第2話 母の教えと軽トラと

ユイが「ただいま」と答える間もなく、ミサキはユイのスーツケースには目もくれず、台所へ向かいます。「あんた、顔色悪いわ。ちょっと痩せすぎじゃない?体が欲しがってるもんを、ちゃんと食べさせんとアカン」竹を割ったような、迷いのない口調でした。


ミサキは冷蔵庫の扉を勢いよく開け、中身を指さしながらユイに問いかけます。「梅雨明けはな、体の中に湿気(しっけ)が溜まって、むくんだり、頭が重うなったりするもんや。これ見ぃ!」ミサキが指さすのは、みずみずしいきゅうりと、ぷっくりとしたとうもろこし。「このキュウリは体の熱を冷まして、余分な水分を外に出してくれる。利水作用いうやつや。このとうもろこしは、特にひげの部分が利尿作用にめちゃくちゃ効くんやで。あと、この白い袋に入ってるん、わかるか?」ミサキが取り出したのは、乾燥した白い粒が入った袋。「ハトムギや。白米にちょっと混ぜて炊くと、消化器系を強くして、体の『水はけ』を良くしてくれる。あんた、肌荒れしとるやろ?肌にもええんやで」ユイは、母の言葉がまるで呪文のように聞こえました。都会で栄養ドリンクやサプリメントに頼っていた自分とは、全く違う、大地に根ざした知恵がそこにはありました。


母の教えと軽トラック

ミサキはユイの返事を待たずに、壁に掛かっていた軽トラックのキーを手に取ると、ユイに差し出します。「さ、畑行こか。あんたの体、土に触れさせたら、すぐに元気になるわ」ユイは、母の勢いに圧倒されながらも、言われるがままにキーを受け取り、母に続くように家の外へ出ます。


家の前に停まっていたのは、都会ではまず見かけない、落ち着いたモスグリーンの軽トラックでした。年季は入っているものの、丁寧に手入れされているのがわかります。助手席に座ったミサキは、ユイにキーを渡すと、当たり前のように運転席に座るよう促します。


「ほな、行こか」ミサキの言葉に、ユイは思わず固まります。「……お母さん、これ、ミッションだよね?」そう尋ねながら、ユイはふと数年前の光景を思い出していました。新しい軽トラックを買うという話が出た時、ミサキはカタログを隅々まで見て、このモスグリーンの色を気に入ったのです。「ちょっと人とは違う色がいいんよ」と、健康的で若々しいミサキらしいセレクトでした。当時、まだ大学生だったユイも一緒に販売店へ行き、「これ、可愛いね!」と二人で盛り上がったのを覚えています。田舎に帰って母の手伝いをする時のために、と都会の教習所でマニュアル免許を選んだのも、その頃でした。結局、都会でミッション車に乗る機会は一度もなかったけれど、まさかこんな形で再会するとは。


「当たり前やん。畑道でオートマなんて使えへん。さ、乗った乗った!」


観念して運転席に座ると、独特の土とガソリンの匂いがしました。恐る恐るクラッチを踏み込み、ギアをローに入れます。半クラッチの感覚を忘れて久しいユイは、エンジンをブオン!と唸らせたかと思うと、ガクン!と激しい振動とともに、軽トラックはあっけなくエンストします。


「はい、やり直し」ミサキはため息一つもつかず、運転席の窓から顔を出し、ニヤリと笑いました。「あんた、免許取ってから全然乗ってへんやろ?」


二度目。三度目。ガクン、ガクン、と首が揺れるたびに、ユイの額には脂汗がにじんできます。「あんた、半クラッチが優しすぎるわ!もっと大胆に、思い切りよく繋ぎな!」ミサキの言葉は、まるでユイの人生を言い当てているようでした。都会でのユイは、仕事も人間関係も、常に「できない」と心のどこかで諦めていました。その「できない」という思いが、本当に「できない未来」を目の前に引き寄せていたのです。踏み込む勇気もなく、かといって離すこともできず、ただ立ち尽くしていました。


何度目かのエンストの後、ミサキは突然、ユイの肩にぽんと手を置きます。「ええか、ユイ。この軽トラと一緒や。怖いと思ったら、そこで止まる。でも、できると思って思い切ってやってみたら、ちゃんと前に進むんや。何も怖がることはない」ミサキは、どこか遠くを見つめるようにそう言うと、「さ、もう一回」と優しく促します。


ユイは、母の言葉を噛みしめながら、もう一度クラッチを踏み込みます。このモスグリーンの軽トラックは、ただの移動手段じゃない。母との思い出が詰まった、大切なものなのだ。今度は「できない」ではなく、「できる」と心で唱えます。中途半端な気持ちを捨て、ただ目の前の軽トラックと向き合います。半クラッチの感覚を、足の裏と耳で覚えるように、慎重に、しかし大胆にクラッチを繋ぎます。


ブオン……ガクン!……ブ、ブ、ブ……ブルルルル……


軽トラックはゆっくりと、しかし力強く、前へと動き出しました。「おお、やったやんけ!……次、右やで!」ミサキの楽しそうな声が、ユイの心を少しだけ軽くしました。モスグリーンの車体が、夏の陽光に照らされて、どこか誇らしげに見えました。

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