太陽の下

 駅前通り。平日の昼間はそう人も多くない。空は晴れ渡っていて、秋めいてきた風が吹いている。俺はコンビニの喫煙所で、人を待っていた。煙草の煙の向こうに、昼の街にどこか浮いている派手な髪が光っている。厚底のブーツは、いつも通りコツコツとアスファルトの上で音を立てて、近づきてきた。

 煙草を揉み消して、彼女を見据える。

「…よう」

「眠いんだけど」

「開口一番がそれかよ、まだ若いだろ」

「昼に起きたのなんて数年ぶりなんだっつうの」

 彼女は欠伸を隠さず、呆けた顔のままマルボロに火をつけた。俺もそれに倣ってハイライトに火をつける。

「…結局煙草吸ってるだけじゃねぇか」

「ばーか。今からカフェだろカフェ。今時どこもかしこも禁煙だらけなんだから、吸い溜めしとけ」

「はーいお兄さん」

 煙が青空の下に浮く。夜空に似合いすぎた煙が、居心地悪そうに青空に消えていく。横目に見た彼女の耳からは、ピアスが確かに一つ、消えていた。可愛いところもあるじゃないか、と口に出しかけてやめた。

「で?どこいくの」

「チェーンでいいだろ。どっか適当な」

「モテねぇやつ」

「うるせぇぞ小娘」

 時間が、ゆっくりと進んでいる気がした。肩の力が抜けていることに気づく。俺は、思っていた以上に横にいるこの派手な小娘に気を許しているのかもしれない。類友なんだから当たり前か、ともう一人の俺が自嘲した。

 どちらからともなく煙草を消して、並んで街を歩く。繁華街とは真逆の、日の当たる場所へ向かって、時折どうでもいい話をしながら。すれ違うスーツの人々は忙しない。俺たちは、やっぱりどこか浮いているに違いない。それでも、悪い気はしなかった。

 歩きながら適当に見繕ったカフェは、どこにでもあるチェーン店だった。学生らしき初々しい笑顔のバイトの子に案内され、席に着く。どこにでもありそうな曲が流れている。パソコンで作業をする人、雑談する婦人たち、どこにでもある光景。きっと他県に行っても変わらないだろう。そんな場所が、案外人々の落ち着ける場所なのかもしれない。

 正面に腰掛けた彼女は、どこまでも眠そうで、焦点がふわふわと宙を彷徨っていた。それを見て思わず吹き出した俺に、中指が立てられる。

「人の顔ジロジロ見で笑ってんじゃねぇよ。…あたしアイスカフェオレ」

「悪い悪い。あまりにも眠そうで、面白くなっちまった」

 先ほどのバイトの子に注文を告げる。接客はどこか辿々しかった。だが、俺にはそれがむしろ心地よく見えた。若さと、誠実さの証明のようで、長く忘れている心を思い出させてくれる。そんな気がした。

 程なくしてアイスカフェオレとアイスコーヒーが運ばれてきた。

「ありがと」

 ぶっきらぼうに、しかし確かにバイトの子に向けて告げられた彼女の言葉に、また笑ってしまった。机の下で足を蹴られた。何が死人だ、見ず知らずの他人に感謝すらできるのに。俺の思った通りだった。彼女はこの、あまりにも健全な真昼間のどこにでもあるカフェに、浮きながらもしっかり馴染んでいる。浮きながら馴染む、とはどうにも矛盾している。だが、俺にはそう見えたのが真実だった。

「なんであんたと真昼間からコーヒーなんて飲んでんだろ、あたし。わけわかんねぇ」

 頬杖にピアスが揺れる。左耳から下がった銀色のピアスが、窓から差し込む太陽の光を受けてきらりと光った。それは美しいに違いない。例え、彼女の傷の証明だったとしても、美しいに違いない。

「俺が連れ出したからだな。たまにはいいだろ、太陽の下ってのも。それにお前は、案外太陽の下も似合うよ」

「…くせぇセリフを女に吐けるのも大人の特権か?」

「あぁ、年の功だ」

 からんころん、とコップの中の氷が音を立てる。それは澄んでいて、綺麗だった。ネオン街の喧騒より、よほど綺麗だった。似合わないな、と思いながら、コップを傾ける。アイスコーヒーは苦く、喉を滑り落ちて、体を冷やしてくれた。

「な、悪くねぇだろ?」

「まぁ、煙草吸えねぇこと以外は」

「そりゃ同意する」

 カタカタとどこかの席からタイピング音が響いている。笑い声が聞こえる。どこにも、汚れた欲望も、汚い金の匂いもしない。あるのは、平和と日常の忙しなさだった。

「あんたさ。こんな無愛想で眠そうな女とコーヒー飲んで楽しいのかよ。大して何かを喋るわけでもねぇし」

「楽しいんじゃないか?まぁ、俺もお前と同じ死人だから、よくわかんねぇけど。悪い気はしないよ。少なくとも、来てよかったと思ってる」

「…変わった趣味してんな、あんた」

「そういうお前はどうだ?」

 一瞬面食らったような顔をして、彼女は視線を泳がせた。それがどうにも年相応で面白くて、笑いそうになるのを今度は堪える。

「悪くは、ない」

「ならいい」

 何も大それたことではない。ただコーヒーを飲んでいるだけ。それでも、ここは確かに太陽の下だった。いつもの月の下でも、暗澹とした夜空の下でもない。ネオンが照らした換気口の前でもない。錆びたフェンスに寄りかかっているわけでもない。だから、何も大それたことなんかなくて、それで充分だった。

「なんかさ。変な気分。あたし浮いてるだろ。あんたもよく見りゃ浮いてる。でもここにいる。受け入れられてる。異質なのに、生きてる奴らに混ざってる。ゾンビみたいに。でも、悪くねぇんだよ。悪いと思えないんだよ。なんだ、これ」

「スパルタ式リハビリ、とでも言っとくか」

「……案外合ってそうだな、それ」

 お互いの飲み物が尽きて、次を注文する。またアイスカフェオレとアイスコーヒーが運ばれてくる。少しずつ、窓から差し込む光が西陽の暖かさを帯び始める。銀色のピアスが、オレンジ色に揺れている。

 言葉は次第に少なくなった。特に何かを交わす必要を感じなかった。それに、沈黙にはお互い慣れていた。そこに居心地の悪さを感じないのは、良いことだろう。俺は自然だった。きっと彼女も、自然だった。

 西陽が夕暮れに変わる。青空が、濃くなって今度は赤く染まっていく。何杯目かになったアイスカフェオレをストローでくるくるとかき混ぜながら、彼女は相変わらず頬杖をついて、どこかを見ていた。その瞳が、真っ黒で深い瞳が何を映しているのか、俺にはわからなかった。あるいは、何も映していないのかもしれない。

「夕陽、好き」

 脈絡もなく、窓の外に視線をやりながら彼女が呟いた。その声は、今までに聞いたことのない優しさと、寂しさを帯びていた。ピアスが相変わらず夕陽に揺れている。それが美しかった。彼女の横顔は、あまりにも夕暮れに似合い過ぎていた。

 俺の心の隅は、もう痛まなかった。何も手遅れなんかじゃない。居場所があの、ネオン街だけなんてことはない。こんなに夕陽が似合うんだから、そうだから、きっと。そう、心の隅が語った。

「…あぁ、俺もだ」

「そっか…」

 からんころん、とコップの氷が鳴る。その音ももう、何度目だろう。ここにきてどのくらい時間が経ったのだろう。わからなかった。大して話をしたわけじゃない。むしろお互い無言でいることの方が多かった。それでも、この夕陽を一緒に見たことは、変わらぬ事実だった。それだけでどこか、俺は救われた気がした。

 彼女ももしそうであったなら、どれほどいいだろう、と願った。確かめる気はなかった。ただ、願っていた。

「煙草、吸いたくねぇか」

「気が合うな。そろそろヤニ切れで手が震えそうだ」

 レシートを取って会計に向かう俺を見て、彼女が「大人、か」と小声で呟いたのが、背中越しに聞こえた。それに答えることはしなかった。俺自身が、大した大人なんかじゃないことを知っているから。それでも少しは、と願ってしまうのは、きっと俺の我儘なんだろう。

 二人揃ってカフェを出る。外はすっかり夕焼けに覆われていた。赤が目に刺さる。否応なしに、懐かしいような、感傷的なような、なんとも形容し難い気持ちが心に押し寄せる。夕暮れはいつもこの気持ちを運んでくる。嫌いではなかった。胸が苦しくなるのは、生きている証に違いない。例え死人でも、生き残っている証に違いない。それを確認できるから。

 夕暮れに照らされた街を、二人無言で歩いた。学生たちが帰路に向かっている。きらきらとした笑い声に、自然と口角が上がった。俺にも、横を歩く彼女にも無かったものかもしれない。もう二度と俺たちは持ち得ないものなのかもしれない。それでも、学生たちの笑顔がどこか美しいことに変わりはない。この感覚さえ忘れなければ、まだここで生きていてもいい、そんな気がした。

 コンビニは待ち合わせをした時と何も変わらず、そこにあった。喫煙所の灰皿の吸い殻が少し増えている、それだけの変化だった。変わらないことは、人を安心させる。変わることはどこか、いつだって不安だ。恐怖だ。トンネルから出るには、太陽に目を焼かれる覚悟をしなければならない。そうだとしても、少し道を進んでみるのも悪くはないのかもしれない。例え、死人には似つかわしくない、太陽の下の駅前通りでも。

「なんていうか、むず痒い感じ」

「あー、わかる」

 夕暮れは終わりつつあった。もうすぐ、夜が来る。ただ今は、あれだけ待ち遠しかった夜が、少しだけ鬱陶しい。そんな気がした。

「ねむい。帰ったら寝よ」

「俺もそうするかな…久々に昼動いたもんだからねむい」

「あんたもかよ。やっぱ死人じゃねぇか」

 からっと笑う彼女の横顔に、初めて本当の笑顔を見た気がした。それが、嬉しかった。

「あぁ、ちょっと墓から起きた死人だ。悪くないだろ、たまには」

「…まぁ、悪くない」

 煙草の煙の先、焼けた空が濃い青に染まっていく。夜に変わる、刹那にしかない色。美しかった。馬鹿みたいに、美しかった。

 お互い煙草を吸い終えて、少しだけここから離れられずにいた。言葉はなかった。それでよかった。次に紡ぐ言葉は、きっと二人とも決まっていたから。

「またね」

「おう。またな」

 彼女がゆっくりと歩き出す。いつもの靴音が遠ざかる。振り返らない。しっかりとした足取りは、確かにアスファルトに足音を刻んでいく。学生たちの群れに派手な髪が滲むまで、俺はそれを見ていた。

 ゆっくり息をした。相変わらず、街からは排ガスの匂いがした。煙草の匂いがした。だが、ネオン街の、あの生臭さはどこにもなかった。それに俺は満足した。

 誰にも届かない、だからこそ言える独り言を呟く。

「またな。お前は綺麗だよ。小娘」

 少し自嘲気味に笑って、俺もまた歩き始めた。…

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