第七話:チアキ、熱中症になる

 午前十時すぎ。太陽はすでに真上に近く、トレンチの中はまるで熱を蓄えた鍋の底のようになっていた。照り返しで空気が揺れて見えるほどだ。チアキは、刷毛で発掘面をなぞっていた。額にはじっとりとした汗が滲んでいるのに、どこか体の奥が熱を帯びたままのようだった。刷毛を動かす腕が、鉛のようにわずかに重い。

 前日の夜。チアキは、就寝前にちょっとだけ――のつもりで、話題の考古学系YouTuber『ドキドキどっきん土っ器土器』の新作動画を開いた。

(……これ見たら寝よう。ほんと、一本だけ!)

 結果、午前二時半。

「やば……!」

 翌朝、集合時間ギリギリで飛び起きたチアキは、鏡に映る自分の目の下のクマをごまかしながら、慌ててつなぎに袖を通した。

(大丈夫。若さでカバー!)

 頭のどこかで、「現場前日は早く寝ろ」と須藤やサキから繰り返し言われていたことは分かっていた。

 でも、どこかで自分だけは大丈夫だと思っていたのだった。

 そう高をくくって朝から出勤したが、数時間経つと明らかに様子が変わってきた。鼻腔の奥が乾ききってツンとし、口の中もべたつく。土の匂いも、なぜかいつもより薄く感じる。

「……なんか、ちょっとふわふわする……かも?」

 言葉にするには曖昧すぎる感覚。視界の端で、地面がかすかに揺らいで見える。

 だが、サキは気づいた。チアキが刷毛を動かす手が、わずかに滞り、いつもの溌剌とした顔に、不自然な赤みが差しているのを視界の端で捉えていた。

「チアキ、そのまま続けると倒れるよ」

 そう言って、チアキの腰に提げられたままだった水筒にサキが手を伸ばし、栓を開けて持たせた。

「飲んで、すぐ。あと、もう作業やめよう。テント行こうか」

「え、え? いや大丈夫です、ちょっとだけ、ちょっと暑いだけで――」

「はい、歩ける? ……よし、腕貸すね」

 有無を言わせぬ手つきでサキに引かれ、チアキはふらふらと現場の端にあるテントへと連れて行かれた。

 テントの中は、発電機で動くスポットクーラーがぶおおと音を立てていた。その送風口からは、金属質な冷気が勢いよく噴き出しており、外よりも格段に涼しい空気が流れている。

「チアキ、つなぎ、脱ぐよ。シャツだけにしよう。汗びっしょりだから、そのままだと余計に冷える」

「へっ……? ちょ、ちょっと待って……うわ、ほんとに……」

 ツナギの上半身を脱がされると、インナーのシャツが体にぴったりと張り付いていた。うっすら透けかけた布に、チアキは反射的に胸元を手で押さえる。

「だ、大丈夫です!自分でできます!」

 サキはくすっと笑って、外に向かって声を張った。

「この中、私が見てるから、入らないでねー!」

 クーラーボックスを開ける音がして、中に籠もっていたひんやりとした冷気が、ふわっと顔にかかった。氷のひんやりした音が微かに鳴った。

「これ、保冷剤。脇と首に挟むね。……冷たいけど、我慢して」

 チアキはされるがまま、首筋と両脇を冷やされ、思わず声が漏れる。

「……っ、つめたっ……でも、気持ちいいかも……」

 次に手渡されたのは、冷えたスポーツドリンクのボトルだった。

「一気に飲まないでね。ちびちびと」

「……はい……」

 サキはチアキを寝かせるように、折りたたみのコットに移動させ、タオルを丸めて枕にしてくれた。

「ほんとなら怒りたいけど……無事で良かった。昨日、寝るの遅かった?」

「えっ、あ、はい……ちょっとだけ……つい、YouTubeで、土器の……」

「……チアキ。夜ふかしは、現場じゃ命取りになるよ」

 サキの口調はやわらかいが、少し潤んだ目は本気だった。

 15分後。チアキの顔色はだいぶ戻ってきた。脈も落ち着き、額の汗もひいた。

「入るぞ」一声かけてから須藤が現れた。

「どうだ?」

「熱中症の初期症状。軽度。保冷剤と水分で落ち着きました。今は大丈夫です」

 サキの報告に、須藤はチアキの顔をじっと見つめてから言った。

「生活習慣も、記録の一部だ」

 チアキは、ぴたりと動きを止めた。

「『前日は早く寝ろ』って、言ったよな?」

「……はい」

「現場に立つなら、それが最低限の準備だ」

いつもより厳しい須藤の顔があった。

「今日はもう現場作業は禁止だ。代わりに、テント内で出土品のラベル確認をやってもらう」

「えぇ……回復したんですけど……!」

「再発のリスクがある。『記録』の精度が落ちる作業員は、現場には立てない」

 淡々とした声だったが、その言葉の意味はずっしりと重く、チアキの胸に刺さった。

「チアキ、反省します……!」

 その日の午後。

 チアキはテント内で、静かに土器片のラベルを照合していた。

 目の前の数字が、どこかいつもより鮮明に見えた。



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🧾サキのフィールドノート(第七話)


記録:202X年○月○日/発掘現場 第2トレンチ西側洗浄区画


対象:補助学生(チアキ)

事象:熱中症の軽度症状に伴う作業中断および応急対応



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◆発見時の状況


午前10時20分頃、洗浄作業中だった学生チアキが、作業の手を止め、しばらくぼんやりと遠くを見つめる様子を確認。

刷毛の動きもわずかに鈍く、顔色に赤みが強く見えたため、声をかけて状態を確認。


本人は「少しふわふわする」と発言。歩行や返答には問題なかったが、額の汗が乾きかけ、Tシャツが汗で濡れていたことから、熱中症の初期症状と判断。



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◆応急対応内容


すぐに作業を中断させ、チアキの腰に下げられていた水筒を使って水分補給を実施(急飲は避け、少量ずつ摂取させた)。

その後、発電機付きテント内に移動。周囲には他の学生もいたため、「中は私が見る」と伝え、男性職員の立ち入りを制限。


シャツは汗で濡れ透けていたため、ツナギ上衣を脱がせ、スポットクーラー稼働下で保冷剤による冷却を実施(首筋・両脇を中心に)。

本人には無理に話をさせず、横になって休養を取らせた。



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◆経過と判断


20分ほどで表情が落ち着き、受け答えも安定。

念のため須藤准教授に報告し、午前の作業は中止と判断。

午後は記録テントにて出土物の分類整理作業に回すことを確認。



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◆備考と振り返り


本人は日頃から準備は丁寧だが、前夜に動画を観て夜更かしをしたとの自己申告があった。

また、水筒は携帯していたが、作業前からほとんど飲んでいなかった様子。


熱中症の主因は、「睡眠不足+水分摂取の遅れ+暑熱環境下での作業」が複合したものと推測。

今後、学生への事前指導(睡眠・体調管理の重要性)と、現場中の定期水分補給の声がけが必要。



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🖋須藤の添削コメント:


「対応としては適切。現場で即座に症状を察知し、環境を選んで冷却・水分補給・休養に導いた判断は評価に値する。

ただし、観察の記述は“医療的に断定しすぎない”表現が望ましい。

今回のように『顔色』『動作』『受け答え』など、外見や本人の発言に基づいた観察に留めるのが正しい。


また、原因分析において『睡眠不足』『水分不足』といった生活習慣面まで掘り下げたのは良い視点。

同様の事例を未然に防ぐために、今後の朝礼などで共有を検討したい。


最後に、記録とは『本人を責めるため』ではなく、『次の事故を防ぐため』にある。

そうした視点が、よく表れていた。」



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