「ピンヒールと、強面男子の優しい背中」

志乃原七海

第1話 「だ、大丈夫か?怪我は?」





最悪だ。

今日に限って、お気に入だけど一番歩きにくいヒールを履いてきてしまった。

大事なプレゼンが終わった開放感で、つい駅の階段を急いでしまう。一歩、また一歩とリズミカルに足を運んだ、その時だった。


カツン、と嫌な音がして、ヒールの先が段差に引っかかる。

「あっ」

視界がぐにゃりと傾く。身体がふわっと浮く感覚。落ちる――。

ぎゅっと目を瞑った瞬間、想像していた衝撃ではなく、誰かの固い胸板に包み込まれた。


「だ、大丈夫か?怪我は?」


低い、落ち着いた声。

恐る恐る顔を上げると、すぐ目の前に心配そうな男性の顔があった。整っているけれど、少しだけ強面な印象。

自分が知らない男性の腕の中にいる、という事実に気づいて、一気に顔に熱が集まる。


「は、はい……ありがとうございます。すみません……」

慌てて身を離すと、ふらついた身体を支えてくれる大きな手。その優しさに、心臓がとくん、と跳ねた。


「いや、ほんと、びっくりした。そのヒール、危ないなあって見てたんだよ」


見てた……?

その言葉に、恥ずかしさで俯いてしまう。穴があったら入りたい。

でも、助けてくれたのは事実だ。


「あの、もしよろしければ、何かお礼を……」

「え?いやいや、いいよそんなの」

「でも……。そうだ、そこのカフェで、コーヒー一杯だけでもご馳走させてください。お礼と、お詫びです」


引かれちゃうかな。でも、このままお別れするのは嫌だ。

そう思って勇気を出して見上げると、彼は少し驚いた顔をした後、にかっと笑った。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


その笑顔に、胸が締め付けられるようにきゅんとなる。

駅の雑踏が、急に遠くに聞こえた気がした。


立ち上がって歩き出そうとした瞬間、足首に鋭い痛みが走った。

「……っ」

思わず顔をしかめると、彼が「どうした?」と覗き込んでくる。

「いえ、なんでも……」

強がってみたものの、明らかに足を引きずってしまう。彼の眉間に、心配そうな皺が寄った。


盛大なため息の後、彼はとんでもないことを言った。

「いいか、よく聞け。おんぶしてやるから!」

「えっ!?」


おんぶ?この、会ったばかりの男性に?

「い、いえ、そんな!ご迷惑ですし、とんでもないです!」

必死に首を振る私に、彼は少し呆れたように言った。

「迷惑かどうかは俺が決める。さっさと乗れ」


有無を言わさず、くるりと背中を向けてしゃがみ込む、広い背中。

どうしよう。人がたくさん見ている。


「……あの。恥ずかしい..」


か細い声で呟くのが精一杯だった。

すると彼は、振り返らないまま、少しだけ優しい声で言った。

「ほら、早くしろ。みんな見てるから(笑)」


その不器用な優しさに、もう逆らえなかった。

観念して、おそるおそるその大きな背中に身体を預ける。首に腕を回すと、ふわりと男性らしい、でも爽やかな香りがした。


「……っ、お願いします」

「ん。しっかり掴まってろよ」


ぐっと持ち上げられ、視界が高くなる。

彼の首筋がすぐ近くにあって、どくどくと鳴る心臓の音が聞こえてしまいそうで、息を詰めた。

背中に伝わる彼の体温が、恥ずかしいくらいに熱い。


階段を登りきるまで、彼の背中は一度も揺れなかった。

(女の子って、こんなに軽いのかな…)なんて、心の中で思っていたりするんだろうか。だとしたら、少し嬉しい。


改札を抜け、タクシー乗り場まで送ってくれるという。

どこまで親切なんだろう。断ろうとしても、「ぴょんぴょん跳んでくのか?」なんて意地悪く笑うから、もう何も言えなくなってしまう。


タクシー乗り場でゆっくりと降ろしてもらうと、急に心細くなった。

このまま、お別れなのかな。

名前も、まだ知らないのに。


すると、彼が私の足元のヒールを見て、吹き出した。

「なあ、今度さ、靴買ってあげるから!、(笑)」

「ええっ!?」

予想外の言葉に、頭が真っ白になる。

「そりゃ**おれの気持ち!**だよ。もう少し低いヒールを履きな(笑)ね!」


からかうような口調。でも、その瞳はすごく真剣で、優しい。

心配してくれてるんだ。

嬉しさと恥ずかしさで、頬が熱い。


「……ひどい」

「ははっ、悪い悪い。でも、マジで危ねえから」

「……はい。気をつけます」


タクシーのドアが開く。

ああ、もう本当に、お別れだ。

そう思った瞬間、彼が私の腕を掴んだ。


「あ、そうだ。連絡先、交換しねえ?」

心臓が、大きく跳ねた。

「靴、買ってやんなきゃなんねえだろ?」


最高の、口実。

嬉しくて、嬉しくて、涙が出そうになるのを必死でこらえる。


「……わかりました。ありがとうございます、拓也さん」


え?ななみさん?

おれの名前は、拓也だけど…。

一瞬、思考が止まる。どうして、きまが?上おれの名前を?


あっ、と気づいた。

さっきおんぶしてもらっている時、会社のIDカードが首からぶら下がっていたかもしれない。そこに書いてあった名前を見たんだ。

「高橋さん…」

私は、彼の胸についていたネームプレートを思い出して、そっと呟いた。


「よく見てんな」

彼は少し驚いた顔をして、でもすぐに優しく笑った。

「俺は拓也。高橋拓也だ」

「篠原ななみ、です」


お互いにスマホを交換して、名前を打ち込む。

『高橋拓也』

その文字が、なんだかキラキラして見えた。


タクシーの中から、見えなくなるまで彼に手を振る。

今日、あのヒールを履いてきて、本当によかった。

運命って、本当にあるのかもしれない。

スマホを胸に抱きしめながら、私は次の約束のことだけを考えていた。

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