第十二話 つながる、輪になる
八月。
三年生の夏期講習が始まり、
休み中の静けさに、少しだけ人の気配がある校舎。
屋上の渡り廊下を抜ける風は、海の匂いを運んでくる。
湿った空気。焼けつくような日差し。
あふれる光の中で、私はただ、立ち尽くしていた。
――ミサキちゃんが迎えられなかった、十七歳の夏。
私は、向かいの校舎にある美術室へと向かった。
展覧会に出した絵が、返ってきた。
久しぶりに見る、私の描いた「ミサキちゃん」。
深い青の中。
珊瑚のような駄菓子たちのきらめき。
ラムネを摘んだ小さな手。
そっと、微笑む顔。
それは、私が知っているミサキちゃんのようで、
まるで知らない誰かのようでもあった。
幻想のなかで追いかけたミサキちゃん。
キャンバスの上でつかもうとしたミサキちゃん。
この世界に、ほんとうに生きていたミサキちゃん。
全部、同じ。
全部、違う。
「ハルちゃん……みつかった?」
青い海の底で、泡みたいな声が、私に問いかけてくる。
見つけたのか。見失ったのか。
もうわからない。
西別府病院でつかんだはずの手がかりも、
鳥の巣の絵も、
すべてが、泡のようにすり抜けていった。
ミサキちゃんは、海の泡になって、
もう、ここにはいない。
でも――
夏の光は、今日も、眩しかった。
私は、ただ、まぶたを閉じて、
静かに、その光を受けとめた。
――と、そのとき。
美術準備室から、近藤先生が、うちわを扇ぎながら顔を出した。
「今日は……暑いな」
いつもの低い声。
どこか、ぼやくような調子だった。
「はい。特に今日は……」
思わず、首筋の汗をぬぐう。
閉めた窓の外からは、遠い蝉の声が聞こえる。
準備室の中では、古い扇風機が、静かに回り続けている。
「あぁ。暑さ寒さも彼岸までって言うがな……やっぱりお盆前が、いちばん堪える」
先生は、ぼんやりと窓の外を見やりながら、ぽつりと続けた。
「どうだ。……また、何か作ろうって、思えたか?」
「……いえ、まだです」
小さく答えると、先生はうなずいた。
「そうか。……まあ、焦るこたぁ、ない」
「はい」
私の声も、自然と小さくなった。
「焦ったところでな、形になるもんでもない。
……そのうち、心が動くときが来る」
先生の声は、どこか遠いところを思い出すようだった。
「秋吉……この作品、どうする?」
「――しばらく、ここに置かせてもらってもいいですか」
「もちろんだ」
先生は、柔らかく言った。
「この子の顔だけ、もう少し、描き直したいんです」
そう言いながら、私はキャンバスに目を向けた。
「……そうか」
先生は、しばらく私の顔を見て、それから静かに言った。
「作ったもんはな……作った人間に、いちばん寄り添ってくれる。
秋吉がまた、向き合いたいと思うなら、それでええ」
「ありがとうございます。
でも……まだ、どうすればいいのか、全然わからなくて」
「ええよ。わからんもんは、わからんままで、ええ」
先生は、ふっと笑った。
「せっかく、手もとに戻ってきたんだ。
時々、眺めてみな。
……そのうち、言葉にならんもんが、手ぇを動かしてくれる」
「はい」
私は、ほんの少しだけ灯った気持ちを感じながら、もう一度、キャンバスを見つめた。
久しぶりに、ハチマンコーヒーに来た。
夏休みとなると、小学生の子どもたちが、店内にあふれている。
看板犬のハチと遊ぶ子。
水鉄砲ではしゃぐ子たち。
板の間では、宿題を教え合う声。
夏のハチマンコーヒーは、ちびっ子たちの王国だ。
私は、駄菓子コーナーのラムネをひとつ買って、
カリリ、と一粒、齧った。
元気を、少しだけ、充電するみたいに。
眩しい世界の片隅――
深い海にひそむ人魚姫の隣で、
静かに歌を聴くように、私は、ミヨさんにもらった写真を見返した。
西別府病院で、ミサキちゃんの死を知ったあの日。
私は、しばらくフリーズしてしまった。
ミヨさんは、そんな私を心配して、
水とコーヒー、そして静かで温かな時間をくれた。
コーヒーを飲みながら話してくれたミヨさんの思い出のなかのミサキちゃんは、
私の知っている、あの憧れのままで――
私は、少しだけ、救われた。
そしてミヨさんは、そっと言った。
「ミサキちゃんが撮った写真のなかでね。
特に“いいな”と思ったものを、私に送ってくれたの。
……よかったら、ハルちゃんにもあげる」
別府駅前の、あの変な銅像。
きらきら光る別府湾。
街角の、錆びたベンチ。
おばあちゃんの背中を押して、坂をのぼる小学生たち。
木の根元に、そっと咲いた、小さな白い花。
(……こんな世界を、ミサキちゃんは見てたんだ)
駄菓子屋の深海に眠る人魚姫が、
じっと、そっと、見上げていた世界。
それが、こんなにも、やさしくて、
眩しかったなんて――。
ふと、横からナナさんがスマホを覗きこんだ。
「わあ、いい写真。こういうの、好きだなぁ。最近も、ちょこちょこ撮ってたの?」
「……あ、いえ。これは、私の写真じゃなくて。
友達が撮ったもので……」
ナナさんは、ふんわりと笑ってうなずいた。
「そっか。でも、すごく素敵だね。やさしい光」
そして、少し首をかしげるようにして、問いかけた。
「……ハルちゃんは?
最近、自分では撮ってる?」
そう言われて、ハッとした。
思えば、最近、ぜんぜん撮ってなかった。
ナナさんに聞かれるまで、自分が写真を撮っていたことすら、少し忘れていた。
目を上げると、
ハチマンコーヒーの店先では、
子どもたちが笑いながら走り回り、
看板犬のハチが、しっぽを振りながら追いかけっこをしていた。
テラスでは、おじいちゃんとおばあちゃんが、
麦茶を飲みながら、かき氷を半分こしている。
(――ここにも、たくさん、素敵な瞬間があるんだ)
私は、スマホをそっと握りしめた。
「最近、撮ってなかったので……また撮ろうかな」
ナナさんは、にっこりと目を細めた。
「うん、それ、いいと思う。
また素敵なのが撮れたら、こっそり見せてね?」
そう言って、ふとドアのほうを見やる。
「……あ、アキラちゃんとユウカちゃんだ」
ナナさんがふわりと笑うのと同時に、ちょうどふたりがハチマンコーヒーに入ってきた。
「ハル、久しぶり。元気だった?」
ユウカが、少し控えめに、でも元気そうに声をかけてくる。
「久しぶりー。今日はあついー! いいなあ、ちびっこたちは、水遊びできて」
アキラが、両手を広げるような調子で言った。
いつも通りのふたり。
だけど、久しぶりに見るふたりは、とてもキラキラして見えた。
(……私も、久しぶりに、陸に上がった気がする)
「私も、かき氷にしよっかな。ハル、またラムネ食べてるの? 好きだねぇ」
アキラがにやにやしながら覗きこんできた。
「うん。これで元気、充電中。……暑いからね」
私はラムネをカリリとかじりながら答える。
「アキラちゃん、盆踊り大会の練習は順調?」
ユウカが、落ち着いた声で尋ねる。
「まぁね。みんな、小さいころから踊ってるからさ。それより、人間関係よ、人間関係! 部長は大変なのよ」
アキラはわざと大げさにため息をついてみせた。
そこへ、ナナさんが、冷凍ミカンを乗せたいちごのかき氷と、アイスカフェオレを運んできた。
「アキラちゃん、私にも盆踊り、教えてよ〜。去年の大会、出たんだけどさ……ぜんっぜんついていけなくて!」
「いいですよ? 最近の私、スパルタですから。ナナさんにも、ビシバシいっちゃいますよ?」
アキラがニヤリと構えると、ナナさんはおどけて肩をすくめた。
「おおう……それは手ごわい! ……でも、お願いしますっ!」
「じゃあ、“六調子”まで踊れたら、合格ってことで!」
「えっ、六調子……って、どれだっけ?」
ナナさんが首をひねると、ユウカが静かに溜め息をついて、やさしく補足した。
「保存会の方々が踊る、あの速いやつです。
大会のラストに披露されてたの、見てませんでした?」
「……あーーー! あれか! あれはムリ! 絶対ムリ無理無理!」
「すみません、私も無理です。教えられません」
ユウカがきっぱりと言うと、ナナさんは胸をなでおろした。
「よかった〜……!」
ナナさんの声に、自然と笑いが広がった。
「みんな、浴衣着て行くの?」
ナナさんが聞くと、
「……そうですね。来年はもう行けないかもしれないし、浴衣、着ようかな」
少しはにかむようにユウカが呟く。
「え、そうなの? 私、いつも通りラフな格好で行くつもりだったけど……じゃあ、私も浴衣にしよ」
「いいなあ、ふたりとも。私はボラ部のユニフォームだよー」
アキラが肩をすくめると、
「応援しに行くからね、部長!」
私は笑って言った。
「いやいや、ハルもユウカも、踊るんでしょ? せっかく行くんだし!」
「いやぁ……私はいいよぉ……」
逃げ腰で言うと、
「踊りはね……」
ナナさんが一呼吸置いて、イタズラっぽく笑った。
「踊らにゃ、損、だよ」
それがあまりに自然で、思わずみんなで吹き出した。
「じゃあ、ナナさんはまず、私がビシバシ指導しないとですね!」
アキラがすかさず構えると、
「はい、先生! 調子に乗りました!」
「そうそう!」
そのやりとりに、また大きな笑いが広がった。
ハチマンコーヒーのなかに、笑い声と、午後の光と、かすかなラムネの甘い香りが、ふわりと溶けていった。
夕方。
蝉の声も、どこか遠ざかりはじめたころ。
慈光寺――ユウカの家の、広い玄関に、
私は立っていた。
淡い水色の浴衣に、さりげない藍色の水玉模様。
帯は、ほんのり薄紅色。
慣れない下駄の鼻緒が少しだけ痛くて、
つま先を上げたり、下げたり。
巾着を両手で持って、
少し俯いて、ユウカが来るのを待っていた。
そのとき――
やさしい声がした。
「まあ、ユウカ、まだなのね。ごめんなさいね」
顔を上げると、ユウカのお母さんが、にこやかに立っていた。
「あ、いえ。大丈夫です。まだ、始まるまで時間ありますし」
私が慌てて答えると、
お母さんは、やわらかく目を細めた。
「ハルちゃん、今日は素敵ね。
とても大人っぽくて、きれいよ」
「ありがとうございます……。でも、なんだか慣れなくて。変じゃないですか?」
おそるおそる尋ねると、
お母さんは、優しく首を振った。
「そんなことないわ。
本当に、よく似合ってる」
ほんの少し、うれしさが静かに胸に広がった。
「ユウカの様子、見てくるわね」
そう言って、軽やかな足取りで奥へと向かっていった。
しばらくして。
廊下の向こうから、すっと――
ユウカが現れた。
濃いめの群青色に、シンプルな幾何学模様が散りばめられた浴衣。
銀鼠色の淡い帯で、きりりと引き締められている。
髪もきれいにまとめられて、穏やかな中に、秘めたきらめきがこぼれるようだった。
「わぁ……綺麗ね、ユウカ」
思わず声が漏れた。
ユウカは、少し照れたように微笑む。
「ありがとう。ハルも、素敵だよ」
「でしょ?」と返すと、二人とも思わず笑いがこぼれた。
「ユウカ、ちょっと、写真撮っていい?」
「え、やだ、恥ずかしい」
「いいじゃん。記念だよ、記念!」
軽く笑い合って、私はスマホを取り出した。
「……はい、チーズ」
カシャ、とシャッター音。
モニター越しに映るユウカは、ほんとうに、きらきらしていた。
(ミサキちゃんが人魚姫なら――
ユウカは、シンデレラ……かな)
そんなふうに思った。
広場のほうから、スピーカーの音が漏れ聞こえてきた。
「ハル、そろそろ始まりそうだね」
ユウカが指さす。
「そうだね。急がないと、舞踏会に遅れちゃう」
「……何それ」
ユウカが小さく笑った。
「さ、行こう!」
私は急いで下駄を履き直すと、二人並んで小走りに寺を出た。
夕焼け色の風が、頬をかすめる。
遠くで、盆踊りの謡が聞こえ始めた。
……くには〜 ぶんごの〜 たかだの〜 ごじょうか、こらさのさ〜……
広場には、もうたくさんの人が集まっていた。
真ん中の櫓(やぐら)を囲むように、二重の輪ができている。
屋台の並ぶ周りにも、笑い声と香ばしい匂いがあふれていた。
「もう、始まっちゃってたね」
「……うん」
ユウカはきょろきょろと辺りを見回している。
踊りの輪ではなく、その周りに集まった人たちの中から、誰かを探しているみたいだった。
「ユウカ、誰か探してる?」
「……あ、いや。アキラちゃん、どこかなって」
そう答えたユウカの視線の先――
涼しげなグリーンのシャツに綿パンを合わせた真嶋くんの姿が目に入った。
「あ、真嶋くんだ」
「……ほんとだ」
なるほどね。
「ユウカ、美術部の先輩も来てるみたいだから、ちょっと行ってくるね。
ユウカも、プラプラしてていいから」
「うん」
私は、ニヤニヤをこらえながら、美術部の先輩たちがいそうな方向へ歩き出した。
そして、たまたまナナさんを見かけた。
白地に朝顔模様の浴衣に、紺の帯を締めたナナさんは、盆踊りの輪の端で、嬉しそうに人波を眺めていた。
「ナナさん、こんばんは」
「あ、ハルちゃん。こんばんは。一人?」
「あー、いえ。シンデレラは、踊りの相手を見つけたみたいで」
私は、小さく手を動かしながら、ユウカのほうを示す。
「えっ……あー、なるほど」
「羨ましいですね」
「そうね。
でも、魔法が解けるまでは、ちゃんと楽しまないとね、夢の時間」
「……ですね。あ、アキラ、見つけました?」
「ほら、あそこ。
お揃いの、すみれ色のポロシャツ着た子たち」
「あ、ほんとだ。……みんな、上手ですね」
「うん。練習した感じ、ちゃんと出てるね」
振りを合わせながら、アイコンタクトをとったり、
少し遅れそうになった子に、隣の子がそっと声をかけたり。
言葉にしなくても、助け合ってるのが伝わってくる。
「なんだかんだ言いながら、いいチームですよね」
みんなが、キラキラして見えた。
「……なんか、私、写真撮りたくなってきました」
「おー、撮りな撮りな。まずは私から、どうぞ」
「えっ、いいんですか? じゃあ、お願いします」
二人で顔を見合わせて、くすっと笑いあった。
スマホの画面に映る世界。
アキラが、仲間たちと笑いながら踊っている。
ナナさんは、地域の人たちと輪になって踊っている。
ハチマンコーヒーで見かけたちびっ子たちは、お母さんと手をつないで笑っていた。
櫓の上では、太鼓の音と歌声が重なり合っていた。
屋台では、たこ焼きをほおばる家族の姿。
私は、夢中でシャッターを切った。
きらめきは、静かに連鎖していた。
気づかなければ過ぎてしまうような、なんでもない一瞬。
でもきっと、誰の中にもある、小さな宝物。
ひとつ、またひとつ。
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