第2話 日常のひび割れ(続き)
翌朝。
僕は重い体を引きずるように起き上がった。手首の痣は、悪夢の残滓のように、昨夜よりもはっきりと存在を主張している。黒い血管のような線はさらに伸び、皮膚の下をうねるように広がっているように見えた。気のせいではなかった。これは現実だ。
シャワーを浴びても、痣は消えない。むしろ、熱い湯が当たるとジン、と微かな痛みを感じるような気がした。鏡に映る自分の顔は、青ざめて、目の下にはくっきりとした隈ができていた。まるで、数日間徹夜したかのように疲弊している。
「嘘だろ……」
もう一度、声に出して呟く。昨日までは、まさか自分が都市伝説のような「呪い」に巻き込まれるなんて、夢にも思わなかった。しかし、今、僕の体は明確な「証拠」を突きつけていた。
朝食を摂る気にもなれず、僕はリビングのソファに倒れ込んだ。スマートフォンを手に取り、昨夜開いたまとめサイトを再び表示する。恐ろしい内容のはずなのに、もう一度読み返さずにはいられなかった。
『その「痣」は、呪いの印である。触れたが最後、逃れる術はない。』
「逃れる術はない」――その言葉が、頭の中で何度も反響する。
どうすればいい? 誰に相談すればいい? こんな馬鹿げた話を、誰が信じるというのか。病院に行っても、きっと精神科を勧められるだけだ。
その時、リビングの窓の外から、けたたましいサイレンの音が聞こえてきた。救急車の音だ。珍しいな、と思いながらも、すぐに興味は失せる。それどころではなかった。
しかし、そのサイレンの音は、僕の家のすぐ近くで止まったようだった。けたたましい音が止み、代わりにバタバタと複数の足音と、人々のざわめきが聞こえてくる。
まさか。
僕は急いでベランダに出て、身を乗り出した。視線の先、隣家の前には、眩しい赤色灯を点滅させた救急車とパトカーが数台停まっていた。そして、大勢の野次馬が遠巻きに集まっている。
隣の家には、僕と同い年の友人で、小学校からの幼馴染である健太が住んでいる。彼とは昨日もLINEで馬鹿な話をして、冗談を言い合ったばかりだ。
胸騒ぎがした。ただ事ではない。僕は慌てて家を飛び出し、隣家へと駆けつけた。
健太の家の前には、規制線が張られ、警官が物々しい雰囲気で立っていた。僕は警官を押し退けるようにして中に入ろうとしたが、すぐに制止された。
「おい! 何してんだ!」
「健太は!? 健太は大丈夫なんですか!?」
僕の問いに、警官は厳しい表情で答えた。
「関係者以外は立ち入り禁止だ。すぐに立ち去りなさい」
その時、家の中から、健太の母親の悲鳴のような嗚咽が聞こえてきた。そして、担架に乗せられたストレッチャーが、ゆっくりと家から運び出されてきた。白い布が、ストレッチャーの上の人影を覆い隠している。
――まさか。
全身から血の気が引いた。ストレッチャーを運ぶ救急隊員の腕に、僕は目を奪われた。
そこには、黒い血管のような、おぞましい痣が浮かび上がっていた。それは、僕の手首にある痣と、全く同じ模様だった。
隣家の玄関には、古びたサッカーボールが転がっていた。それは、僕が先日、誤って赤煉瓦の家に入れてしまい、健太に拾ってもらったものだった。僕が、あの家の敷地から持ち出したもの。
そのボールに、健太は素手で触れていたはずだ。
「そんな……」
膝から崩れ落ちそうになった。僕が、健太を……?
信じられない思いで、僕は再び自分の左手首の痣を見た。悪寒が全身を駆け巡った。それは、もはや気のせいではなかった。僕の軽率な行動が、健太を死に追いやったのかもしれない。いや、きっとそうだ。
あの「赤煉瓦の家」の呪いは、確かに存在し、そして僕の身近な人間へと、感染し始めていたのだ。
僕の日常は、完全にひび割れ、今や見る影もなく崩壊しようとしていた。逃れる術はない、とあのサイトは言っていた。だが、このまま何もせず、誰かの死を待つことなど、僕にはできなかった。
僕は震える手で、スマートフォンを再び握りしめた。まとめサイトを読み返す。あの不気味な赤煉瓦の家。その起源に、呪いを断ち切るヒントがあるかもしれない。
「調べるしかない……」
僕は、呪いの深淵へと足を踏み入れることを決意した。たとえ、その先にさらなる恐怖と絶望が待ち受けていようとも。
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