の警備に当たっていた小坂軍曹だ。
今はくたびれたワイシャツにサスペンダーにズボンという、雑役夫の装いだ。
「陛下、このシーツを回収する袋の中に入ってください」
小坂軍曹は言う。
「ハルは上着を脱いで、俺が被っていたカツラを被ってください。それから小坂軍曹、悪いが手ぬぐい一枚貸してくれ。頭に巻くから」
「今巻いてるものは血が滲んでますもんね。目立つといけない」
小坂はポケットから下がっていた、薄汚れた手ぬぐいをマコトに渡す。
マコトは先に特殊メイクを剥がせるだけ剥がし
手ぬぐいで顔を拭って、それを血の滲んだ手ぬぐいの上に重ねて巻いた。
それから上着を脱ぎ、シーツの山の中へ隠した。
「ハルもモタモタしないで、早く上着を隠してください」
「……」
睦子は無言で上着を脱ぐ。
━━呼び方、戻っちゃったわね。
と、不服に思いながら。
偽りの呼び名の『ハル』
━━やっぱりこの人には『ちかこ』と呼んでほしい。
芽吹いたばかりの淡い恋情がそれを望む。
そして、同時に深い絶望をする。
━━女帝の位にのぼった皇女の恋は、生涯許されないのに。
睦子は小さくため息をつき、芽吹いたばかりの気持ちに蓋をした。
*
夜陰に乗じて、藤木が手配した船で香港島を離れた。
小型商船に偽装した特務機関の軍用船は、見た目はディーゼルエンジンを積んだ木造船なので、外洋を航行するには少し頼りなく見えた。
「まずはスマトラへ向かいます」
「スマトラ島パレンバンまではこの船で。パレンバンからは商船で、最終目的地はイスタンブール」
「イスタンブール……」
睦子は確認するように繰り返す。
「はい、トルコのイスタンブールです」
トルコは、現在は連合国側ではあるが、長らく中立であった。
連合国側の圧力で宣戦布告したのは今年二月で、それからも帝国に対して軍事行動を行っておらず、中立に近い立場のままだった。
「イスタンブールまで、俺が連れて行きます」
マコトは睦子の前に跪いた。
「どうか、手を」
睦子が右手を差し出す。
マコトが手を軽く握り、甲に口づけた。
「あなたに忠誠を誓われるのって、むず痒いのだけど」
「忠誠は誓いませんけど、裏切らず守り抜きます、という決意表明です」
「あ、そう」
睦子の胸中は複雑だ。
マコトとはなるべく対等でいたい気持ち。
唯一無二として忠誠を誓われたい気持ち。
たくさんの気持ちが宙に浮いてバラバラに散らばっている気がする。
「ここからイスタンブールまでのあなたの
「ええ、わかったわ」
マコトの説明の
上海から香港まではなんとも思わなかったのに。
それから、ふと、半山区の屋敷に置いてきてしまった辞書を思い出して、睦子は聞く。
「……マシュー・エヴァンスって、もしかして、本名?」
「ああ、出生名というか、英国籍の方の名前。全名はマシュー・ケイレブ・エヴァンス」
あっさりと、マコトは言った。
「スマトラ島以降は書類の確認も厳しくなる。正規の旅券を使う方が安全なんだ。結婚証明書やハルの渡航許可証なんかはさすがに偽造だけど」
「そう。じゃあ、マコトじゃなくて……マシューって呼んだほうがいいかしら?」
睦子が長い睫毛を少し伏せ、小さな声で聞くと、マコトはこう答えた。
「イスタンブールまでの道中、人前ではマシューのほうが助かるけど、どっちでもいい。
「嘘から出たマコトじゃなかったのね……」
睦子は睫毛を上げて、目を丸くする。
━━あなたも、たくさんの偽名に埋もれて、呼んでもらえない本当の名を、呼んでもらいたかったのかしら?
でも、それを聞いたら、帝である自分を不敬にも『
だから飲み込んだ。
「説明、続けていいか」
マコトが言う。
「ええ」
少し話がそれたわね、と思いながら睦子は頷く。
「牧原寛太郎侍従長、綾小路実頼外交顧問は亡命の受け入れ準備のためイスタンブールへ向かったそうです」
「え……?」
「他にも今年の春に帝都から数名、七月以降に上海からも別働隊が順次移動していて、現時点で合わせて十数名がイスタンブール入りしているらしい」
それは睦子が上海に移された春にはすでに、イスタンブールへの亡命準備が始まっていたことを意味する。
睦子はジト目で聞く。
「マコト、それを、あなた、いつから知っていたの?」
すると、マコトは眉根を寄せて口をへの字に曲げた。
「五日前。あの後だよ。藤木中佐が総督部と英国海軍の顔を表立って潰すことになるから、一旦は引き渡すけど、あとで救出するっていうことを、俺が知ってたら、お前は役がないときは全部顔に出るから作戦に支障が出る、って伏せられてたんだ」
マコトは項垂れて、口を尖らせる。
いじけているマコトに睦子は言った。
「それはお気の毒様……あなた、私と一緒に騙されていたのね」
睦子はマコトを気の毒に思う反面、確かにそうね、と納得せざるを得ない。
本当に嘘が下手な人なんだわ、と心の中でクスリと笑う。
「そういえば、俺は綾小路に『滅びた帝国の都で、また会いましょう』と言われたんだが、やっと意味がわかった。東ローマ帝国の都、コンスタンチノープルであり、オスマン帝国の都、イスタンブールだ。ずっと謎だったけど、やっと、すっきりした」
「え、そんなこと、いつ言われてたの?」
「あー……、ちょっとそこから先は機密事項で」
「え、それ、そんなに重要な話なの?」
「いや、重要でもないけど、何でもべらべらと喋ると思われるのは良くない気がしてきて」
「ちょっと、教えなさいよ」
「いや、どうでもいい話だし、今となっては」
「今となっては、って何よその含み?」
「大した含みじゃないし」
やいのやいのと押し問答の末、ふと、急にマコトが真顔に戻る。
灰青色の瞳が睦子をまっすぐ見つめる。
「イスタンブールに無事たどり着けるよう、なるべく努力するが、危険な道中になる。それにイスタンブールに着いたら、あなたは亡命政権の女帝に祭り上げられる。連合国に差し出されたほうが楽に死ねた、なんて末路もありうる」
睦子はマコトを見つめ返す。
「勝手に連れ出しておいて、それはないんじゃないの?」
静かに言った後、睦子は目をぎゅっと閉じて、声を荒らげた。
「でも、私は帝国の戦争責任をすべて背負って死にたくなんかなかった! 他の誰かが背負うことになっても死にたくない! 女帝という位につけられ責任を勝手に背負わされてずっと怖かった! もう嫌よ! こんなのもうまっぴらよ! 生きたい! どんな誹りを受けようと私は死にたくない!」
目を開けば、世界の輪郭が滲んでいく。
世界が滲んで壊れていくように。
「でも、弟を、東宮を守らなくちゃいけないって、私……っ」
睦子は、堪えきれず、声を上げて泣き出した。
そんな睦子をマコトは壊れ物に触れるように、そっと抱きしめた。
嗚咽で震える背中を優しくさすって。
大丈夫だと、頷いて。
泣き疲れて眠るまで、手を握っていた。
━━この手を離さないで、マコト。
そう願いながら、睦子は、昏い海に沈んでしまわないように、差し出された手にすがりつくようにして、眠りに落ちた。
大海の波間を彷徨い、揺蕩うような、長い長い旅が、この手の温もりだけを頼りにして、始まろうとしていた。
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