第十四話 ハチプロ(仮)

 夏休み最後の日曜日。

いつもは賑やかなハチマンコーヒーに、静けさがしんと満ちていた。


集まった目的は、「ありがとう祭」の企画会議。

それぞれが考えてきたアイデアを、三人が順番に発表することになっている。


祭のミッションと、今日のテーマが、あらかじめ紙に書かれて貼り出されていた。

——この町の「ありがとう」を増やすこと。

——そのために、何が必要かを考えること。


休みの日のハチマンコーヒーは、驚くほど静かだった。

普段は子どもたちの声や常連さんたちの笑い声で賑わっている店内に、

今日は、少しだけ緊張した空気が漂っていた。


いつもなら、わちゃわちゃとにぎやかに話している私たちも、静かだった。

誰もいない店内の木のテーブルに座り、手元をいじりながら、そわそわしていた。


ナナさんがコーヒーと水を運んできてくれた。

そして、ゆっくりと三人に目を向け、ふわりと微笑む。


「みんな、企画を考えてきてくれて……ほんとうに、ありがとう」


 声はあたたかく、やわらかくて、どこか静けさを運んでくるようだった。


「私はね、もう……みんなが、ここまで考えてきてくれただけで、胸がいっぱいなの」


 ナナさんは、ひと呼吸おいて、優しく続けた。


「だから今日のアイデアが、全部そのまま実現できるかどうかは、あとでゆっくり考えよう。

でもまずは――みんなの“夢”を、ちゃんと聞かせてほしい。一緒に聞こう、君たちの話を」


 その言葉に、空気がやわらいで、

コーヒーの香りが、テーブルの上にそっとひろがっていく。


「じゃあ、私から話していい?」


アキラが、勢いよく手を挙げた。

立ち上がったその顔は、いつも以上にキラキラしている。


「もう、緊張すると話せなくなるから、早く話させて!」


そう言って、アキラは楽しそうに前へ出た。


 私とユウカは、笑いながら頷き、

 私たち三人とナナさんの小さなプロジェクトが、動き始めた。


「……私ね、小さい頃、おじいちゃんとおばあちゃんに育てられたの。

両親が共働きで、ふたりとも忙しかったから、よくお年寄りの集まりに、ついて行ってたんだ。

知らない人たちと話すのが、なんとなく当たり前になってて――」


アキラはちらっと私たちを見て、照れたように笑った。


「でもね、ある日ふと思ったの。

あれ? これって、自分の得意技かも? って。

それで、高校に入るとき、人と話すのが好きだし、誰かの力になれたらって思って、ボランティア部に入ったの」


少し身を乗り出し、声のトーンが弾む。


「今回、私が考えたのはね――“ありがとう”って言葉を、ちゃんと声に出して伝えられる時間をつくれたらいいなってことなんだ」


私たちの顔を見て、そのまま言葉を続ける。


「だって、思ってても言えないことって、けっこう多いでしょ?

タイミングを逃したり、ちょっと恥ずかしかったりして……」


言いながら、ふっと目を伏せた。


「ありがとうって、たとえばさ。プリントを拾って“ありがとう”って言うだけで、空気がやわらかくなる。

“どういたしまして”って返ってくると、なんか、平和な感じ、するよね」


そこまで言って、視線を落とす。言葉を探しているようだった。


「でも……“ありがとう”って、何かしてもらったときに言うものって思われがちだけどさ、

その“何か”が、本当に嬉しいことだったのかって、けっこう、わかんないよね」


アキラは、指先でテーブルのふちをなぞる。


「この前、バスで席を譲ったら“そんな年寄りじゃない”って言われて。

悪気はなくても、親切が裏目に出たり……そしたら、そのあと、なんか、動くのがちょっとこわくなったり、ね」


一拍おいて、小さな声で続ける。


「でも――私は、言われても、やっぱりやっちゃうけどね!」


顔を上げ、軽く肩をすくめた。照れ隠しのように、笑う。


「だからね、“ありがとう”がもっとたくさん聞こえる世界になったら、

みんな、もっと安心して優しくなれるんじゃないかなって思ったの」


そう言って、胸に手を当てる。気持ちを込めて、まっすぐに話す。


「“ありがとう”って思ったら、ちゃんと声に出して言おうよって。

で、その気持ちを伝え合える時間があったら、いいなって。

発表を聞いて、“ありがとうって、いいかも”って思えたら……ちょっと言いたくなるんじゃないかなって」


一呼吸おいて、言葉を結ぶ。


「私は――

そういう時間を、みんなと一緒に過ごしてみたいって思ってます」


 発表が終わり、みんなで拍手を送る。

 アキラが照れたように水を飲むのを見届けて、

 ユウカは静かに席を立った。


「……たぶん、最後はハルだと思うから。次、私が話すね」


ユウカは姿勢を正し、息を吸った。


「私、将来、地域医療に携わりたいと思ってる。

この町みたいな場所で、一人ひとりの暮らしに寄り添えるお医者さんになりたい。

だから、高校生の今、ここで過ごしてる時間も、私にとってはすごく大事なの」


その声には、まっすぐな思いがにじんでいた。


「地域医療って、病院の中だけの話じゃないと思う。

日常のなかで、誰かを気づかったり、支えたりすることも全部ふくまれてる。

心も身体も、たくさんの“縁”でつながってるから」


視線をあげ、微かな笑みを浮かべる。


「仏教では、“縁起”って言うんだけど、私はそれが、“ありがとう”にすごく近い気がしてる。

“ありがとう”って、自分だけで生きてるわけじゃないって気づいたときに、自然と出てくる言葉だと思うから」


目線を落とし、少し気恥ずかしそうに目を細めた。


「でも……心や身体がしんどいときは、その“ありがとう”も出てこなかったりするよね。

私も前は、そうだった。自分のことで精一杯で、周りを見る余裕なんてなくて。

言いたい気持ちはあっても、飲みこんじゃって、あとで後悔したり……」


ふっと微笑んで、続きをつなぐ。


「だから思ったの。元気でいるって、それだけで誰かに優しくなれるし、“ありがとう”をちゃんと届けられるって。

そういうめぐりが増えていくことが、地域の医療にも、暮らしにも、大切なんじゃないかな」


言葉にそっと力を込めて、みんなを見渡す。


「それで私が考えたのは、“小さな健康講座”をやること」


照れくさそうに笑って、続きを重ねる


「かんたんな体操とか、薬膳の知恵とか。日常でちょっと役に立つことを伝えて、

“生きてるって、ありがたいな”って、思える時間をつくれたらって思ったの」


中空を見つめ、自分に言い聞かせるようにつぶやく


「生きてることも、誰かと関われることも、本当は当たり前じゃない。

そういう自分の周りの“縁”とか、“ありがとう”を、少しでも感じられたらうれしいなって」


一拍置いて、やわらかく言葉を結ぶ。


「……これ、私が最近、すごく感じたことなんだよね。一人じゃない、って心強いなって」


照れたように笑ってから、静かに続けた。


「自分を想うこと、誰かを想うこと。

その一つひとつを言葉にしていくと、自分をもっと強くできるし、誰かを応援できるんだって思うようになったの。

想いを、ちゃんと力に変えていくための――

そんな知恵を、少しでも伝えたくて。この企画を考えました」


もう一度、姿勢を正し、みんなを見渡す。


「……うまく伝わるかはわからないけど、

みんなの力を、少しでも貸してもらえたらうれしいです」


そう言って、ユウカは照れたように笑い、しっかりと頭を下げた。

みんなの拍手に包まれて、ふーっと息を吐き、穏やかな笑顔を浮かべた。


 次は私。

 みんなの視線を受けながら、私はゆっくりと立ち上がった。

 照れくさいけど、思いをそのまま言葉にするしかないと決めていた。


「……私、将来、何をやりたいのか、正直まだよくわかっていません。

でも、やっぱり……自分が本当に熱意を持てることを、見つけたいなって、ずっと思ってる。

春までは、展覧会に向けて絵を描いてて。

あのときは、それに全部をかけるつもりで頑張ってたの」


小さく意を決して、声にした。


「私が描いた絵はね――。

小さい頃に憧れてたお姉さんを、モデルにして描いたの。素敵だなって思うものを、たくさん持ってる人で――。私、その人の全部を、どうしても絵にしたかった」


 ミサキちゃんの笑顔が、ふわりと浮かび上がる。


「でも……一番描きたかった“笑ったときの顔”だけは、どうしても上手く描けなかった。そしたら、なんだか力が抜けちゃって。

ああ、自分には描けないんだなって……思っちゃった」


 苦笑いのような笑みがこぼれてしまった。


「そんなとき、たまたま――

そのお姉さんが昔に撮っていた写真を見たの。

 どれも、すごく素敵で……

世界をこんなふうに切り取れるんだ、って思った」


あのとき聞こえた、小さな熱のような気持ち――


「燃え尽きてた心に、また小さく火が灯った気がして、

それで、ナナさんから“ありがとう祭”の話を聞いたときに……あっ、これかも、って思った」


言いたいことが一気にあふれて、気づけば、息が切れていた。


「“素敵だな”って思うことと、“ありがとう”って伝えることって、

なんだか、とても似ている気がして」


 伝わっているかな――


「たとえば――夕焼けに染まる電柱の影とか、

誰かが干してくれた洗濯物とか。

そんな何気ない光景が、“ありがとう”に変わる瞬間を、見つけたいなって思ったの」


 伝わっていると信じて、私は続けた。


「……ありがとうを増やすって、

“ありがとうを見つける力”も、大事なんじゃないかなって思った」


 背筋を伸ばして、もう一度みんなの顔を見渡す。


「今回のありがとう祭では、

何気ない毎日の中にある“素敵”を、写真に撮って発表したいなって思っています」


みんなの温かな雰囲気が嬉しい。

――そして、もう一つの提案。


「それと――。ナナさんが話してた“ありがとうを循環させたい”っていうイメージも、すごく好きで、だから、ありがとうカードが巡っていく世界を、

もっとイメージしやすいように……

絵に描いてみたいなって、思ってる」


照れはある。でも、まっすぐな言葉で伝えたかった。


「まだ、うまく言えないけど――。

誰かが、誰かのために、何かをしている……そんな当たり前の一瞬すべてに、

“小さなありがとう”が、そっと隠れている気がするんです。

この町のなかで、そんな“ありがとう”を、ひとつひとつ見つけていきたいんです」


 私は深く一礼した。拍手が、やさしく身体を包み込み、心の奥が、あたたかかくなった。


 プレゼンが終わると、自然と三人の視線がナナさんに向かう。

 ナナさんは、静かに立ち上がった。


 小さく咳払いをして、ふわりと笑う。

 そのまま、ゆっくりと私たち一人ひとりの顔を見渡す。


 そして、あたたかく、言葉を紡ぎ始めた。


「……みんな。いろいろ考えてくれて、ほんとうにありがとう」


「去年、私がはじめたときはね――

 正直、完成形なんてまるで見えてなかったの。

 とにかくやってみようって。それだけで、走り出しちゃってて」


「だから……今日のみんなの話、びっくりしたよ。

 私には思いつかないことばかりで、

 あ、すごいな、って。うれしかった」


「ひとりで突っ走るより、こうやって、誰かと話すだけで――

 こんなに、世界の見え方って変わるんだね。

 今日、あらためて、そう思った」


 そう言って、ナナさんは目を細めて笑った。


「……去年はね、恥ずかしいけど、ちょっと倒れちゃって。

 無理して、一人でやろうとしすぎてたんだよね。

 やりたい気持ちが先に立つと、見えなくなることがあるの。……それ、私のクセでさ。

でも、みんなは高校二年生でしょ。

 大事な時期だから、無理はしてほしくないなって思ってる」


 そこで少し間をおき、ナナさんはアキラに視線をやった。


「アキラちゃんのアイデア、とっても素敵だった。

 “ありがとう”って……言葉にするの、意外とむずかしいよね。

 でも、声に乗せたり、誰かにちゃんと届けようとしたり……

 そういう時に、ふっと、心が動く瞬間ってあると思うんだ」


 私たちの顔を見渡して、ナナさんはやさしく頷いた。


「だからさ。たとえ少人数でも、できる形を一緒に探していこう」


 ナナさんはふっと目を細め、ユウカの方を向いた。


「ユウカちゃんの健康講座の切り口も、すごく共感したなあ。私も元・看護師だから、うんうんって頷きながら聞いてた。

 生活に根ざした健康の知恵って、ほんとうに大事だと思うんだよね。

だから、暮らしの保健室でもお世話になってるユウ先生にお願いして、一緒にやれること、考えてみるね」


ナナさんは、こちらに優しく目を向けた。


「それから、ハルちゃん」


私もナナさんの目を見つめ直して、姿勢を正す。


「“素敵”を見つけて伝えること――それが“ありがとう”につながるって、本当にその通りだなって思った。

 ありがとうって、“気づく力”から始まる言葉なんだよね。

そういう感性、ほんとに素敵だと思ったよ。……ハルちゃんの言葉を聞いて、ちょっと、胸がぎゅっとなったんだ」


 ナナさんは、考えるように目を伏せて、微笑んだ。


「まずは、手元の写真を中心に飾ってみようか。

それで、もし“今、撮りたいな”って思う瞬間があったら、それも、ぜひ追加してみて」


 ふっと息を吐きながら、ナナさんの声が、さらにやわらかくなる。


「それと、“ありがとうカード”の循環の絵も……うん、すごくいいと思ったよ」


 私の表情をうかがうようにしながら、ナナさんは続けた。


「ただね、きっと時間も手間もかかると思うから――

そのあたりは、ハルちゃんの気持ちと、ご家族の考えもちゃんと聞いたうえで、一緒に考えていこうね」


 私はうなずく。ナナさんの言葉が、胸の奥にじんわりと沁み込んでいく。


「もちろん、私も手伝うし。助けてくれる人も、ちゃんといるから」



 突然、ナナさんは声のトーンを変え、わざとらしく間を取った。


「たとえば――ハチマンコーヒー唯一の男性スタッフ、マコトさん!」


 肩をすくめ、舞台の上の登場人物のように、芝居がかった身振りで言う。


「元・IT企業のエリートだったのに……気づけば、毎朝コーヒー豆とにらめっこしてる人になってました。

パソコン関係は超頼れる。でも、力仕事は……あの、フォークでスイカ切ろうとするタイプ? でもね、気持ちはいつでも全力!」


 褒めてるんだか、茶化してるんだか。でも、ナナさんの一生懸命すぎる言い方が、なんだかおかしくて、私もつい笑ってしまう。アキラが肩を揺らし、ユウカも小さく吹き出した。ナナさん自身も、自分の語りに軽く吹き出していた。


「でもね、どんなことでも真面目に向き合ってくれる人なの。そういう存在って、すごくありがたいなって、思うよ」


 ナナさんはふっと口を閉じて、それから照れくさそうに笑った。


「……あれ、こんな話だったっけ?」


 そう言いながら、私たちを一人ずつ見渡す。


「まあ、焦らず、ゆっくり相談しながら……みんなで、しらしんけん。……やるしかないね」


 ナナさんがみんなの企画案にコメントを伝え終えると、

 テーブルには、ほっとしたような静かな余韻が落ちた。


「……なんかさ」


 アキラが、コップに残った氷をカランと鳴らしながら言う。


「こういうのって、プロジェクト名とか、つけたくない?」


「プロジェクト名?」


 私は、ちょっと首をかしげた。


「なんかさ、かっこいいやつ! たとえば――」 


 アキラが得意げに指を立てる。


「『超絶いい奴ら大集合』!」


「長っ!」


 ユウカが即座に突っ込んで、みんなクスクス笑った。


「じゃあ、『言っちゃえ★ありがとう同盟』!」


「それ、もはやカフェっぽさゼロなんだけど」


 思わず苦笑いする。


「『ありがとフェス』とか」


「いや、それ絶対バンド来るやつ……!」


 ふざけ合ううちに、三人とも笑いが止まらなくなっていた。


 やがて少し落ち着いて、私は口をひらく。


「……まじめに言うとね、ハチマンコーヒープロジェクトってことで、“ハチプロ”とか?」


「それ、軽くていいね」


「とりま“仮”ってことで」


 三人で笑い合う声が、コーヒーの香りにまざって広がっていく。


 名前なんて、どうでもよかった。

 大事なのは、今日、ここで笑っていたこと。

 そのあたたかさが、ちゃんと、この場所に残った。

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