詩織じゃない。

窪田 郷音

第1話 誘拐された日

金曜の放課後、部活を終えて帰路についた相沢夏海は、何気なく裏通りへ足を向けた。

疲れていた。友人関係の些細なトラブル、予習を忘れて怒られた数学の授業、無遠慮な男子の視線。

誰とも話さず、ひとりで歩きたかった。


夕暮れが濃い紫に染まり始めた頃、不意に視界が揺れた。


「っ……!?」


背後から何かが覆いかぶさり、強烈な薬品の匂いが鼻を突いた。


「や、めて……っ!」


その声すら途中で掻き消え、意識はふっと闇に呑まれた。




目を覚ますと、見慣れない天井があった。


白。無機質な白。

眩しい。蛍光灯の直視に思わず顔をしかめた。


(どこ……?)


体を起こそうとしたとき、自分が拘束されていないことに気づいた。

ベッドのようなものの上に寝かされていたが、手足は自由。

それなのに、体が動かない。足元の床には何もない。ドアも、窓もない。


室内には家具がいくつか並んでいた。木製の本棚、机、観葉植物、清潔なソファ。

それはまるで「誰かの寝室」のようだったが、居心地の悪さが滲み出ている。

病院でも、ホテルでもない——何かが、おかしい。


「目、覚めたのね」


振り返ると、部屋の隅に座っていたのは三人の女性だった。

一人は30代後半くらいの女性。白いブラウスに淡い化粧。控えめな笑みを浮かべていた。

残る二人は、年齢的に20代前半、鏡合わせのような双子の娘たちだった。どちらも美しく整った顔立ちで、静かにこちらを見つめていた。


「……どこ、ですか……?」


声がかすれた。喉が乾いている。


「ここはあなたの家よ、詩織」


一瞬、意味が分からなかった。


「……え?」


「やっと帰ってきてくれた。夢のようだわ……」


女は目にうっすら涙を浮かべ、近づいてくる。その目は優しさよりも狂気に濁っていた。


「ちが……違います、私、相沢夏海って言います。詩織じゃ、ない……」


部屋の空気が、一気に凍った。


双子の一人が、すっと立ち上がる。

黒髪ストレートの彼女は静かに言った。


「ねえ、もう冗談はやめよ?詩織」


「だから……!ちが……っ」


もう一人の双子、茶髪の彼女が机の引き出しから小さなアルバムを取り出す。

それを広げ、夏海の前に突きつけた。


そこには、幼い少女の写真が何枚も貼られていた。笑っている写真。泣いている写真。誕生日ケーキを前にした写真——。


「詩織。あなたは、私たちの大事な妹。忘れるわけないよね?」


「……っ……!」


夏海の背筋に、冷たいものが走る。


「でも、私……記憶にない……本当に知らないんです……」


母親のようなその女が微笑みながら、夏海の手を取った。


「大丈夫。少しずつ、思い出していけばいいのよ。あなたの部屋、あなたの服、あなたのアルバム、全部ここにあるから」


「ちょっ、待って、家に帰らせてください。私の家は——」


「違うの」


黒髪の双子が遮るように言った。


「あなたが“夏海”なんて名乗るから、こうなったの。あの子の代わりになれるのは、あなただけなのに」


「……代わりって……」


「詩織は死んだの」


茶髪の彼女が、あっさりと口にした。


「二年前、事故だった。でも、私たちはずっと信じてた。詩織は帰ってくるって。……そして、あなたを見つけた。そっくりだった。声も、歩き方も……完璧だった」


「ふ……ふざけないで……! そんな理由で……!」


「ふざけてない。これは運命なの。ねえ、詩織?」


母の手が夏海の頬に添えられる。やさしく、しかし逃れられない強さで。


「わたし……違います……お願い、帰して……!」


夏海は立ち上がって部屋の扉に向かう。だが——扉は、内側から鍵がかかっていた。


「……無理よ。ここは“あなたの家”だから」


背後から、母の声。


「……逃げても、どこにも行けない。外には出られないの」


ゆっくりと振り返ったとき、双子が左右から近づいてきていた。

手には、柔らかなパジャマのような服。

そして、無言の圧力があった——これを着ろ。詩織になれ。


「やめて……お願い……!」


夏海は叫ぶ。涙が頬を伝う。


だが、三人はただ優しく微笑んでいた。


「大丈夫。最初は誰でも戸惑うものよ」


「でも、すぐに思い出すよ。詩織は、私たちのことが大好きだったもの」


そして、黒髪の双子が囁いた。


「詩織じゃないなんて、もう言わないで。——次は、許さないから」


冷たく柔らかな声が、夏海の心を締め付けた。


部屋の天井は静かで、どこか、牢獄のように見えた。


——これは始まりだった。

歪んだ愛情と、名を奪われる恐怖の、終わらない監禁生活の。

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