『闇憑き語り ――五百夜、目を逸らしてはならぬ物語』

常陸之介寛浩◆本能寺から始める信長との天

鏡の向こうの“あたし”

「嫌だな……なんか、懐かしいっていうより、気味が悪い」


車のドアを閉めた瞬間、湿った空気が肌にまとわりついてきた。母の実家──長野の山奥にある古い家。軒の深い屋根、ゆがんだガラスの嵌まった窓、そして木の香りに混じる、かすかな黴臭さ。


玄関を開けると、土間の先から祖母が顔を出した。相変わらず痩せていて、蝋のような白さの肌が、薄暗い室内に浮かび上がる。


「由梨ちゃん、帰ってきたのねぇ……よく来たねぇ」


笑顔のはずなのに、目だけが笑っていない。昔から、この家には妙な“間”があった。声のあとに残る余韻、視線の奥にある何か。


「お母さん、まだ向こうで法事の準備でしょ? 私、こっちで待ってるの変じゃない?」


そう尋ねても、母はあっけらかんと笑うばかり。


「どうせ明日、こっちでみんな集まるんだから、先に来ておいてもいいでしょ」


そう言って、玄関に置かれた荷物を運び始めた。


私はため息をつきつつ、縁側の障子を開ける。外はすっかり夕方。鈴虫の声が遠くにかすれている。


この家には、小さいころ何度か来たことがある。けれど、そのたびに体調を崩して、帰る頃には必ず熱を出していた。特に──あの鏡の部屋の前を通ると、気分が悪くなった。


鏡。


そう、廊下の奥にある、黒縁の大鏡。やたら背が高く、天井まで届くような異様な存在感。何が怖いって、鏡に映った自分が、動きを一瞬遅れて追ってくるような気がするのだ。昔、それが怖くて泣いたことがある。泣きじゃくる私を、母は「変な子」と言って笑った。


そのとき、確かに“鏡の中の私”が、笑っていたのを覚えている。


私は泣いていたのに。


なのに、“あたし”は、笑っていた。


部屋に荷物を置き、祖母から出された麦茶に口をつける。ぬるい。氷なんて入っていない。


「今日は泊まるの?」


祖母の問いに曖昧に頷きながら、私は時計を見た。十八時。電波もろくに入らない山奥の家で、夜を過ごすなんて──どうして、こんなことになったのだろう。


夜になっても眠れず、私はふらふらと廊下に出た。古い木の床が軋むたびに、どこかから返事のような音が聞こえてくる。風か、家鳴りか、それとも──。


鏡の前に立ってしまった。


立ちたくなかったのに。


そこにいた。


“あたし”が、いた。


鏡の中の私は、こちらをじっと見ていた。正面から、まっすぐに。


──いや。


目が、合わなかった。


鏡の中の“あたし”は、私を見ていなかった。ほんの少し、左を見ていた。ちょうど、私の耳の後ろあたりを。


ぞわり、と背筋を冷たいものが這う。


そして、“あたし”の口が、動いた。


【おかえり】


声は、なかった。でも、口の動きは、はっきりとそう言っていた。


私は逃げるように自室に戻り、布団にもぐった。何度もスマホを見たが、圏外のまま。


──早く、朝になって。


夜が長い。部屋の障子を閉めても、外から虫の声が染み込んでくる。


そのとき。


天井から、音がした。


コツ、コツ、コツ……。


足音。


誰かが、天井裏を歩いている。


祖母の家には、そんなスペースはないはず。床下ならともかく、天井の上など、誰も歩けるはずがない。


耳を塞ごうとした瞬間。


【……見つけた】


聞こえた。


確かに、耳元で囁かれた。


私は悲鳴を上げることもできず、そのまま意識を手放した。


翌朝、目を覚ますと、祖母が廊下で掃除をしていた。あの鏡の前を、ぞうきんで拭いている。


「……ねえ、おばあちゃん。あの鏡、昔からあるの?」


「そうよ。曾祖母の代から。もう百年は経つんじゃないかしら。家を守ってるのよ」


「守ってるって……何から?」


「中の“あたし”からよ」


私の背中に、冷たいものが走った。


「え……?」


祖母はそれ以上何も言わず、黙って雑巾を絞る。水桶の中で、灰色の水が波紋を作る。


昼、母が戻ってきた。法事の準備が終わり、今夜は親戚一同集まるから、このままここに泊まっていくと言う。


私は反対したが、母は軽く笑ってこう言った。


「そんなに怖がることないって。昔の記憶、ちょっと美化されちゃってるだけでしょ」


私は、母が“鏡の部屋”の前を通るとき、ふと立ち止まったのを見逃さなかった。


夜、再び眠れないまま、私は布団から抜け出した。


もう一度、鏡を確かめなければいけない気がした。


あの“あたし”が、本当に──私と同じかどうか。


廊下の突き当たり。月明かりが差し込む鏡の前に立つ。


やっぱりいた。


“あたし”が、笑っていた。


鏡の中の私は、髪が少し長い。私の髪は肩までだが、鏡の中の“あたし”は、胸まで届いていた。


そして、その“あたし”が、口を開いた。


【あなたを、閉じ込めたのは“わたし”】


私は目を見開いた。


何を言ってるの?


“あたし”が──私を閉じ込めた?


記憶が、よみがえる。


あの夏の日。幼かった私が、鏡の前で遊んでいたときのこと。じゃんけんごっこ、まねっこあそび。


でも、あるときから、“あたし”が、私の真似をしなくなった。


先に動くようになった。笑わないのに笑った。泣かないのに泣いた。


──あのとき。


“あたし”が、私と入れ替わった。


気がつくと、私は──鏡の中から、出られなくなっていた。


いや、今まで“出ていた”と思っていた私は──。


「……ちがう。違う……!」


けれど、“あたし”は、静かに手を伸ばす。鏡をすべて覆い尽くすように、ぴたりとこちらに掌を押しつけてくる。


その掌が、鏡を通り越して、こちらに──。


私の指が冷たくなった。


鏡に触れたわけじゃない。なのに、感触がある。


引っ張られる。


私は、鏡の中に──。


目を覚ましたとき、天井は白かった。


病室の天井だった。


「由梨!」


母の声が聞こえた。


「やっと目を覚ましたのね……倒れていたのよ。あの鏡の前で……」


私はぼんやりと母の顔を見つめた。


その瞬間、母の背後に立つ看護師が、ぎょっとした顔で私を見ていた。


「どうかしたんですか?」と母が問う。


看護師は震える声で、こう言った。


「いえ……ただ、鏡の中の“あたし”が、笑ってたように見えて」


私はそっと、手のひらを見つめた。


その指先には──鏡の向こうで掴んだ、“あたし”の体温が、まだ残っていた。

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