第2話:ちいさな歌姫と半透明の幕

翌日、星野夢は朝から

ワクワクが止まらなかった。

昨日見つけたボカロイドールを大切に抱え、

父が遺した古ぼけたマニュアル、

そして「プロジェクションステージ用・実験幕」と書かれた

特殊な半透明の布を、

大きな鞄に詰め込んだ。

心臓が高鳴る。

この小さな人形が、

本当に演劇部の未来を切り開くことができるのか。

不安がないわけではなかったが、

それ以上に、新しい挑戦への期待が夢の胸を

満たしていた。

朝食もそこそこに、

夢は学校へと急いだ。

一刻も早く、この素晴らしいアイデアを

みんなに伝えたい。

その思いで、足取りはいつもより軽かった。

校門をくぐり、昇降口で上履きに履き替える時も、

彼女の心は舞台のことでいっぱいだった。

今日、この部室で、

演劇部に新しい歴史が始まるのだと、

夢は確信していた。

廊下を歩く足音も、心なしか弾んでいる。

すれ違う生徒たちが、

「あれ、星野さん、今日はなんだか嬉しそうだね」

と囁き合っているのが聞こえる。

夢はそんな声にも気づかず、

ただひたすら部室へと向かっていた。


放課後、演劇部の部室には

夢の呼びかけで、いつもの

メンバーが集まっていた。

部長で三年生の桜庭美月は、

いつも通り姿勢良く椅子に座り、

どこか張り詰めた表情で夢を見つめている。

彼女の隣に座る歌唱指導の早瀬琴音は、

少し緊張した面持ちで、

夢の持つ鞄に視線を送っていた。

舞台美術の佐倉碧と音響の山田健太も、

興味津々といった様子で夢の話を待っている。

彼らは普段から夢の斬新なアイデアに

驚かされてきたが、

今回は一体何が飛び出すのかと、

期待と不安が入り混じった顔をしていた。

部室の中央には、埃を被った旧式のスポットライトが

無言で佇んでいる。

そんな古い機材に囲まれた空間で、

果たして夢の新しい挑戦が通用するのか。

部員たちの誰もが、心のどこかで

そんな疑問を抱いていた。

そして、顧問の神崎零士先生もいた。

神崎先生は、普段は飄々としているが、

演劇への情熱は誰よりも深い。

彼は若き頃ボカロ楽曲に熱中し、

大学時代はメディアアート研究室で

「バーチャルキャストの可能性」について

論文まで書いた過去を持つ、

少し変わった、でも情熱的な教師だ。

彼の目は、常に新しいものを探している。

夢のアイデアに、

彼もまた秘めたる期待を抱いていた。

彼の表情は、

好奇心と、わずかな警戒が入り混じっていた。


夢は意気揚々と、

ボカロイドールを使った舞台のアイデアを語り始めた。

彼女は鞄からそっとネオを取り出し、

机の上に置いた。

小さな手のひらサイズの人形を、

部員たちはじっと見つめる。

「みんな、見て!これを使えば、

どんな役でも完璧に演じられるんです!

もう、キャスト不足なんて怖くない!

これが、私たち演劇部の未来を救う、

新しい仲間、『ネオ』です!」

夢の言葉は、熱を帯びていた。

美月が、その小さな人形を

怪訝な顔で見つめる。

琴音は好奇心に満ちた瞳で、

碧と健太も首を傾げながら、

これが一体何なのかと訝しげな表情を浮かべている。

部室に、奇妙な沈黙が流れた。

誰もが、夢の言葉の真意を測りかねているようだった。

美月の視線は、ネオから夢へと移り、

彼女の真剣な顔を凝視していた。

彼女の眉間に深い皺が刻まれる。


神崎先生は夢の話を興味津々に

聞いていたが、すぐに顔に戸惑いの色が浮かんだ。

「うーん……星野、その発想は面白い。

非常に面白いが、学校の舞台設備で

ARステージはさすがに無理があるのでは?

通常のプロジェクターでは、

平面に映るだけだ。立体的な

演出は難しいぞ。

それに、生徒たちが、

『人間』ではない役者を受け入れるかという

倫理的な問題もある。

舞台は生身の人間が、

汗を流し、感情をぶつけ合うからこそ、

観客に感動を与えるものだと、

僕は考えているんだが……」

神崎先生は現実的な問題点と、

自身の演劇観からくる懸念を口にする。

彼の言葉には、経験に裏打ちされた重みがあった。

部員たちも「やっぱり無理か……」と

諦めかけたような表情を浮かべた。

その言葉の通り、旧式の舞台設備が

部室の隅で静かに佇んでいる。

特に美月は、神崎先生の言葉に強く頷き、

「そうよ、先生の言う通りだわ。

演劇は、人間が演じるからこそ意味があるのよ。

私たちの舞台は、私たちの汗と涙で創るものよ。

機械に頼るなんて、ありえないわ。

そんなものは、演劇とは呼べない!」

と夢に訴えかけた。

美月の表情には、

演劇に対する揺るぎない信念が宿っていた。

彼女は、完璧な演技を追求するあまり、

過去に何度か壁にぶつかり、

その度に自身の感情と向き合ってきた経験がある。

だからこそ、「魂」を持たない存在が

舞台に立つことに、強い拒絶反応を示すのだ。

その言葉の裏には、

演劇を守りたいという強い思いが透けて見えた。

彼女の瞳には、かつての苦悩の影が

微かに宿っているようにも見えた。


夢は慌てて、父が遺したマニュアルと

特殊な半透明幕を取り出した。

「大丈夫です、先生!これ、父が残したものなんです!

『プロジェクションステージ用・実験幕』って書いてあって、

これを使えば、空中に映像が浮かび上がるみたいなんです!

父は、この幕と、特別に開発した

プロジェクターを使うことで、

まるでそこに役者がいるかのような

立体的な映像を作り出せると言っていました!

倫理的な問題も、確かに大切です。

でも、私たちは舞台を諦めたくないんです!

この子を使えば、きっと、

誰も見たことのない、新しい演劇を創れるはずです!

それに、父は、この技術を

『未来の舞台芸術の礎になる』と信じていました!

だから、父の夢も、私の夢も、

ここで終わらせたくないんです!」

夢の言葉には、強い決意が込められていた。

神崎先生の目が、驚きに見開かれる。

マニュアルを手に取り、その内容に目を通していくうちに、

彼の表情は確信に変わっていった。

父が残した設計図には、

光の屈折率や、半透明素材の構造、

そして特殊な音響との同期に関する

詳細なデータが、ぎっしりと記されていた。

それは、神崎先生が大学時代に

夢見ていた理想の舞台演出そのものだった。

彼の研究が、まさかこんな形で現実になる日が来るとは。

神崎先生の心に、

忘れかけていた探求心が再び燃え上がる。

遠い昔、研究室で夜を徹して議論した日々が

鮮明に蘇る。

「あの頃、こんな未来を夢見ていた……

それが、いま、まさか目の前にあるとはな」

神崎先生は静かに呟いた。

彼の瞳には、若き日の情熱が

再び宿り始めていた。


「常識を破る勇気が、演劇を変えてきたんだ。

だったら、AIが舞台に立つってのも、悪くないだろう?

君たちは、その最初の一歩を踏み出した」

神崎先生の言葉は、まるで魔法のようだった。

彼の言葉は、美月の心にも、

かすかな波紋を広げた。

その言葉に、部員たちの顔に再び希望の光が灯る。

琴音は目を輝かせ、碧と健太も興奮気味に

互いに顔を見合わせていた。

「マジかよ、先生!」と健太が声を上げる。

「すごい、本当にできるんですか!」と碧も興奮している。

部室に再び、活気が戻ってきた。


しかし、一人、美月だけは違った。

彼女は腕を組み、不満げな表情でネオを睨みつける。

「そんな機械に、私たちの舞台を任せるっていうの?

舞台に立つってことは、役者が血肉を捧げて、

魂を込めるってことよ。

機械にそれができると思う?

私が信じてきた演劇は、

そんな簡単なものじゃないわ!」

美月の言葉は部室の空気を凍らせた。

琴音や碧、健太も、美月の剣幕に息をのむ。

誰もが、この反発をどうすればいいか分からなかった。

美月の信念は、演劇部で最も強く、

その言葉には、皆が納得せざるを得ない

説得力があったからだ。


「舞台は命よ。魂のないものに、何ができるの?」

美月の言葉は、夢の胸に突き刺さる。

彼女の演劇への強い信念を知っているからこそ、

夢は反論の言葉を探した。

美月の言葉の裏には、

演劇に対する誰にも負けない情熱があることを、

夢はよく知っていた。

だが、このままでは舞台はできない。

演劇部の存続も危うい。

夢は、美月の瞳を真っ直ぐ見つめた。

そこに宿る迷いや葛藤を、夢は感じ取った。


「美月先輩、お願い!

一度でいいから、見てほしい!

ただの人形じゃない。

父が、私たちに残してくれた、

未来への希望なんだ!

この子が、私たちに新しい舞台の可能性を

見せてくれるはずだから!

先輩が信じてきた演劇を、

新しい形で輝かせることができるかもしれない!」

夢は懇願するように言った。

美月の表情が、わずかに揺らぐ。

夢は、美月の心の扉をこじ開けるかのように、

さらに言葉を続けた。

「もし、これが失敗しても、

それでも私たちは、

新しい挑戦をしたという経験を得られる。

それは、きっと無駄じゃない!

この演劇部で、新しい何かを創り出したいの!」

夢の真っ直ぐな瞳に、美月は目を逸らせなかった。

琴音も、不安げに美月を見つめている。

「美月先輩……どうか」


神崎先生が部室の照明を落とす。

部室は一瞬にして闇に包まれ、

緊張感が最高潮に達する。

夢は慌ただしくプロジェクターを設置し、

部室の奥、普段は背景を投影するのに使う白い壁の前に、

特殊な半透明幕を張った。

薄いチュールのような素材で、

照明が当たらないとほとんど目立たない。

それは、まるで舞台上の空気そのものが、

スクリーンになったかのようだった。

碧が、その半透明幕を興味深そうに触れてみる。

「こんな薄い布で、本当に映るのかな?

透過性が高すぎて、映像がぼやけたりしない?」

と呟いた。

健太は音響機器の調整を始めた。

「僕のプロジェクターと音響システムで、

最大限の効果を出せるように調整します!」

と意気込んでいる。

部員たちの視線が、一斉に幕へと注がれる。


「じゃあ、いくぞ、星野!」

神崎先生の掛け声とともに、

夢がプロジェクターのスイッチを入れる。

舞台用の高輝度プロジェクターから放たれた光が、

半透明幕に当たり、息をのむような光景が広がった。

その光は、まるで意思を持ったかのように、

闇の中に新たな空間を創り出した。

部屋の隅に置かれたネオのドールから、

微かな機械音が聞こえてくる。


三十センチの小さなボカロイドール「ネオ」が、

光と影の魔法によって、

半透明の幕に等身大の人間として

浮かび上がったのだ。

AR技術で再現されたその姿は、

まるでそこに本物の役者が立っているかのようだった。

微動だにせず、ただそこに、

完璧なまでに美しい像が浮かび上がる。

そこにあるのは、あくまで「完璧な模倣」だ。

光の粒子が瞬き、輪郭はわずかに揺らぐが、

その存在感は圧倒的で、

夢の想像をはるかに超えていた。

ネオは舞台中央で完璧な姿勢で静止している。

そこに感情はないはずなのに、

まるで生きているかのような錯覚を覚える。

その透明な肌には、

舞台照明の微かな色が移ろい、

呼吸をしているかのようにも見えた。

小さなボカロイドールの存在を忘れさせるほどの、

圧倒的なリアリティがあった。


「すごい!本当にそこにいるみたい!」

琴音の驚きの声が、静寂を破った。

彼女の目は大きく見開かれ、感動に揺れている。

「え、これ、本物に見える!?

どういう仕組みなんだ!?

音響とどう同期させるんだ……!?」

健太も興奮を隠せない様子で、

技術的な興味に目を輝かせている。

彼の頭の中では、

すでにネオの歌声と連動する

新しい音響プランが組み立てられ始めていた。

碧もまた、その美しさに息をのんでいた。

「信じられない……。

この光の質感、どうやったら出せるの……。

美術と組み合わせたら、

もっと幻想的な舞台が作れるかもしれない!」

と、美術的な視点から感動を漏らす。

「これなら、舞台の可能性が広がる!」

部員たちの間から、次々と歓声が上がった。

「信じられない……」

美月もまた、その光景に言葉を失っていた。

その表情には、先ほどの反発の色はなく、

ただ驚きと、かすかな期待のようなものが浮かんでいる。

彼女の瞳の奥で、何かが変わろうとしていた。

彼女の心の中に、

新しい演劇の形が芽生え始めていた。

美月の頑なな心が、

ネオの完璧な「模倣」と、

夢の純粋な情熱によって、

かすかに揺さぶりを受けていた。


神崎先生は満足そうに頷いた。

「これなら、いける。

文化祭の目玉になるぞ。

星野、君のアイデアは、

演劇部の未来を切り開く可能性を秘めている」

夢は、安堵と喜びに胸がいっぱいになった。

ネオは、文化祭公演で抜けてしまった

メインキャストの代役として、

物語の鍵を握る「不思議な歌姫」の役に決まる。

夢は小さなボカロイドールを優しく抱きしめ、

「よろしくね、ネオ。

私たちの新しい仲間」と語りかけた。

ネオは何も言わないが、

夢には、まるでネオが

「はい」と答えているように感じられた。

それは、まるで新しい命が

演劇部に宿った瞬間かのようだった。


演劇部の未来は、この小さな人形によって、

大きく動き出そうとしていた。

美月の視線はまだネオに突き刺さるが、

その瞳の奥には、新しい演劇の可能性を

予感させる光が、確かに宿り始めていた。

部員たちは皆、互いの顔を見合わせ、

この未知なる挑戦への期待と、

成功への確信を共有し始めていた。

部室には、希望に満ちた熱気が満ち溢れていた。

これから始まる新しい稽古の日々への期待が、

彼らの胸を膨らませていた。

文化祭公演に向けて、

演劇部は、大きく動き出した。

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