第6話 シェイドライブへ

 三日後、緊張して眠りが浅かったのか、朝日が昇る前に目が覚めた。通知が何もないスマホの画面を見て、その後はすぐコップ一杯の水を飲み、頭を冴えさせる。


 今日行くライブの名前は『シェイドライブ』と言うらしい。チケットをよく見ればそう書いているのが分かるのだが、筆記体の英語を読む脳みそは持ち合わせていなかった。


 ライブの開園時間は十六時で、そこまで遅い時間に設定されていない。


 隣に住んでいる人は、これから俺が見に行くライブのステージに立つのだ。にわかに信じがたいことではある。


 ノートパソコンを開いて電源を付けたとき、玄関の方で物音がすることに気づく。ガサガサ、ガンガン、ゴンゴンといった音が聞こえ、時折力む女性の声が聞こえる。明らかに俺の家の前で何かが行われている。泥棒の可能性を信じることなく、俺はドアを開けた。


「いてっ」


車が一台も通らない静寂の中、ゴツンッと少し鈍い音が大きく響く。同時にかわいらしい声が聞こえ、誰、と思った。俺はその声に驚き、すぐに家から出て確認する。どうやらドアを開けた拍子に、ドアの前でしゃがんでいた麻衣の頭にぶつけてしまったようだ。


「ご、ごめん、大丈夫?」


 俺は額を押さえる麻衣の顔を窺った。顔文字のように目も口も一文字になっていたが、麻衣は「大丈夫です、気にしないでください」と言った。麻衣の横にはぎっしり詰まっている紙袋があった。その紙袋から、麻衣の名前が入ったキラキラした団扇が顔を出している。


「それ、なに?」


 俺は違和感丸出しの紙袋を指さして訊いた。


「あ、これは、これがあればライブで困らないであろうグッズたちです。たぶん掛橋さんは準備していないだろうから、事前に渡そうかなと思いまして。手ぶらよりは全然マシだと思いますから。ポストのところに入ると思ったんですけど入りませんでした。たぶんその音で起こしてしまいましたよね。申し訳ございません」


「そういうことか、わざわざごめんね」


 麻衣ははみ出した団扇を中に入れ、その袋を大事そうに持って俺に渡した。細い腕から筋が浮き出ている。


「ありがとう。でも時間とか大丈夫なのか? リハーサルみたいなのあるだろ」


「心配するほどの時間ではないです。前日にゲネプロがあったのでそのような心配は全然大丈夫です」


「ゲ、ゲネプロ?」


「あ、すみません、分からないですよね。よく小学校で運動会や卒業式の前に総練習ってあるじゃないですか。最初から最後まで一通りやるやつ。あれがライブとかではゲネプロって言うんですよ」


「へぇ、そうなんだ。すごい分かりやすい」


 いえいえ、と言って小さく首を振った。袋の中には麻衣の名前が入っているタオルや団扇、ペンライト二本にライブTシャツ、カッパが入っていた。


「色々ありがとう、なんかお礼でもしないと申し訳ないよ」


「いいんですよ。招待するのって初めてだからはりきってるみたいなんです」


 袋の中身を改めて見ると、これだけの量を俺だけのために用意したのだと思うと、しっかり応援してあげないと釣り合わない。だから心の底から応援してあげることが、俺にできるお礼なのだと思う。


「あ、忘れてた」


 両手で口を覆いながら麻衣は言った。麻衣の驚きようから忘れてはいけないものを忘れたのだと思う。


「なにを忘れたの?」


「あの、ペンライトの電池……、単4なので持ち合わせていないんじゃないかな……」


 不安が募り始めたのか、表情は陰り、徐々に声が小さくなる。


「そっか、自分で電池を用意しないとダメなやつか」


「はい、買うのすっかり忘れてました……、ごめんなさい!」


 麻衣はなにも悪くないのに、深々と頭を下げる。むしろ色々してもらっていて申し訳ないのに、どうしてここまでいい人なのだろう。


「謝らないでよ。俺が準備しなくちゃいけないものを、こんなに用意してくれたんだから。電池くらい自分で買うから、気にしないで」


 本当にごめんなさい、という声が麻衣の顔から聞こえる。


「ライブ、楽しみにしてるよ。ネットで調べてライブでやるだろう曲とか予習したから、このTシャツ着てタオルと団扇を持って、全力で応援するよ」


 自分で言っていてなんだか恥ずかしくなってきて体が熱かった。だから少しの間、麻衣の顔を見ることができなかった。


「ありがとうございます」


 蚊の鳴くような声でそう言った麻衣の顔を見ると、両目から涙が流れ、頬を伝っていた。朝日が昇り、その涙は真珠のように輝いていた。


 麻衣はその涙を手の甲で拭って、「ごめんなさい、ライブ待ってます」と言った。顔をすぐに伏せ、隣のドアを開けて帰ってしまった。

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