第一章:鳥かごの中の出会い 第一節:新入生の憂鬱

 三月も終わりに近い、ある雨の日の午後。新学期を間近に控えた櫻葉女学院の寄宿舎に、一人の少女が静かに到着した。


 たちばな椿つばき


 とある子爵家の一人娘、十六歳。今春、高等科に入学するため、故郷の信州から単身、帝都に出てきたのだった。


 雨に濡れた石畳を踏みしめながら、椿は父に買い与えられたばかりの革靴の感触に、まだ慣れることができずにいた。このフランス製の靴は確かに美しく、柔らかな革の手触りも申し分なかったが、故郷で履き慣れた下駄や草履とは全く違う、どこか借り物のような心許なさがあった。


 矢絣の着物に海老茶色の袴。女学生の象徴ともいえるこの装束も、椿には重く、息苦しく感じられた。袴の腰板が背中に当たる感覚、慣れない帯の締め付け、そのどれもが、自分がこれまでとは違う人間になってしまったのだということを、嫌というほど思い知らせる。


「お嬢様、こちらが椿お嬢様のお部屋でございます」


案内してくれた年配の女中が、寄宿舎三階の廊下の突き当たりで足を止めた。扉のプレートには「橘椿」と、まだ真新しい木の香りのする文字が刻まれている。


 部屋は、八畳ほどの広さで、窓は南向きに大きく開かれていた。備え付けられた机、書棚、ベッド、それらはどれも上質な木材で作られ、櫻葉女学院の格式の高さを物語っていた。しかし椿にとって、この整然と整えられた空間は、まるで博物館の展示室のようで、到底、自分の居場所とは思えなかった。


 女中が去った後、椿は重いトランクを開け、故郷から持参した僅かな私物を部屋に並べ始めた。母の形見である翡翠の簪、愛用していた小さなスケッチブック、父が買い与えてくれた水彩絵具の箱。それらを手に取るたび、遠く離れた信州の山々や、清流のせせらぎが恋しくなった。


 窓辺に腰を下ろし、椿は外の景色を眺めた。雨脚は次第に細くなり、薄日が雲間から差し込み始めている。眼下には、まだ芽吹き前の桜の大木が、黒い枝を空に向かって伸ばしていた。その枝々の間を、数羽の燕が軽やかに飛び交っている。


「自由でいいわね……」


 椿は、誰にともなく呟いた。


 燕たちは、この立派な学院の敷地を、まるで自分の庭のように思うがままに飛び回っている。高い塀も、厳しい規則も、彼らにとっては何の意味も持たない。椿は、小さなスケッチブックを取り出すと、鉛筆でその自由な飛翔の軌跡を紙の上に写し取り始めた。


 絵を描いている時だけ、椿は故郷にいる時と同じ自分でいることができた。線を引く手の感触、紙の匂い、鉛筆の芯が削れる音。それらはすべて、椿の魂にとって、帰るべき故郷の記憶と結びついていた。


 やがて雨は上がり、西日が部屋の中に斜めに差し込んできた。夕餉の鐘が時計台から響いてくる。椿は慌ててスケッチブックを閉じ、身支度を整えた。これから食堂で、他の生徒たちと初めての夕食を共にするのだ。期待と不安が胸の中で渦巻いて、心臓の鼓動が早くなった。


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