第9話 恐怖は終わらない

 チャイムが鳴り終わると、音楽室に再び静けさが戻った。皆の顔には、戸惑いと恐怖が入り交じった感情が如実に表れていた。


「なんだったんだ、今の?」

「分からない。ただ、早めにここを出た方が良いかも」


 星守は何やら悪い予感を感じているようだ。足立もその感覚には同意見だった。

 再び出口に向かおうとしたその時、星守は急に「止まって」と言った。


「どうしたんだ、星守?」


 山城が尋ねると、星守は「しっ」と指を立てた。


「何か音がする」


 そう言われて扉の方に耳をすましてみると、トタトタという音がかすかに聞こえてきた。それはまるで、誰かが廊下を走っているような——。


「なあ、この足音みてぇなの、なんか大きくなってねえか?」


 そう言っている間に音はどんどん大きくなっていき、ドタドタとはっきり聞こえるようになってきていた。


「っ! こっちに来て!」


 そう叫ぶと、星守は即座に扉と反対方向に駆け出した。足立らも慌ててその後を追いかけていく。

 星守が向かった先は、音楽準備室だった。



 室内に入ると、少しだけホコリっぽい匂いがした。楽器類が丁寧に仕舞われていること以外には何の変哲も無い部屋だ。

 星守は辺りを見回すと、近くの机の下に身を隠した。他の3人も続けて机の下に潜り込むと、音楽室の方からガラガラッと勢いよく扉を開ける音がした。


「……!?」


 急いで近くにあったダンボールを引き寄せ、体をできるだけ隠してみる。ダンボールは互いに身を寄せ合うことでなんとか隠れられるほどの大きさしかなく、足立の左腕に中野の小さな肩がぐっと当たった。恐怖で小刻みに震えている様子が肌を通して伝わってきた。

 息を殺して身を潜めていると足音がだんだん大きくなり、やがて準備室の扉がゆっくり開き始めた。視界の端に写った足音の正体に、一同は思わず目を丸くした。

 黄ばんだ皮膚を持つ右足と、筋肉がむき出しになった赤い左足。ぎこちない足取りで一歩一歩近づいてくるそれから目を離せなかった。


(『消えた人体模型』……。こんなところで会うことになるとは)


 心臓が今までにないぐらいバクバク音を立てている。動くはずのない物体を認識した脳が警戒信号を発し始め、嫌な汗が背中を伝う。あれがどういう原理で動いているのか、などと今までのように考える余裕は微塵もない。


 しばらくの間、人体模型は机の前をうろうろしていた。その間、4人は物音一つ立てることなく、ただひたすらに人体模型がこの場を離れることを願っていた。特に中野は声が出ないよう必死に涙を押し殺し、ギュッと目をつむっていた。

 対する足立は、恐怖心を覚えながらも人体模型の様子をじっと観察していた。

 なぜ人体模型が音楽準備室にやってきたのか。そもそもなぜ人体模型が動いているのか。いくら考えても、謎は深まる一方だった。人体模型の動きを追っても、何一つ分からない。


 まさか、心霊現象は本当に存在するのか?

 そんな疑いが頭によぎったその時、人体模型は音楽準備室の扉に向かって歩き始めた。長い悪夢を見ていたような感覚からようやく解放される。そう思って一安心していると、足下から突然バイブレーションのような鈍い音が聞こえてきた。


「っ!?」


 その音の正体は、中野のスマホに入った着信だとすぐに気づいた。機械的な振動が、密着しているスカート越しに伝わって来たからだ。通知音自体は切られていたみたいだが、静かな夜の室内ではバイブレーションの振動音もひときわ大きく聞こえた。


「止まって、止まって」


 軽くパニックになっている中野に代わり、足立はスカートのポケットからスマホを急いで取り出すと、すぐに電話を切った。

 しかし、既に手遅れだった。音楽室の方に向いていた人体模型の足は、再びこちらに近づいてきていた。


 じわりじわりと近づく人体模型を前に4人はより一層肩身を寄せ合い、体をできるだけ段ボールに収めた。鼻から下がすっぽり隠れるようになったが、これでしのぎきれるか不安でしかない。段ボールをつかまれでもしたら、その瞬間に見つかってしまうだろう。

 段ボールを持つ手が小刻みに震え始める。夏だというのに、体の芯が冷えるような気持ち悪さが指の先にまでじわりじわりと浸透していく。


 人体模型の動きをじっと見つめていると、それは足立らが隠れるテーブルの前に立ち、ゆっくり膝を折り始めた。のっそりしたその動きに不気味さを覚える中、むき出しになった臓器や筋肉がひとつずつ露わになっていく。

 そして最後に、感情の見えない顔がテーブルの上から少しずつ現れ始めた。最初は黄ばんだ皮膚に覆われた右半分の顔がこちらを覗き、続いて皮膚の剥がれた左半分が姿を見せる。丸い目玉を覆う赤黒い筋肉。月明かりを受けてひときわ浮き出る白い歯。左右非対称なその姿に、全身がぞわっと震え上がった。


 まばたきを一切しないその両目がこちらを冷たく刺すように見つめてくる。その瞬間、体の至る所が石のようにこわばって力が入らなくなった。心の奥底から湧き出る恐怖の感情が血流に乗って体の隅々まで支配してくる。

 まるで金縛りに遭ったような感覚だった。


 人体模型は首を大きく動かしながら、テーブルの下を舐めるように見回していく。

 その一瞬、人体模型と目が合った気がした。思わず出そうになった声を必死に押さえ込んでいると、やがて人体模型はゆっくり立ち上がり、また音楽室の方に歩いて行き始めた。今度こそ音楽準備室を後にし、音楽室から扉を開け閉めする音が聞こえると、ようやく安堵の息を漏らした。

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