第10話 家族の記憶
気の利いた言葉を言いたいのだが、何も言えない。言葉が外に出ることを嫌がっていて、代わりに無駄な空気ばかりが口から漏れる。胸が締め付けられ、楽な体勢なはずなのに体のあちこちが痛くなる。
「掛橋さん?」
「あ、ごめん。その、えっと、母親の借金?」
オウム返し以外の言葉は見つからなかった。
「そうです。六百万ほどですけど」
言い方からして、麻衣はそれを少額だと思っているのかもしれないが、十分大金だ。まだ成人にもなっていない女性が抱える借金ではない。勉強のために抱える奨学金の借金とは話が違う。返したとしても何も変わらない未来が待っている。でもそれが生きる意味なのだとしたら、終わったらどうするんだろう。それ以上については考えたくもしないし訊こうともしたくなかった。
ただいつからその借金を抱えていたのか。母親が生きていたとき、麻衣はどう思っていたのか。性格の悪い週刊誌のような質問ばかり思いついてしまう。
「嫌かもしれないけど、幾つか質問していいか?」
変な気の遣い方だったが、麻衣は「何でも聞いてください」と言った。
「元々借金はどれくらいあったんだ?」
「いくらあったんでしょうね。でも私が受け継いだ時には一千万以上はあったと思います。でも取り立ての人が優しい人なんですよ。毎月この額さえ返してくれれば何年かかってもいいよって。その人がいなかったら、もう諦めてたでしょうね」
でしょうね、の言葉がとても弱々しく、今にも消えてしまいそうで怖かった。
「父親は?」
「父は、あまり覚えていません。記憶があまりなくて」
「そうか。じゃあ、母親は生前何してたんだ?」
「そうですね。私がアイドルになる前は、変な男に貢いだりなんなりして、ただ大量の借金を作っただけですね。そのときですかね、『新しく発足するアイドルがあるんだけど、あんた可愛いから行ってみてよ』みたいなことを言われたのは。心身ともに未完成だった当時の私でも、お金目当てだなっていうのはすぐに分かりましたよ。芸能人になれば大金が手に入って、そのお金で母はまた男の尻を追いかけるんだろうなっていうのも分かりましたよ。
それでアイドルになれたのはいいものの、【じゃない方アイドル】の私は上手くいかないんですよね。満足のいくお金が手に入らないと分かった母は暴力を振るうようになりました。当時は水着撮影はないので、服に隠れる場所を中心に殴られ、蹴られました。
もちろんそれで解決はしないので、母は自分で稼ぐようになりました。いわゆる水商売です。それで借金が減ると思ったら、不思議と増える一方なんですよね。お金がないのに男に貢ぐんです。おまけに男の言うことは何でも聞くもんですから、良いカモですよね。何があったのか分かりませんが、ある日、母は死にました。本当、どうしようもない母です」
感情の起伏に揺れがなく、淡々と話す麻衣だが、言い終えると鼻をすする音が聞こえはじめる。俺はその話を聞きながら、寄り添うように相槌をうっていた。
「そんな母ですけど、唯一の家族だから、嫌いになんてなれないですよ。だから母と交わした唯一の約束を遂行して、借金も返すと決めました。額も額だったので、最初は諦めようともしましたが、結局は母が好きだっていう気持ちが残りました。置き土産ですけど、母が遺した唯一のものです。……すみません、湿った話を長々と喋りすぎました」
また鼻をすする音が聞こえる。小さな咳払いも耳に届く。
大丈夫だよ、と俺は言った。
予想を上回る悲惨で壮絶な過去は、心臓を締め付けられすぎて真っ二つになりそうなほどだった。
本当はもう少し訊きたかったが、これ以上訊ける状況ではないような気がした。
「ありがとう。俺は麻衣のファンとして、これからも活動を見守るよ」
「無理しなくていいんですよ、その気持ちだけで嬉しいですから」
それからは、俺が思い出せない中学時代の話を少し聞いた。同じく学校に馴染めない俺たちをヒエラルキーの高い奴が嘲たり見下したりしていた、という話や、麻衣が転校する前に教師と大喧嘩したという話も聞いた。
真っ黒に塗りつぶされた思い出に消しゴムをかけてくれたこの時間は、あっという間に過ぎ去った。気づけば深夜一時を回っていた。麻衣はご飯を食べ忘れ、冷え切ったご飯が目の前に置いてあったらしい。明日はお互い仕事があるため、ここで会話を切り上げた。涙ぐんでいた声はいつも通りの淡々とした声に戻っていて、俺は安心した。
生きる意味が分からない俺は、麻衣の手助けをする、という意味を見つけた。星の数くらいいるファンに俺が加わっただけ。そう考えるとちっぽけなものかもしれないが、他の一人とは違う何かが俺にはある気がした。まぁ、ただの自信過剰なのかもしれない。
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