第2話 春の流れ

春の陽射しは柔らかく、町の雪はゆっくりと溶け始めていた。

川の水は冷たく澄み渡り、いつもならその清らかさに心が和むはずだった。


しかし、今年の春はどこか違っていた。


町の人々の様子が、少しずつ変わり始めているのだ。


朝、市場に足を運ぶと、顔馴染みの店主の表情が曇っていた。


「どうしたんだ?」


声をかけると、彼は目を伏せて答えた。


「最近、よく物忘れをするんだ……頭がボーッとしてな」


その言葉に驚きながらも、俺は周囲を見渡した。


他の住人たちも同じように、何かを忘れたような、

あるいは感情が希薄になったような表情を浮かべていた。


帰り道、川のほとりに立つと、

水面に映る自分の顔がどこか歪んで見えた。


目の奥に違和感が走り、思わず背を向けた。


町の古老から聞いた話が頭をよぎる。


「水は流れながら、過去も連れてくる。

忘れられた記憶や感情を飲み込み、時には人の心に影を落とす」


その言葉の意味を、俺は身をもって感じ始めていた。


春の水の流れは、単なる自然の営みではなかった。


それは、この町に深く根付いた呪いの始まりだったのだ――。


翌日、俺は町役場の資料室に足を運んだ。

兄が失踪した当時の記録に何か手がかりがあるかもしれないと思ったのだ。


担当の職員は中年の男性だったが、顔色が悪く、どこか虚ろな目をしていた。


「記録の閲覧をお願いしたいんです。○○年の春の――」


俺がそう言いかけたとき、彼は急に眉をひそめ、机の上にあった書類を見つめながら呟いた。


「春、春か……今年の春は、やけに音が響くな」


「え?」


「いや……なんでもないよ。少しお待ちください」


彼は書庫の奥へと姿を消した。


その背中を見送る間、部屋の隅で水が滴るような音がした。

天井を見上げるが、どこにも水漏れなどはない。


音は、俺の耳の奥から響いているようにも思えた。


やがて、男が一冊のファイルを持って戻ってきた。


「これがその年の分です」


礼を言って受け取る。


資料には、兄の名前と“行方不明”の文字がはっきりと記されていた。

だが、それ以上の詳細は何も書かれていなかった。目撃情報も、通報記録も空白だ。


それどころか、兄の名前の欄だけ、どこか文字がにじんで読みにくくなっている。

まるで水に濡れた紙のように。


不自然だ。誰かが意図的に――?


俺はファイルを閉じて深く息を吐いた。


そのとき、窓の外に小さな人影が見えた。


少女だった。


ひざ丈のワンピース姿で、裸足のまま、じっとこちらを見ている。

表情がない。まるで、そこに“いる”という事実だけを押しつけてくるような存在感だった。


俺が身を乗り出すと、少女は音もなく踵を返して去っていった。


あれは幻覚だったのか?

それとも……


水が記憶を奪う。

水が誰かを変える。


俺の中で、ひとつの考えが芽生えた。

兄は“いなくなった”のではない。

この町が、兄を“変えてしまった”のではないか――


春の水が、すべての始まりだった。


その日の夕方、俺は町の外れにある古い木造の一軒家を訪ねた。

兄の高校時代の親友だった男――佐竹の家だ。


佐竹は、兄の失踪後、町に留まり続けている数少ない同世代の一人だった。

玄関のチャイムを押すと、しばらくして足音が近づき、戸がゆっくりと開かれた。


「……久しぶりだな」


現れた佐竹は、かつての快活な印象とは違い、痩せて髭も剃っていない。

目の下には濃い隈ができ、どこか怯えたような目をしていた。


「よく来たな。……話したいことがある」


促されて中に入り、散らかった居間に通された。

テーブルの上には、飲みかけのコーヒーと、数枚の古びた写真が置かれていた。


写真の中には、笑顔の兄と佐竹、それにもう一人見知らぬ女性が写っていた。


「この人は?」と俺が尋ねると、佐竹はかすかに笑った。


「お前の兄さんが、あの春に……よく一緒にいた子だよ。早苗って名前だった」


「記憶にないな……兄からも聞いたことがない」


「そうだろうな。あの春のあと、彼女も町から消えたんだ」


その言葉に、胸の奥がひどくざわついた。


「彼女も“いなくなった”ってことか?」


佐竹はコーヒーに手を伸ばすも、カップを取る前に手を止めた。

指先が、微かに震えていた。


「違う。“消えた”んじゃない。“残った”んだ」


「……どういう意味だ?」


彼は少し黙り込み、天井を見上げるようにして続けた。


「ある日、俺たちは川の上流にある古い堰せきに遊びに行った。

毎年、春になると氾濫の危険があるから、水門を開ける儀式があるって話でな。

……でも、その日は、なぜか誰も来なかった」


「それが、兄と彼女の最後の目撃か?」


佐竹はゆっくりと頷いた。


「彼女は、笑っていた。『水の底には、記憶が沈んでるんだよ』って」


言葉の意味が、俺にはわからなかった。


だがそのとき、外からふいに風が吹き込み、窓辺のカーテンがふわりと揺れた。


水の匂いがした。

遠くで、ポタ……ポタ……と、水滴が床に落ちる音が聞こえた。


佐竹はその音に気づいたのか、怯えたように目を伏せた。


「なあ……今でも、たまに見るんだ。あの水の中に、彼女の顔が浮かんでるのを」


俺は何も言えなかった。

言葉を飲み込むしかなかった。


春の水が、何かを呼んでいる。

思い出せない記憶が、確かにそこに沈んでいる。


その夜、眠りにつこうとした瞬間、耳元で水音がした。

そして……あの少女の声がした。


「……もう、忘れないで」


俺は目を開いた。

しかし、部屋には誰もいなかった。


窓の外では、春の川が静かに流れていた。

まるで、何事もなかったかのように。


三日後、町で最初の異変が起きた。


町内放送がけたたましく鳴り響いたのは、まだ陽が高い午後だった。

「町の北側、川沿いで住民の一人が倒れているのが発見されました」

というアナウンスが、どこか濁った声で繰り返された。


俺が現場に駆けつけたとき、もう警察と救急隊が集まっていた。

倒れていたのは、あの図書館で出会った司書の女性だった。


彼女は川の土手に膝を抱えて座っており、

ぼんやりと川面を見つめながら、小さく唇を動かしていた。


「見えるの……川の底に、手が、浮かんで……る」


そう呟いた彼女の目は焦点が合っておらず、

まるで何かに取り憑かれたかのようだった。


救急隊に連れられていくその背中を、俺はただ黙って見送った。


その夜、再び夢を見た。

今度の夢は、異様にリアルだった。


水の中に沈む街並み。

街灯が水中でぼんやりと揺れ、電柱が空に向かって垂直に沈んでいく。


そして、川底で眠る兄がこちらを見ている。


口が動いた。

声は届かない。


だが、唇の動きははっきり読めた。


「おまえも、来るんだ」


夢から覚めると、顔と手が濡れていた。

汗ではなかった。確かに“水”だった。


部屋の床には水滴が落ちていた。


窓は閉まっている。

水道も止まっている。


どこから来たのか、分からない。


俺は気づいた。

この町にある“水”は、もはや自然のものではない。

これは、“意志”を持っている。


春の川が運んでくるのは、ただの雪解け水なんかじゃない。

それは、人の記憶と感情を飲み込み、形を変えて、

やがてこちらへと――呼びかけてくる。


春の流れは、もう止まらない。

そしてその水は、夏になれば、気体となってこの町を包み込むのだ。


終わりの始まりが、静かに始まっていた。

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