第3話 帰り来た、兄・2(ギャムレットの話)

「ギャムレット兄さん、話って何?」

 帰ってきて早々、盛大に騙されたにもかかわらず、十年ぶりの再会を果たした大好きな兄に呼ばれたという、ただそれだけがうれしくて、すでに全てのことをファレマ川の清き流れに洗っていたヴァチェスラフは、満面の笑みを浮かべながら、兄の声がした台所へと顔を出した。

 小さなランタンの灯りの元でも、それがすぐにギャムレットとわかる金色をした鷹の目に向かって、いまにも飛びつきそうな子犬となって駆け寄ろうとした。しかしすぐに、その傍に名主のアドレーの姿があるのを見つけて、慌てて取り繕った。

「あ、アドレーさん! あ、式の方は、つつがなく! ゾラ姉さんも上機嫌で、それはそれは幸せそうに……しあわせ……」

 ひとしきり慌てたあと、花嫁を放っておいて、こんなところにいるのは、ギャムレットの方が先だということに気がついたヴァチェスラフは、「あ、あれ?」と首をかしげてから、その兄の方を見る。

「まぁいいから、座れ。我が弟にして、この密談の主役よ」

「しゅ、主役……?」

「何が密談だ、ギャムレット。お前、まさか悪だくみをしているんじゃないだろうな?」エイナルが咎めるように言った。

「マルバラやカローネスならともかく、山と森と畑しかねぇこの村で、なんの悪だくみができるんだよ。それに、言ったろうが。俺は真面目に生きるんだ。もう、それしか能がねぇ。ほら、いいから座れ、ヴァチェ」

 椅子を引いたギャムレットの横に、強制的に座らせられる。たよりないランタンの灯りのせいで、逆に闇の深くなっていくかのような夜の台所には、父と、親戚となった名主と、引退冒険者の兄――つまりは、『家族』の男たちがテーブルに着いていた。

 そこに、食卓を囲んで仲良く酒を飲み交わすだんらんの雰囲気はなく、ヴァチェスラフに対して敷かれた包囲網のごとき圧迫感だけがあった。

 何のために包囲されるのか皆目わからず、これから、つるし上げにでもされるような剣呑な空気に冷や汗を垂らしたヴァチェスラフが、弱々しい目線でもって兄の猛禽の瞳を見た。

 弟からの視線を、猛禽というよりは、堂々たる雄牛のごとき態度でもって受け止めたギャムレットは、フッと笑って角杯を呷った。

 そして、空になった角杯を一度、ヴァチェスラフに握らせてから「そう緊張するな」といって、杯台に置かせた。それまでと同様、すぐさま葡萄酒が満ちていく。

 この魔法の角杯がギャムレットから贈られ、ヴァチェスラフたちの元に届いて一年が経とうとしていたが、何度見ても不思議な光景だった。迷宮で冒険をすると、こういった不思議なものが手に入るという。もっともこれは、ギャムレット兄が駆除したという怪物の角を素材にして、職人に特注した魔道具らしいので、迷宮で手に入れたという言い方は違うのかもしれない。だが、こういっためずらしいものとの出会いがあるのが、まさに冒険者稼業の素晴らしいことなのだと、多くの人は言う。たとえその「素晴らしい」という言葉の中身が、それによって得られる金貨銀貨の枚数を指しているのだとしても、ヴァチェスラフには頷ける言い分だった。この世の中に、お金に代えられないものというのは、命以外に早々ない。どういった形であれ、お金を稼げることは、凄いことなのだ。それが冒険者という職業であるなら、なおさら凄いと思った。

 ギャムレット兄は、金に代えられない命を懸けて、そのお金を稼いで仕送りしてくれたのだ。そして、こういうものまで贈ってくれた。

 葡萄酒がなみなみ溢れた角杯を取り上げ、ギャムレットがそれを一気に飲み干した。自身が持ってきた上等の葡萄酒の酒精の強さを知らないわけでもないだろうにとヴァチェスラフは心配したが、まるで水でも飲んだと言わんばかりに顔色一つ変えないギャムレットが、威勢の良い手つきで、再度、角杯を杯台に置いた。

 どれだけ飲むのか。テーブルを囲んだヴァチェスラフとエイナル、そしてアドレーは、呆れとともにギャムレットを見る。

 話とは一体、なんなのであろうか。その言葉を待つ三者が、薄暗い台所でそれぞれギャムレットの言葉を待った。

 しかし、久方ぶりに帰ってきた兄であり、長男であり、娘の婿である男は、体格に比べると随分小さい椅子にふんぞり返っては謎めいた笑みを浮かべるばかりで、なにかを話始める気配は一向になかった。

 訝しむ三人の傍らに、染み出すような闇の静けさだけが忍び寄って、ランタンの灯りが緊張に揺れた。

 名主のアドレーがエイナルとヴァチェスラフの顔を覗き込み、エイナルは訝しみながらも、まるでそらした方が負けだと言わんばかりに、ギャムレットから視線を外さなかった。

「あれ……?」気がついたのは、ヴァチェスラフだった。

 呼び出されてはみたものの、テーブルを挟んで対峙する二人の初老の男たちと兄にの横で、そこに生まれた緊張感に居たたまれなくなったヴァチェスラフが、テーブルの角杯に視線を落とした。見事なまでの銀細工を施された角杯は、尽きぬ杯の魔導具でなくとも、それだけで高級な美術品として高値が付くだろう。村の中で純朴に生きてきた人間にも、それくらいはわかる。しかもそれが、酒飲みには垂涎の機能を持った魔導具である。そこになみなみと溢れる葡萄酒の水面が――なかった。

 杯台に置かれた角杯は、空だった。

 いつまで待っても、どれだけ待とうとも、そこに葡萄酒が満ちる気配がない。

 何が起こっているのかもわからず、ヴァチェスラフの胸の内に、「どうして湧いてこないんだろう?」と、葡萄酒代わりの疑問が湧いた。

 だが、少年を除いた二人の男の反応は違っていた。

 ヴァチェスラフが声を上げたことで、そこにあった異常に気がついたエイナルとアドレーの呻き声は、今まで聞いたことがないような絶望が満ちていた。

 人界の魔術によって導かれる形而下の奇跡であるそれが、目の前で起こらないのはなぜか。その可能性に気がついて、とっさに向けられた二つの視線を受け流しながら、そこでようやくギャムレットはゆっくりと口を開いた。

「ヴァチェスラフ。家の畑は、俺が継ぐ」

「へ?」

「勝手なことを言うな!」角杯に酒が湧かなかった、その理由を悟った以上の動揺を見せたエイナルが、テーブルを叩きながら声を荒げた。「畑はヴァチェスラフが継ぐ! お前の畑はない!」

 木製の古びたテーブルが揺れ、その上の食器たちが派手にぶつかり合い、耳障りな不協和音を撒き散らす。

 エイナルの言葉に反論の様子も見せず、静かに、ギャムレットが応じる。

「親父、なんで俺が『今』戻ってきたか、わかってないわけじゃあるまい」

 その言葉に、エイナルは黙ったまま、不機嫌そうな表情だけを返す。

「どうせだから、確認しておこう」と、ギャムレットが村の名主に向かって頷きかける。「アドレーさん、ヴァチェスラフは、まだ成人の儀が終わってない。年齢的には成人していても、成人の儀が終わらなきゃ、大人――相続人としての資格は与えられていない。そうだろ?」

「へ?」

 頓狂な声を上げたのは、ヴァチェスラフだった。

 今この薄暗い台所で、何の話が始まったのかまったくかわからず、兄の言葉に口籠る父と、難しい顔をして首を捻る名主とを交互に見たが、二人ともヴァチェスラフの縋るような視線に目を合わせようとしなかった。

 ヴァチェスラフは仕方なしにに、ギャムレットの口から出た言葉を心の中で反芻してみる。

「畑は、俺が継ぐ」

 という言葉には、どのような意味があるのだろうか。

 それは単純に「畑はギャムレットが継ぐ」という意味かもしれない。

 そうである可能性が高いだろう。だがそれ以上に、何か重要なメッセージが隠されているような気がした。

 その言葉に宿る意味、含まれている内容、本当に兄が伝えたいこと。

 畑を継ぐという行為の重要性と、死んだはずの兄が――ひと廉の冒険者が、村に帰ってきたということの本当が、何にあるのか、

 そして、それらが示す真意は、どこにあるのだろうか。

 などと、あまり考えることが得意ではない農村育ちの純朴な少年ヴァチェスラフは、思索の宇宙を巡りながら、その先にあるはずの結論に辿り着くことを拒否し続けて、堂々巡りを繰り返す。

 だが、観たくないもの、知りたくないこと、気がつきたくなかったことというものは往々にして、逸らした視線を遮る瞼の裏にこそあるものだった。その時も、緊張に乾いた少年の心が、瞬きを促した瞬間に、その瞼の裏にひっそりと開く真実の花弁を感じ取っていた。

 誰も何も言わない食卓で、何かに気がついてしまったらしいヴァチェスラフが、恐る恐る口を開いた。

「兄さんが、畑を継ぐっていうことは、つまり?」

 喉の奥から絞り出され、口の端から現世に転がり出た言葉は、それによってようやく具体的な意味を持ち始め、少年の人生に影響し始めた。

「俺が畑を継ぐって言うことだ」ギャムレットが言った。 

「それは……つまり?」

「お前が出稼ぎに出なきゃならんということだ」

 それはつまり、ヴァチェスラフが畑を継ぐべき農家の後継ぎから降格して、出稼ぎに出なければならない農家の倅の三男坊に返り咲くということだった。

「ちょ、ちょ! 冗談だよね、兄さん!?」

 だいぶ遅れて驚いたヴァチェスラフに、ギャムレットが微笑んで見せるが、ランタンの光が、彫りの深い瞼に落ちて深い影となって表れると、それは田舎の村の台所に現れた鬼であるかのように見えた。

 ぱつぱつの麻布のシャツを着た悪鬼となって笑顔を浮かべて頷くギャムレットは、どうにも頭の回転の鈍さが気になる可愛い弟の頭を撫でやった。

「ま、都市の早さに慣れるくらいのことは、誰にでもできるから、安心しろ」

「ぼ、僕が街に出て働くなんて、無理だよ!」

「俺は、そうは思わん。で、どうなんだい、アドレーさん」

 立て続けに襲ってくる動揺に疲弊した様子のアドレーが、額に浮いた汗をぬぐいながら、油の切れた絡繰り人形のようにぎこちなく頷く。

「うむ。ヴァチェスラフも力はあるから、仕事は何だってできるだろうさ」

「そうじゃなくて、相続の方」ギャムレットが笑いながら言った。

「あ、あぁ……それは、当然そうだ。ヴァチェスラフは、年送りの祭りが終わらなければ、大人とは認められん」

 すでに年齢だけなら成人のヴァチェスラフも、この一年が終わらなければ、村の構成員としては認められない。それには当然、相続の権利なども含まれる。 

「やっぱり悪だくみじゃないか! お前になど、畑はやらんぞ、このバカ息子が!」

 エイナルが椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり激怒したが、ギャムレットの方は、父親のその姿もどこ吹く風とばかりに無反応で、杯台にある空の角杯を見つめるばかりだった。その顔はどこか寂し気で、悪鬼の相はいつの間にか消えていた。

 そして、ぼそりと口を開く。

「俺はいつまでも親父のバカ息子でいることに誇りを持っちゃあいるが、親父にそれを決める権利はない」

「なんだと!?」

「畑は最初から俺のものだ」

「なに?」

「本当はこういう言い方はしたくなかった。それだけはわかってくれ。だが、親父が穏便に納得してくれないなら、言うしかない。……考えてみてくれ親父、『誰の金』で土地を買った?」

「それは、お前の仕送りだが、それは俺の金というあつか……」

 そこまで言ったエイナルが、何か重要なことに思い至ったのか、それ以上の言葉を継げなくなると、表情をゆがめて、唇をかんだ。

「……おまえ、そこまで小賢しいか……」

「あぁ、小賢しいよ。この十年、都市で生きて成功してきたくらいには、な」

 そして、ぐうの音も出なくなった父親の様子に一つ頷くと、ギャムレットはヴァチェスラフの方に向き直り、改めてとばかりに、くしゃくしゃに頭を撫でやった。

「出発は明日だ。ティムールたちには話を通してある。あいつらと一緒に、カローネスへいけ。そこが、おまえの新しく生きる場所だ」

「へ……? え? ど、どういうこと……?」

 そう言って、ギャムレットは、ヴァチェスラフに向かってにこりと笑った。

 迷宮冒険者たちの間で、鬼の雄牛の一睨みと言われた凶暴な微笑みがそこにあった。

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