ありがとうの旅路 第五稿

@redjacket_rabbit

第一話 コミュニティナース

 秋の終わりって、キュンとなる。


 スケッチブックに溢れる色の名残惜しさと、新しいページをめくる決意。

 温度ばかりが先走って、吐息は時々冬になる。

 また季節がめぐる。

 

 教室の窓の外では、微かに銀杏の葉が揺れている。まるで、秋が手を振るようだ。


 満たされて、ページが変わる時の、キュン。



 数学の授業中。

 先生の声はちゃんと聞こえていたけど、内容はあまり頭に入ってこない。

 気づけばまた、私はノートの余白に、意味のない線を描いていた。


 広瀬晴(ヒロセ・ハル)――。

 机の中の進路調査票には、自分の名前だけが書かれている。

 空欄には、いくつもの書きかけの文字を消した跡が残っていた。

 最近は、この用紙のことが、ずっと頭から離れない。


「……じゃあ、この問題、誰か解いてみようか」


 先生の声が教室に響いた。

 その瞬間、いくつもの視線がスッと下を向く。

 私も、無意識に目を伏せた一人だった。


 誰も手を挙げようとしない沈黙の中、先生が視線を巡らせたあと、ふと名前を呼んだ。


「じゃあ、吉高」


「はい」


 すっと席を立ち、黒板へ向かう親友の吉高優花(ヨシタカ・ユウカ)。

 ためらうことなくチョークを走らせる姿を見ながら、私は胸にざわつくものを感じた。


「すごいね、ユウカ」


 休み時間。私はユウカの席のそばに腰を下ろし、話しかける。

 前の席で半身になっていた江口晶(エグチ・アキラ)が、ユウカの方を向いてぽつりと言った。


「マジで尊敬。私、今日の問題見て、え、無理、ってなったもん。あれ、難しかったよね?」


「うん。だいぶ難易度高めだったね」


 ユウカが、さらりと頷く。


「でしょ? 岡本先生、担任だからって気合いいれすぎ」


 アキラがそう言うと、ユウカも小さく笑って頷いた。


「それを解くユウカ先生が、やっぱり一番すごいわけで。やっぱ毎日、図書室通いするだけあるわ」


「中学のときもさ、みんなでお泊まり勉強会したじゃん?」


「あのときも結局、ユウカ先生の塾になってたよね」


「そうそう。説明うまいんだもん」


 アキラが相づちを打つと、思い出し笑いがこぼれる。


「それで、ユリナ先生が枕投げ担当でしょ?」


 ユウカがさらっと言い、三人でくすっと笑い合った。


「で、アキラ先生が“恋バナの時間でーす”って無理やり始めるやつね。懐かしいなぁ」


「またやろうよ。ユウカの家のお寺、広くて修学旅行みたいで楽しかった」


 そう言いながら、思わず目を細める。


「いいね。またユウカ先生に教えてもらいたい」


 アキラがにんまり笑う。


「……わかった。またやろっか」


 ユウカが少し照れくさそうに答えた。


「で、ユウカ先生は今日も図書室? ってか、やっぱり医学部行くんだよね?」


 アキラの問いに、ユウカはあっさりと答える。


「うん。小さい頃からずっと医者になりたいって思ってたから」


「へえー! かっこいいね!」


 アキラが目を輝かせて頷く。


「ところでさ、ユウカはなんで医者になりたいの?」


 アキラが、少し身を乗り出して問いかける。


「……何? 急に」


 ユウカが少しだけ目を細める。


「いやさ、進路調査票配られたじゃん? あれ書きながら思ったの。わたし、なんとなく“人と関わる仕事がいいな”って気持ちはあるんだけど、具体的にこれ!ってのがなくてさ」


 ヒナの言葉に、ユウカは少しだけ考えるように視線を上に向けた。


「……うち、お寺でしょ? だからお葬式のイメージ、強いよね」


「うん……そうかも」


 私は小さくうなずいた。


「でも本当は、お寺って“生きてる人のための場所”っていうか、たとえば、ちょっと立ち寄って、お話ししたり、気持ちを落ち着ける場所なんだよ」


 ユウカの声は、穏やかで、どこか背筋がすっと伸びるような雰囲気だった。


「亡くなった人のことを思うのももちろん大事。でもそれ以上に、“今を生きてる人”が元気でいることが、一番大事だなって」


「……だから、お医者さん?」


 私がそう問いかけると、

 ユウカは、少し照れくさそうに笑った。


 (……そんなこと、考えてたんだ)

 一緒に過ごしてきた時間の中に、そんな思いがあるなんて、知らなかった。

まぶしいな、と、少し思った。


「うん。……って、なんか語っちゃったね。恥ずかしい」


「いやいや、全然。なるほどね〜。ある意味ルーツというか……ちゃんと考えてるんだなぁ。ありがと、参考になるわ〜」


 小さい頃から、ずっとやりたいことがある。

 そんな風に言えるのが、正直うらやましかった。

 ――これから探そう。探すしかないよね。


 ユウカとは、小学校からの付き合いだ。勉強もできて、言葉選びもどこか大人びていて、気づけばいつも周りに頼られている。

 アキラとは、中学のバスケ部で出会った。ひたすら走って、笑って、悔しがって、試合で泣いた。あの頃はただ、無我夢中だった。


 アキラは毎朝、田染のほうからバスで通ってくる。家が遠いのに、遅刻したところなんて一度も見たことがない。


 みんな意外とちゃんとしてる。

 それに比べて、私は──どうだろう。


チャイムが鳴る。

窓の外の風が、カーテンをふわりと揺らした。


教室の扉が、ガラガラと開く。

岡本先生が入ってきた。


「おーい、みんな席につけー。ホームルーム始めるぞー」


私は急いで窓際の席に戻る。

すでにややオレンジ色が混じった光が、カーテン越しに差していた。


「今日のホームルームはゲストに来てもらってます。地域で素晴らしい活動をされてるハチマンコーヒーさんの活動のご紹介をしていただきま──」


岡本先生が言い終わらない間に、教室のドアが勢いよく開いて、なんだか風変わりな女性が大きなトートバッグを持って入ってきた。


(──誰?)


 白いシャツに、コーヒー色のエプロン。胸元には、見慣れないロゴ。

 そして足元には、鮮やかな青のローファー。

 髪はざっくりとまとめられていて、表情は――読めそうで、読めない。


 寝坊して急いで飛び出してきた人のようでもあり、

 すべてを計算して“わざと崩している”ようでもある。

年齢は……三十代? でも、四十近いのかもしれない。

若く見えるのに、子どもっぽくない。大人だけど、母親っぽくもない。

どこかズレていて、でも、妙に自然だった。

教室にいちゃいけない人みたいなのに、一瞬でなじんでる――そんな空気をまとっていた。


けれど、その“ズレ”は、教室に静かな緊張ももたらしていた。

彼女は軽く手を上げ、すっと教卓の前に立った。


「高田高校のみなさん、はじめまして。ハチマンコーヒーで、コミュニティナースをしている、七海(ナナミ)ひかりです。みなさんには、ナナさんって呼ばれてるので、みんなもそう呼んでね」


 トートバッグを教卓に置いた瞬間、ガチャリと音がして――

 お玉がひとつ、ころんと転がった。


 ……お玉?


 前の席で、小さな笑い声がこぼれる。


「さて、今、みんなの頭にはてなマークが二つ、浮かんだんじゃないかな?」


 声のトーンは明るいけれど、どこか挑むような鋭さがあって、目が合った気がして、私はちょっとだけ身じろぎした。


「なんで、カフェのお姉さんが教室に?……っていうのが、ひとつめ」


 そこで一拍おいてから、眉をくいっと上げる。


「あ、お姉さん、ってとこには、はてなマークはいらないからね。そこ、変な顔しない!」


 どこかでツボったのか、誰かが吹き出した。本人はいたって真面目な顔をしている。いや、たぶん、わざとやっている。


「そしてもうひとつは、

 コミュニティナースって何? 看護師がカフェ店員してるの? どゆこと? ってやつです。

 これから、みんなの町のお茶の間――ハチマンコーヒーについて、簡単にお話します」


 ナナさんは、すっと手を広げて前に突き出すと、舞台女優のように一歩前へ出た。


「今日は、五分、お時間いただいてます。

この五分で、好かれるか嫌われるか、運命が決まります。

五分後に寝てたら──私、地味に傷ついて帰ります。ふふっ、でもマジで」


 教室の誰もが、目の前の異質な出来事に、息をひそめているようだった。


 私はというと──まるで、急な突風が吹き込んで、

 頭の奥に貼りついていた「進路調査票」の白い紙が、

 一瞬だけ、風にめくられたような気がした。

た。


「さてさて──今日は、美術の近藤先生に呼ばれて、教室におじゃましております!」


自分でぱちぱちと拍手しながら、満面の笑みを浮かべる。ちょっと芝居がかったその仕草に、教室が微かにざわめいた。


「さて、本題。ハチマンコーヒーというのは、ただのカフェじゃありません。おしゃれでコーヒーが美味しいのはもちろんなんだけど……その奥に、地域の人たちが使えるキッチンとか、テーブルスペースがあってですね──」


歩きながら、大きな手振りを交えて続ける。


「町のお医者さんが健康講座を開いたり、おじいちゃんが昔の遊びを教えに来たり、地域食堂になったり──もう、文化祭の出張所です。文化祭好き、イベント好きなみなさん、ここテストに出ますよ?」


ナナさんは、唐突に声を張って笑いかける。


「……あ、出ません。けど、ボランティア参加はいつでも大歓迎です!」


きっぱり言ってから、くすっと笑う。


「つまりね、地域のつながりを、ちょっとずつ広げるような活動をしてます。

それと、“暮らしの保健室”。ここではね、健康のこととか、家族のこととか……病院に行くほどじゃないけど、なんかモヤモヤする、そういう“ちょっとした不安”の話を聞いてます」


 ナナさんは、指を一本立てて小さく首をかしげる。


「ときどきはね、病院におつなぎしたり、“あ、これいいかも”ってサービスをご紹介したりもします。

ご近所さんとお話ししたり、“元気かな?”って様子を見に行ったり、いろんな人をゆるくつないだり。

……そんなことも、やってます。

でも、基本は──ただの“話し相手”かな」


 いたずらっぽく笑ってから、ほんの一拍おいて、さらっと言った。


「要するに──この町の、ちょっと素敵な、おせっかい屋さん。

はいっ、いまのが名刺代わりです。……ってことで、よろしくどうぞ!」


少し声を落として、目線をひとりひとりに向ける。


「……でもね、ウチでは、健康の話だけじゃなくて、いろんなことを聞いてます。たとえば──やりたいことがわかんないとか、進路のこととか、勉強のこととか……あと、恋バナ」


言いながら、ふっと口角を上げて教室を見回す。


「……恋バナ、ある人? ない? 本当に?」


反応を探るように目を泳がせてから、肩をすくめて笑う。


「ま、黙ってるってことは、あるってことでしょう」


少しだけいたずらっぽく目を細めると、声を落として続けた。


「話してみると、不思議と見えてくるんです。自分って、こんなふうに思ってたんだって」


そして、ごく自然に言葉を結ぶ。


「……そういう場所、ひとつくらい、あってもいいと思いません?」


 教室の空気が、ほんの少し和らいでいる。ナナはそれを感じとったのか、軽く手を組んで深呼吸した。


「ハチマンコーヒーと、暮らしの保健室の話をしました」


 言葉のトーンが、少しだけ落ち着く。今度は、舞台の上の“芝居”ではなく、素の声に近かった。


「聞くことで、自分らしさが見つかる人がいます。

 話すことで、“わたし”が輪郭を持つ人もいます」


 ナナさんは、教卓にそっと手を添えると、教室を見渡した。さっきまでより、少しだけ静かな目で。


「だから──高校生のみんなにとっても、そんな場所になれたらって思ってます。

 ちょっと話してみたいな、って人がいたら、ハチマンコーヒーに来てください」


 少しだけ声のトーンを緩めて、ふっと笑う。


「うち、無料のお茶もあります。コーヒーを買わなくても、ふらっと来てもらって大丈夫。

 小学生の常連さんが静かに過ごしてるカフェって、ちょっと珍しいでしょ?」


 そう言って、ナナさんはおもむろにカバンをがさごそと探り始めた。


「さてと、じゃあそろそろ、しめの時間ですね」


 そう言うと、バッグからちいさなBluetoothスピーカーを取り出した。見慣れない白い円柱のスピーカーが、コツンと教卓に置かれる。


 生徒たちの視線が、一斉にスピーカーへと向かう。


「……今日は、歌います」


 生徒たちがざわめく中、ナナさんがスマホを触ると、

スピーカーから、あの軽快で、ちょっとレトロなイントロが流れはじめる


「ADOでも、YOASOBIでもなく──

 井上陽水の『夢の中へ』」


マイクのように、お玉をひょいと手に取った瞬間、

教室の空気が、ぴたりと止まる。

担任の岡本先生だけが、戸惑いを隠しきれていない。


♪ 探しものはなんですか〜

 見つけにくいものですか〜


 まさかの展開に、数人が笑いをこらえて肩を震わせる。だけどナナさんは――本気だった。


 ゆるやかにステップを踏みながら歌い出す。

 ときおり教室の通路を行き来し、

 近くの生徒に笑いかけながら、お玉を向ける。


 ――まるで、陽気に壊れたミュージカルが始まったみたいだった。


「ナナさん、そろそろ! はい、ストーップ!」


 岡本先生が慌てて立ち上がり、ナナさんの肩にそっと手をかけた。


「あーっ、ごめんなさい、止められちゃいましたー! もうちょっと歌いたかったなあ!」


 ナナさんは、くるりと身をひるがえすように教卓へ戻り、ペコリと一礼した。


「以上、ナナでした! ハチマンコーヒーで、また会いましょう〜!」


 拍手が起きたのか、ざわつきが波のように広がったのか、自分でもよくわからなかった。


 なんだったんだ、今の。

 一瞬、ここが教室だってことを忘れてた。

 アキラもユウカも目を丸くして顔を見合っていて、アキラは少し、高揚した顔をしている。


ハチマンコーヒーの、ナナさん?


〈カフェのお姉さん〉にしては、ちょっと鋭すぎる。

〈ナース〉にしては、自由すぎて。

〈先生〉にしては、どこか近すぎる。


そもそも、コミュニティナースって何?


はてなマークはふたつ──なんて、数じゃなかった。

教室には、説明のつかない空気だけが漂っていた。


 でも、一つだけ、とても気になった言葉があった。


 ――自分らしさが、見つかる人がいる。


 わたしに言われてるような気がして。

 あの風変わりな「コミュニティナース」に、私は、なんだか、すでにちょっと引き込まれていた。


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