花天月地【第34話 花と屍】

七海ポルカ

第1話


 シャラシャラと、髪や身を飾る銀細工の装飾品が鳴り続ける。

 

 司馬懿しばいが何かを言った。


 内容は分からないが陸議りくぎはとにかく、頷いていた。



◇    ◇    ◇



 司馬孚しばふが温かいお茶を淹れてくれた。


「ありがとう」


 彼は四阿しあにいる陸議の肩に、藍色の衣を掛けた。


「……叔達しゅくたつ殿の淹れるお茶は、やはり安心します。人柄が出るのでしょうか」


 久しぶりに彼の茶を飲み、陸議がそう言ってくれたので司馬孚は微笑む。


「私のお茶をそんな風に言って下さるのは伯言はくげんさまだけです。

 ……けれど、ここも大分冷えるようになってきました。

 これからの季節はここでゆっくりすることも出来なくなりますね」


 そう言われたが、陸議は静かに微笑んだまま、四阿に腰掛けている。

 司馬孚もゆっくり、そこに座った。


 冷たい風が吹くようになってきた。

 それでも陸議はこの場所が好きらしく、冷えるようになった朝、夜でもよくこの四阿で腰掛けているのを見る。


「ここがお好きですか」

「はい。空が遠くまで見えるから」

「空がお好きですか」

 重ねて尋ねてくる司馬孚に優しく笑う。

最初の頃は、司馬懿しばいが言っていたその意味が分からなかったが、確かに最近、司馬孚には特別子供のように純真な所がまだ残っているのだと思うようになった。

 他の司馬家の兄弟はこういうところが明らかにないのだという。

 

「そうですね。

 空を見上げていると、例え地上のどこにいても、

 自分がいる場所が間違ってない、そう思い込めるから。

 ……心許ない時は見上げると安心します」


 ふと、よく空を見上げている陸議を見つけることがある。


 あれは心許ない時だったのか、と知った。

 なにか一人で思索に耽りたい時なのかと思っていた。

 儚げで、寂しそうに見えることがあったが、それは自分の勘違いでは無かったらしい。

 思索を邪魔してはいけないと思っていたがそれならば、静かに側で共に見上げるくらいはしてもいいのだろうか?


 司馬懿がやって来る。


「おはようございます、兄上」


「もう寒い。いちいちこんな場所に出てくるな陸議」

叔達しゅくたつ殿のお茶が冷める頃には戻ります」

 司馬懿が注意したので小さく陸議は笑んで、温かい椀を両手の中で揺らしてみせた。


「今、丁度私たちもその話を」


 兄にも茶を淹れながら、司馬孚が笑った。


「言い忘れていたことがあった。陸議。お前を狙った三人の賊だが」

 

「ああ……すみません、すっかり忘れてしまっていた」

「まあそうであろうな。別に暗殺を生業にした者どもではなかった。いわゆる街のごろつきのような程度で、何故そのような者が城に入れたかという部分で雇い主があっさり判明した。とはいえ、ああいう馬鹿の相手もするだけ鬱陶しいというもの。

 以後無きようにはするため、気にするな」


「はい……ですがこの許都で誰が私を狙うのですか? そんなことをして得をする方がいると思わないのですが」


「それが一人いる。張春華ちょうしゅんかとは女の姿の時に会ったことがあるのだったな」


「張春華殿……はい……貴方の幼なじみの方であると……まさか、あの女性が?」

「ああ」

「……一体なぜ?」

 当然の疑問だろう。

 これには、司馬孚しばふが口を開く。

「私も昨日、兄上に説明を受けたのですが……春華殿は幼い頃からずっと兄上を知っておられ、慕っておられます。慕っておられるというより、なんといいますか……女性ながら非常に思い込みの強い方で、必ず自分は兄上の正妻になる、と決めておられるような方なのです。とても聡明な女性ですが、感情の激しい所がまだ残っている」


「私はあの女は小賢しくて好かん。お前を嫁になどしないと百万回くらい言ってきた」


「かなり強い口調でそんな風に兄上がおっしゃられているのを、私も何度か見ています。

 けれどあの方は全くそんなのは堪えないのです」


「先日またその話になった時に、私はいずれ【陸佳珠りくかじゅ】を正妻にするつもりだ、と話した」

 

 陸議が驚いた表情をする。

「実際、お前が正妻役を演じるのは私にとっても色々都合がいいのだ。

 女を家に入れるとどうしても煩わしいことは増える。

 家のしがらみ、男女の柵、女同士でも諍いをするし、子が生まれれば序列を巡り母親同士が争う。その点、生まれた子供を正妻の佳珠の子供として等しく扱えば、母親の口を封じられる。お前は特定の子供に入れ込むようなこともしまい。養育にも都合のいいことばかりだ」


 そこまで聞いて、陸議はとうとう苦笑してしまった。


「……随分乱暴な考え方をなさるんですね」

「理に適えばそういうこともあろう」

「それでお怒りになったのですか?」

「あの女は正妻であることに非常に拘っている。豪族の男に側室がいることなど、大したことは無いといつも言っているが、自分が側室になることだけは我慢がならないようなのだ。

 勘違いするなよ。私はあいつにお前を側室にするとも言ってないからな。

 私はあいつを嫁にはしない。

 正妻になりたかったらお前を正妻にする程度の男の許に嫁げ、と言ったのだ」


 司馬孚には、女性に対して言う言葉ではないと、その言葉の冷酷さが分かるのだろう、彼は少し「兄上……」と片手で顔を覆うような仕草を見せた。


「可哀想ですよ」


 陸議がそんな風に静かな声で言った。

 言葉以外は咎める気配のない、穏やかな声だ。


「はっきり言っただけではないか。いいか、あのたわけはな、そんなことでいちいち傷つくような繊細な女ではないのだ」

「ですが、傷ついたから私を傷つけたいと望んだのでは?」

「そうではない。――お前を見て、自分より女として優れていると感じたから牙を剥いたのだ」

「しかし……私は本当の女ではありません」

「あの者はそんなことは知らん」

「……今まで仲達ちゅうたつの兄上は、世話役の女性を側に置いたことがありません。

 侍女も女官もいましたが、特定の方をずっと使うということは無かったのです。

 それで、非常に兄上にとって伯言はくげんさま……【佳珠かじゅ】殿の存在が大きいのだと感じ取ったのでしょう。それで焦りを抱かれた」


「……彼女が聡明な方なら私が甄宓しんふつ殿の要請で、前線の様子を伝えるために女の格好をして【月天宮げってんきゅう】に出入りしていると話しても良いのでは?」


「それはならん」


 これには司馬懿しばいがはっきりと言った。

「あやつはでも有数な武器商の娘なのだ。お前には、これ以上言うまでも無いな?」

 武器商は独自の情報網を持っている。

 武器は軍部と結びつくのでどこからか孫呉で、陸伯言りくはくげんという若い将官が姿を消したようだという情報を聞くかもしれないのだ。


「此度のことでも分かるだろうが、あれは完全には信用ならん女だ。

 どこか男を見下し、自分が賢ければ男すら全て自分の思い通りに出来ると思い込んでる節がある。お前の素性を探らせる気はない。奴には一切お前のことは話すな」


「……わかりました」


 司馬懿は頷く。


涼州りょうしゅう遠征から戻ったら私が話して、二度と下らん真似をしないよう釘は刺しておく。

 いずれにせよ今回のことで、涼州遠征で私の不在の間、お前を危険のない場所に移したと思わせる。探るだろうが、探ったところで何も出てこない。

 お前が天涯孤独である強みだな。

 あの女狐はどこへでも潜り込んで情報を探り出して来るが、お前の影は決して掴めん。

 まだ出陣まで数日あるが、お前を図々しく訪ねていくかもしれんが何も知らぬ存ぜぬで通せ。聞かれても全て私に任せてあるとな。

 ああいう、何でも自分の思い通りに行くと驕ってる女にはこちらから構わぬ方が上策だ」


「分かりました」


 司馬孚は二人のやりとりを見ながら、不思議な気持ちになっていた。


 最初の頃は、儚げな陸議りくぎは何も言わずに司馬懿に寄り添っているように思えたが、最近思うことは、別に兄がそれを望んでいるわけではないのだということだ。

 司馬懿はよく聞いていると、陸議に助言を求めたり意見を求めたりしているし、それに対して陸議は臆すること無く自分の言葉で意見や言葉を返していると思う。

 これはごく最近感じるようになってきたことだ。


(確かにこれで本当に【陸佳珠りくかじゅ】という女性がいたら、兄上に最もふさわしい方かもしれないな……)


 今回のことも普通の女性だったら当然だが、私を襲わせたのは一体どこの誰だ、許さん、話をさせろと大騒動になったはずだ。

 司馬孚しばふは陸議の剣の技量も知っている。

 彼なら暗殺者でもない刺客など、よほど大勢ではなければ問題にはしない。

 だから司馬懿もこんなことがあっても護衛を増やそうとか早急に張春華ちょうしゅんかをなんとかするとか、そういう手を打たないでいられる。


「指先が冷たくなってきたから戻るぞ」


 司馬懿が嫌そうに言ったが、陸議は小さく笑んで「もう少しだけここにいます」と返した。

 ふん、勝手にしろと司馬懿が立ち上がったが、やはりそういうやりとりをしていても兄の感情が波立つような気配が、一切しないのだ。


 その点、司馬懿は他人に苛つかされる理由が男女の性別に元々関わっていないので、例え陸議が男でもこのやりとりには感心する。


 彼はまだ若いのに、非常に我の強い所を持つ司馬懿と、これだけ穏やかに終始接することが出来るというのは驚くべきことだった。



「そういえば……」



 立ち上がり、去ろうとしていた司馬懿が思い出したように振り返る。



徐庶じょしょが居合わせたと言っていたな。

 陸議は奴の補佐に配置したからともかくとして、何故あいつが【陸佳珠】の側に居合わせた?」


「ああ……それは……」


 陸議は説明しようとして、瑠璃るりを思い出した。

 とにかく賈詡かく郭嘉かくかと話してくれるまでは、総大将となる司馬懿にこの件は話さない方がいいと考える。


 基本的に、陸佳珠の姿で城を動き回るのが目的ではないのだ。

 甄宓しんふつの許を男の姿で幾度も訪ねると、噂になりかねないということで女に化けているだけで、ごく限られた範囲でしか佳珠の姿はするつもりはない。

 しかし昨日は例外的なことだった。

 どうしても瑠璃を賈詡と会わせなければならなかったし、

 そこに徐庶が居合わせたのも全く予期しない偶然だ。


「なんだ」


 何かを言おうとして、陸議が複雑な表情をした。


「あの……決して貴方に秘めているというわけではないのですが、そうなったことには色々、曹娟殿とのところから複雑な事情があって……あとで話すので今は長くなるので話さなくてもいいですか? 別に大したことではないのですが、長くなる」


 司馬懿しばいは片眉を吊り上げる。


「……まあいい。好きにしろ」


 去って行く兄に司馬孚は一礼した。


「伯言さまには……本当に驚きます」


 陸議は小首を傾げる。


「私は仲達ちゅうたつの兄上を尊敬してはいますが、あの方は秀でてるが故に少し変わった感性をしておられます。正妻の件なども、聞いていて驚いたでしょう? でも確かに兄は幼い頃から特定の誰かと親密になるということを、極端に嫌う人でした。

 親密になればなるほど人間関係が広がって行き、広がれば自ずと、しがらみが増えるからなのです。

 普通人はそれを良いことだと思うでしょう。楽しいことだったり嬉しいことだとも思う。

 私もそうです。友人がたくさんいるのは楽しいと単純に考えてしまう。

 しかし同い年の友人たちとつるんで、愚かなことをしたりもするものです。

 兄上はそういうことすら、ご自分に禁じておられる。

 ご自身に厳しいから、他者に厳しいのも遠慮が無いのだと思います。

 でも、陸議さまと一緒におられる時はいつも穏やかにしておられる」


 司馬孚しばふがそんな風に言うから昨夜の、穏やかとは決して表現しにくいねやが過ってしまった。

 陸議はまだ残っている茶碗の温かさを探るように、持つ手に力を込めた。


「確かに陸議さまも佳珠かじゅ殿も、男女の誰であろうと、これほど兄上と自然体で付き合える方を私は知りません。貴方は本当に、兄上の補佐に誰よりも相応しい。

 

 ……どうかずっと、兄の側にいてあげて下さい。


 あの方は曹丕殿下を支えることに人生の全てを懸けようとしておられる。

 それだけが真実なのです。

 ご自分の命や、後継や、家を栄えさせていくことなど、どうでもいいほどに。

 名門の出ですが、そういうことに無頓着な方なのです。


 だからこそ貴方のような、兄の全てをありのままに受け入れて下さる方があの方の側には必要なのです。

 伯言さま、

 ……どうかよろしくお願いいたします。

 それを叶えて下さるなら私も生涯、貴方をそういう方だと思い、弟のようにお仕えするつもりですので」


 司馬孚は兄弟の中では最も温和で、人と争うのが苦手で、内向的だったという。

 それでも人として純真な所が残っている理由はなにか、と陸議は司馬懿に聞いたことがある。


『司馬家に拘らなかったからだろう』


 彼は答えた。


 司馬孚しばふには優秀な兄弟がたくさんいたから、両親も司馬孚には全く目を掛けなかったのだという。お前はなんだと言われるというより、才能を見せなければ無いもののように扱われるらしい。

 そういう司馬家には遊び相手がいなかったので、司馬孚は自然と外に出て、近所の子供たちと遊び、子供らしい遊びをし、仲良く育っていった友人たちと学びながら司馬家の子供たちとは違うやり方で育っていった。

 

 家に居場所がなくても別にそこに拘らず、家の外に大勢の分かり合える友人がいること。


 司馬孚が純真さを失わなかったのは司馬家に拘らず、司馬家からある意味早くに出ていたからだと、さすがに冷静な分析を兄がしていたが、

 陸議には少し、分かる表現だった。


 陸議も陸家に幼い頃から居場所が無かった。


 冷たい視線ばかり向ける家から出て、街で声を上げて笑って駆け回っている子供たちと一緒に遊びたいと思ったこともある。

 でも逃れられなかったから陸家にいるしかないんだと思い込み、そのことで建業けんぎょうに来た頃は誰にも心を打ち明けられないような人間になってしまっていった。

 

 戦場に出るようになって、

 あそこは、

 人間の本心での付き合いしか出来ないところだから、

 本音で物を言い合って、付き合ううちに、

 心から信頼出来る人たちが出来た。


 そうなったら自分も確かに陸家に戻った時、冷たい反応をされても心は全く痛まなくなった。

 

(例え陸家に居場所がなくても、建業には私を理解して、受け入れてくれる人たちがいたから)


 司馬孚は三国方々に色んな事情で散った学友たちがいるようだ。

 色んなところからしょっちゅう文が来て、色んな場所の色んな話を知っている。

 軍事や、政治ではない。

 街の流行や、人々の暮らしの様子だ。

 笑いながら楽しそうに文を読み、内容を陸議にも教えてくれた。


 彼の美点はそういうところなのだ。


 自分がかつて出来なかったことを、司馬孚しばふは労も無くやってのける。

 自分よりも勝る兄弟を徒に妬まず、優秀な兄や弟を心から尊敬しながらも、自分の愛するべき世界もちゃんと持っている青年。


 ……司馬孚の優しさや穏やかさは、陸議はひどく、懐かしいのだ。


 そして大切にしてやらなければと感じる。



「……まだ朝の修練が始まるまでには時間がありますから。

 少し池のほとりを歩きましょうか」



 立ち上がって司馬孚にそう言うと、彼は嬉しそうに「はい」と頷いた。



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