第二十二話 みつかった?

 カーテンの隙間から差し込んだ光の筋が、床に跳ね返って、天井にゆるやかに揺れていた。

 鳥の声が、一定のリズムで朝の訪れを知らせている。

 目覚ましが鳴る前に目が覚めたのは、いつ以来だろう。


徹夜で絵を仕上げた名残が、まだ部屋の空気に漂っている。

空のラムネの容器が、朝の光をまとって、私に小さく目覚めの挨拶をくれた。


 ありがとう祭の熱気が抜けた部屋には、いつもの日常が、ゆっくりと戻ってきていた。

 身体にはまだ少し疲れが残っているけれど、あの焦りや緊張はすっかり抜けて、胸には、ほのかな温もりが残っている。


「……終わったんだ」


 呟いた瞬間、微かなテレピン油の匂いに現実感が乗って、胸に満ちてきた。

ありがとう祭が終わり、巣箱も設置された。

私の『ありがとう』を言葉にすることができた。

想いはきっと――届いてくれる気がした。



 朝食の席には、父と母、それからサクラが揃っていた。


 父は新聞を広げ、母はコーヒーを飲みながらスマホを見ている。

 変わらない光景。でも、なんとなく、少しだけ違って見える。


「おはよう、ハル」


 母がちらりと顔を上げて、やわらかく微笑んだ。


「ありがとう祭、お疲れさま。ほんと、すごく良かったよ」


「……うん、ありがとう」


 私も椅子に腰かけながら、思わず小さく笑った。


 母がコーヒーをもう一杯淹れて、父にそっとカップを差し出した。

 そして、父が何気なく言った。


「ありがとう」


 母はいつも通りのトーンで、「どういたしまして」と返す。


――こんなやりとり、今までなら気にもしなかったのに。なぜか、その「ありがとう」がくっきりと聞こえた。



 登校の途中。

 ハチマンコーヒーの前で立ち止まり、カバンの中を探って、「ありがとうカード」を一枚取り出した。


「ありがとう、ミサキちゃん」


 カードを巣箱にそっと入れて、静かに手を離した。


 封筒から指が離れたとき、胸の奥にまだ少しだけ残っていた、言葉にならなかったものが、風にそっと持ち上げられて、どこか遠くに、やさしく運ばれていった。


「渡し鳥、ちゃんと届けてね」


 そう呟いたとき、どこかで、ミサキちゃんが笑っている気がした。



 教室に入ると、アキラが先に来ていた。


「ハル、おはよう!」


「おはよう。……昨日のありがとう祭、楽しかったね」


「うん。……それからさ、“ありがとう”って、やたら耳に入ってくる気がするんだよね」


「……やっぱり?」


 私は周りを見回した。


 いつもと変わらない教室。

 でも、誰かがノートを差し出し、誰かが小さく笑い、誰かが「お願い」と声をかける。そんな場面の隅々に、「ありがとう」が、そっと咲いていた。


――たぶん、自分が少しだけ、耳を澄ませているから。


 けれどやっぱり、「ありがとう」が、昨日より少しだけ、増えているように思えた。



 放課後、美術準備室をのぞくと、近藤先生は窓際のキャンバスに向かって、筆を動かしていた。


「先生、昨日はありがとう祭に来てくださって、ありがとうございました」


「おぉ、おぉ。なかなかようできとったぞ。……で、お前さんは今日、学校で大丈夫だったかい。若いからって、無理は利かんもんだぞ」


「……昨日は帰ったら、ベッドに直行でした」


「ははっ、そりゃそうだろうな。わしなら三日は寝込む」


「鳥の巣の絵の修復、進んでますか?」


「まぁ、ぼちぼちやっとるよ。寄る年波には勝てんけどな」


「ちょっと、見てもいいですか?」


「おぉ、どうぞどうぞ」


 先生が修復している“鳥の巣”の絵。

 あたたかな色合いの中に、食卓やお風呂、木の枝やコンクリートが重なりあい、ひとつの「ホーム」が浮かび上がっていた。


 想像の中で、鳥が羽音を立てて巣に帰ってくる。

 巣から顔をのぞかせたアキラたちが、うれしそうに身を乗り出す。

 親鳥の気配に、心の中にそっと浮かんできたのは――幸せな風景だった。


「……いいですね、この絵」


「ん。そうだな。……広瀬、お前の渡し鳥の絵も、よかったぞ」


「ありがとうございます」


「お世辞なんかじゃないぞ。

あの鳥、なんというか……ほんとに、どこかにいそうな気がしてな。

あの絵もきっと、町の人たちに、長く可愛がってもらえるんじゃないかな」


「ハチマンコーヒーで、みなさんに大事にしてもらえたら嬉しいです」


「俺もな、あそこに行く楽しみがひとつ増えたよ。ありがとう」


「……それは、よかったです」


 少し照れくさくて、でも嬉しさを隠しきれなくて、私は笑った。

放課後の夕日が、校舎裏の木の葉に反射して、キラキラと揺れていた。

その光が、私の髪をすり抜けて、そっと頬をあたためていく。


「先生……」


私は、少し間を置いてから口を開いた。


「あの展覧会の絵に……もう一度、筆を入れたいんです」


近藤先生は、手を止めてこちらを見た。


「ほう。そりゃいいな。……何か、見えてきたのか?」


「……いえ、まだです。でも、もう一度描いてみたいって、そう思ったんです」


私はそっと、“駄菓子屋の人魚姫”の絵をイーゼルに立てかけた。


 (……あなたの秘密、わかったよ。だから、もっと魅力的に仕上げたいんだ)


ーーハルの笑顔に、夕暮れの光がにじんでいた。

 長めのボブカットがかすかに揺れて、その髪に金色の光がきらきらと反射している。

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