本の配達人
真久部 脩
第1話:夢見る光の森
古本屋「
店主の
本好きの大家さんのご厚意で、大家さんが昔営んでいた古本屋をそのまま引き継ぐ形で営業しているが、もう何ヶ月も、ろくに売上が立っていない。
自宅も2階に住まわせてもらっているので、なんとかギリギリ生活できているような有様だ。
棚に並ぶ古書たちは、賢一と同じように、静かに、そしてどこか寂しげに息をひそめているようだった。
「パパ、今日のお手伝いはどれにする?」
賢一の娘、いちかは学校から帰ってくるなり、2階にカバンを置くとすぐに店のお手伝いへと降りてきた。
小学三年生になったばかりのいちかは、大きな瞳を輝かせ、賢一の顔を覗き込む。
賢一はぎこちなく笑いながら答える。
「今日はちょっと、変わったお手伝いがあるぞ」
数日前、賢一のもとに一通の封書が届いた。
差出人は匿名だが、プリンタで印刷された手紙にはこんなことが書かれてあった。
「指定された住所に本を配達してください。今回は初回なのでこちらから本を指定します。以後はご自身で配達先に合う本を選んでください」
妙な依頼だが、ない袖は振れない。
通帳を確認すると、すでに報酬は振り込まれている。
「お金はもう振り込まれてるようだし、配達だけならまあ良いか。しかし、よりによってこの本を指定してくるとは…」
賢一は手紙に書かれた本を探すために、店の奥、埃をかぶった段ボールの山に手を伸ばした。
そこは、賢一がかつて作家を目指していた頃の資料や、亡き妻・
箱の中から現れたのは、見覚えのある絵本。
賢一と夢乃が、二人で初めて作った、けれど出版社が倒産して残りを引き取った絵本だった。
『夢見る光の森』。
賢一が文を書き、夢乃が絵を描いた。
ページをめくると、鮮やかな色彩で描かれた森の生き物たちが、紙の上で生き生きと動き出すようだった。
夢乃の絵は、いつも見る者の心を温かく包み込み、賢一の言葉に命を吹き込んでくれた。
「これ、お母さんの絵だ!」
いちかが目を輝かせ、絵本を手に取る。
賢一は思わず息をのんだ。
夢乃の絵は、いちかの瞳の中で、今も確かに輝いていた。
指定された住所は、古本屋から少し離れた住宅街の一角だった。
小さな公園のそばに建つ、新しい一軒家。
インターホンを押すと、元気な男の子の声がした。
「はーい!」
ドアが開くと、5歳くらいの兄弟が顔を出す。
賢一は絵本を差し出した。
「本の配達にまいりました」
兄弟は絵本を見ると、わっと声を上げて喜んだ。
「わあ、光の森だ!」
「すごい、キノコが光ってる!」
絵本のページには、本当に光っているかのように見えるキノコの絵が描かれている。
夢乃の絵の得意な表現の一つだった。
兄弟は夢中になって絵本をめくり、賢一はそれをただ見つめていた。
物語の展開と共に、ページいっぱいに広がる鮮やかな森の絵。
夢乃が描いた光の粒子が、兄弟の瞳の中でキラキラと輝いている。
賢一の胸に、じんわりと温かいものが広がった。
売れない作家として、古本屋の経営者として、自信を失いかけていた賢一の心に、忘れかけていた「書くこと」「伝えること」の喜びが、小さな光のように灯り始める。
この絵本は、確かに夢乃の絵と自分の言葉が、誰かの心を照らしている。
それは、自分たちが諦めかけていた夢の続きなのではないか。
古本屋に戻ると、
春奈は夢乃の学生時代からの親友で、いちかの面倒を見てくれる、賢一にとってはありがたい存在だった。
「お帰り、賢一。本の配達、始めたんだって?どうだった?」
春奈が優しく尋ねる。
「ああ、喜んでくれたよ」
賢一は、いつもより少しだけ穏やかな声で答えた。
「そう。夢乃もきっと、喜んでるよ」
春奈は賢一の言葉に頷き、棚の上の『夢見る光の森』をそっと撫でた。
その夜、いちかが眠りについた後、賢一は帳場で古いノートを開いた。
それは、かつて創作に行き詰まった時に、夢乃が賢一のために描いたスケッチや、言葉の断片が記されたものだった。
ページをめくるたびに、夢乃の筆致が賢一の脳裏に蘇る。
そして、そのノートの最初のページに、賢一は新たな言葉を書き始めた。
『目に見えないもの、言葉にならないもの。筆の先に宿る、儚いけれど確かな力』
それは、新たな小説の、最初の言葉となるかもしれない。
賢一の長い配達の旅は、今、始まったばかりだ。
(第1話 終)
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