私よ!幸せに!

るいか

第1話

私よ!幸せに!

私は鹿野るいか、30代、独身、夜勤専従の看護師。

彼氏? いたことはあるよ。過去形だけど。


だいたいみんな言うの。「……重いよね」って。

ちょっと好きが強いだけなのに。

ちょっと毎日会いたいだけなのに。

ちょっと…相手の全部が欲しいだけなのに。


……ねぇ、それって、ダメ?


そんな私は今日も白衣を着て、笑顔で患者さんに接する。

「大丈夫ですよ〜、お薬飲んだら楽になりますからね」

本当は私が癒されたいのに。


——そんなある日。


「今日から研修で入ります、如月 陽(きさらぎ よう)です。よろしくお願いします」


……え、だれそのイケメン。

腕まくり反則だよそれ。無駄に血管浮いてんじゃん。好き。


しかも笑顔がずるい。

爽やか笑顔×筋肉。

……もう、帰ってくれませんか? 心の壁が壊れそうなんですけど。


って、思ったのに——


気づいちゃった。


左手の薬指。

……指輪。

あっ……そういう、はい、わかりました。


私の恋はまたここで、何も始まらずに終わったのです。


  更衣室でスクラブに着替え、髪をひとつに結び直す。

 夜勤前の儀式みたいなもので、鏡の中の自分に向かって、そっと声をかけた。


「……今日も事故なく、朝を迎えられますように」



 患者さんの変化には気づけても、自分の幸せには鈍感すぎる。


 そんなことを思いながら、ナースステーションに向かう廊下を歩いていくと、いつものように夕方のバタバタした空気が漂っていた。


「るいかさーん!今日、当直あの先生らしいですよ!」


 詰所前で検温に向かう途中だったゆりちゃんが小声で言ってきた。


「あー、そうなんだ。了解」


 あくまで冷静に返す。けど、内心は少しだけドキリとした。

 だって、“あの先生”とは例の、左手薬指に謎の指輪をしてるイケメン研修医。


 噂では既婚者だとか、カモフラージュだとか……真相は、誰も知らない。

 でも、やたら親切で、たまに無防備な笑顔を見せてくるのが罪だと思う。


 ——だから、関係ない。

 これは仕事。私は看護師。夜勤リーダー。惑わされてはいけない。


 ナースステーションに入ると、日勤リーダーから申し送りが始まった。

 熱発の患者さんが数名。〇〇号室の○○さんは、さっきシバリングが出ていたらしい。


 ……熱発。

 またその言い方だよ。


(発熱でよくない?熱を発するって何。私たち人間、ストーブじゃないんだけど?)

 (シバリングが出ていた?出ていたから何をしたが重要でしょ?!)


 そんな心の中のツッコミを飲み込みながら、私はスクラブのポケットにペンを差し込んだ。

 

 ……いつも通りの、いつも通りじゃない夜が始まる。


  ステーションの時計が19時を回った頃。

 入口の自動ドアが開く音がして、私は反射的にそっちを見た。


「こんばんは。今日、当直の如月です」


 来た——。

 白衣の裾を軽く揺らしながら、如月先生がナースステーションに入ってくる。


 静かに、でもなぜか絵になる人。

 あの柔らかい声、慣れてきたはずなのに、やっぱり心がちょっと波立つ。


「お疲れさまです。夜勤、鹿野です」

「よろしくお願いします」


 私は温度板を持ったまま一礼し、いつも通りの手順で患者さんの状態を伝える。


「夕方より〇〇号室の佐々木さん、シバリング出現。トップで38.7℃です」

「ふむ」


「指示のアセリオ500mg投与開始しています。

 患部に腫脹と熱感もあって、感染源はそこからかもしれません」


 如月先生は静かに頷きながら、「ありがとう」と一言。


「様子見つつ、追加で解熱が必要なら坐剤でもいきましょう」

「了解です。坐剤は準備しておきます」


 そこまで確認し合って、ふと先生が私の手元の温度板を見た。


「鹿野さんって、報告すごく的確ですね」

「……ありがとうございます。仕事ですので」


 淡々と答えたつもりだったけど、そのとき、先生がちょっとだけ笑った。


「こういう時、心強いです」


 ——ずるい。

 そうやって、さらっと言うの。


 夜勤の始まりは、だいたいいつもこんな感じ。

 冷静なふりをして、胸のどこかが騒がしくなる。


 夜勤明けの静かなナースステーション。

バインダーを片手に、鹿野るいかは少しだけ目を細めた。


「……思い出した。整形で働いてた頃、夜中に“トイレ行けると思った”って、勝手に動いて転んだ若い患者さん、いたなあ……」


レントゲンを撮っても骨に異常はなかったけれど、

そのあと本人にはきっちり言った。


『次から、ちゃんと呼んでくださいね?』


もちろん笑顔で。でも、真剣に。

その時の患者さんの、バツが悪そうな「すみません……」って声と顔、今でもよく覚えてる。


そんな記憶がふとよぎった夜——


「鹿野さん、○○さんが“トイレに行きたい”って……」


新人ナースが駆け寄ってくる。

るいかは一瞬で状況を察し、バインダーを置いて立ち上がった。


「あの方、術後でベッド上安静ですよね? あの年齢で免荷を守れるとは思えないし……行こう」


——まさかのフラグ。


病室に入ると、案の定、すでに柵を開けてベッドから降りかけている○○さん。


「だめですよ〜、今荷重かけちゃうと、せっかく治した骨がまたズレますよ」


そう声をかけながら、慌てず優しく支えに入る。


そのとき、背後から落ち着いた声が響いた。


「これくらい動けるなら、ポータブル使えるようにしておいてもいいかもね。指示出しておく。対応ありがとう、鹿野さん」


——如月先生だった。


るいかは思わず、数秒だけその横顔を見つめてしまった。


(……あの頃も、今も。

誰かの支えになれる自分でいられて、よかった)


「落ち着いてますね〜、今夜」

ナースステーションでバイタル入力をしていた新人・ゆりちゃんが、ふとつぶやく。


「それ言っちゃダメ……」


その瞬間——


📞プルルルル!!


るいかとゆりちゃんが顔を見合わせる。

一拍置いて、るいかが苦笑いで受話器を取った。


「……はい、ナースステーション、鹿野です」


『救急外来です、緊急入院です。70代男性、大腿骨頸部骨折。今から搬送します』


「あぁ……はい。受け入れ準備します」


📞カチャ


「ほら言わんこっちゃない」


「うわっ!すみませんっ!」

ゆりちゃんが慌てて立ち上がる。


「空いてる個室、酸素・吸引チェック、牽引するかもしれないから牽引組んでおかないとね…

書類とかの準備はゆりちゃんお願いしていい?どうせ朝に輸血とか言い出すんだし、ルートも確保しておこ。

どうせ痛いって騒ぐだろうしねー…すぐ準備しよう。」


「は、はいっ!」


——このスイッチの切り替えが、夜勤の看護師の“顔”。


📞プルルル!!


また外線が鳴る。


るいかはため息混じりに受話器を取った。


「……はい、ナースステーション、鹿野です」


『家族がもうすぐ病棟へ向かいます。20分後に患者さん上がります』


「了解です。ご家族先にお通しください。早めに来てもらえた方が助かりますし。よろしくお願いします」


📞カチャ


(ふー……夜勤って、こういうもんだよね)


__20分後__


「〇〇さんですか?お名前言えますか?」


病室に迎えに出たるいかが患者さんの手を確認すると、ふと気づいた。


(あれ?……ルート入ってる?)


「ゆりちゃん、すごいよ今日の外来。ルート入ってる。優しい。どうしたの?真夏に雪降った?」


「え?本当だ……!」


そのとき、ふいに後ろから声がした。


「……あ、それ。僕が入れておいたんだけど……余計なこと、しちゃったかな?」


如月先生が少し照れたように笑っていた。


「先生が……?いえ、めちゃくちゃ助かります!ありがとうございます!」


るいかはぺこりと頭を下げたけれど、心の中では静かに呟いていた。


(……こんなに出来て、優しいから……そりゃあ、結婚してるよね)


——でも。

この夜、彼が左手の薬指の指輪をふと触って、微笑んだのを見た時。

「その笑顔は、誰に向けたものなんだろう」と思ってしまった。


 患者さんのベッドサイドには、沈んだ顔のご家族。

如月先生はIC(インフォームド・コンセント)で病状と今後の治療方針を、穏やかだけど明確な口調で説明していく。


「骨折の部位は大腿骨頸部です。高齢の方なので、手術を検討していますが、心疾患の既往歴があるので麻酔のリスクについても検討が必要です」

「今夜は疼痛コントロールと安静を第一に、明日の主治医と相談のうえで方針を固めます」


ご家族は何度かうなずきながらも、目が泳いでいる。


ICが終わったあと——


るいかは静かに一歩前に出た。


「説明をお聞きになって、不安な点やわからないことはありませんでしたか?」


ご家族が小さく首を振る。


「大丈夫……だと思います……」


「ありがとうございます。先生からの説明通り、今夜はこちらでしっかり管理いたします。明日、担当の主治医が改めて詳しくご説明に伺う予定ですので、ご安心ください」


るいかの声は静かで、けれど安心を与える温かさを帯びていた。


「今夜はお帰りになられても大丈夫です。ご自宅で少しでもお休みになってくださいね」


「……ありがとうございます。よろしくお願いします……」


一礼して、ご家族は部屋を後にした。


その背中が見えなくなった頃——

隣に立っていた如月先生が、小さく呟く。


「……助かりました。説明のあとのフォロー、いつも完璧ですね」


「いえ。私たちは、患者さんとご家族にとって“最初に頼る存在”でもありますから」


いつものように事務的に答えたつもりだった。

けれど如月先生がふっと目を細めて、微笑んだ。


「……こういう時、本当に心強いです」


——その一言に、なぜか心臓がひとつ、大きく跳ねた。


(やめて。今の、なんかズルい)

  ナースステーションを抜けて、更衣室に向かう廊下。


 スクラブの上だけ脱いでパーカーを羽織り、仮眠前に小腹を満たすべくコンビニへ向かおうとしていた。


 夜の病棟は静かで、空調の音と自分の足音が心地よく響く。


 ——と、ちょうど角を曲がったところで、人影とぶつかりそうになった。


「あ、すみません!」


「……あれ? 鹿野さん?」


「先生?」


 コンビニへ向かうるいかと、自販機の前で缶コーヒーを選んでいた如月先生。

 思わぬ場所での再会に、ふたりとも一瞬きょとんとした顔になる。


「今、仮眠ですか?」


「その前に、ちょっとコンビニへ……夜勤中って小腹がすくじゃないですか」


「分かります。僕も眠気覚ましに来たところでした」


 缶コーヒーを一本手に取りながら、先生がふとこちらを見た。


「……あ、だったら」


 一瞬だけ言葉を迷ってから、先生が柔らかく微笑む。


「さっきのICのフォロー、ありがとうございました。

お礼に、コンビニのちゃんとしたアイスコーヒー、買わせてもらえませんか?

ブラックでよければ、ですけど」


 思わず、言葉が詰まる。


「……え、あの、いいんですか?」


「もちろん。……この時間に外に出る看護師さんって、だいたい強い人ですから」


 冗談めかした先生の言葉に、胸がすこしだけ熱くなった。


 朝の光が、ナースステーションのガラス越しに差し込みはじめる。

時計は8:27。日勤スタッフたちが一人、また一人と詰所に集まり始めた。


「……さて。そろそろ、申し送りか」


バインダーを持ち直し、るいかは背筋を伸ばす。

徹夜明けの身体は重たいけれど、口調だけはしっかりと。


「おはようございます。夜勤から申し送ります」


静かに始まる、一日のバトンパス。


「〇〇号室の〇〇さん、昨日夕方より発熱がありました。

シバリングが出現して、トップは38.7℃。指示にてアセリオ500mgを投与しています。

現在は37.4℃まで下がっていて、クーリング継続中。患部に腫脹と熱感があるので、感染の可能性が高いかと思われます」


うなずく日勤リーダー。その横で新人の子がメモを取っている。


「あと、深夜2時過ぎに緊急入院が1件。70代男性で、大腿骨頸部骨折。外来でルート確保済みで、点滴はキープ中。

今朝のバイタルも安定していて、疼痛の訴えはありますが、現時点で問題はなさそうです」


「はい、ありがとうございます。お疲れさまでした」


「ありがとうございます〜。今日はちょっと多めかもなので、気をつけてください」


「はーい!気合い入れてきます!」


申し送りが終わると、やっと“夜”が終わったことを実感する。


(よし……事故なく、朝を迎えられた)


るいかは深く息を吐いて、バインダーを閉じた。


 ゆりちゃん……次はあの魔法の言葉は、なしよ……?」


「は、はい……気をつけます……!」


るいかは苦笑しながら、更衣室へと向かう通路でストレッチをしつつ軽く肩を回す。

明け方のあの怒涛の流れ。身体は重いけれど、無事に朝を迎えた達成感だけはある。


「さ、帰りましょっか」


そう言ってナースステーションを後にしようとした、その時——


「あれは何だ!?Hbがここまで落ちてるのに、何で輸血オーダーが入ってないんだ!」


詰所の奥、指導医の鋭い怒声が飛ぶ。

振り返ると、あの先生——如月陽が頭を下げていた。

少しだけ唇を噛み締めて、何かを言い返そうとしては、飲み込むような表情で。


(あれ……この前の入院の人だ。確かに朝の結果で下がってたけど、急ぎって感じじゃ……)


「るいかさん……?」


「……ゆりちゃん、先に帰ってて」


「えっ……?」


「先生、あのままだとやられちゃうから。……ちょっとだけ、フォローさせて」


 るいかが紙袋を置いて、明るく言った。


「先生!はい!甘いもの!

 さっきの、あんな頑固親父の言うことはムシムシ!どうせイケメンだから腹を立ててるんでしょ!」


 ——言った瞬間、自分でもわかった。


(……え、なに言ってんのあたし!?!?)


 言葉が終わるより先に、心の中で警報が鳴り響く。

 やってしまった、完全に。看護師としてじゃなく、女として出た本音だった。


「……ありがとうございます。

 イケメンとまで褒めてもらえるとは」


 如月先生はふっと笑って、紙袋を覗き込みながらつぶやく。


(えええええええええええ!!!!!聞かれてるし反応してるし耳ちょっと赤いしなにそれええええ!!!)


 もう逃げたい。できれば今すぐタイムスリップして数分前の自分を止めたい。


「……あっ、ちが……今のは、その……」


 しどろもどろになった自分の声を、無理やり落ち着かせて続けた。


「先生の、あの怒号が……聞こえてきたので……

 ほら……先生、せっかくここに来てくれた新しい風っていうか……

 なかなか、こう、フレッシュなドクター来ないし……

 心配だったんですよ、はい……」


 必死のフォロー。

 頭の中では全力で “やらかした〜〜〜!!!” の文字が点滅している。


 そんな中、如月先生がふと顔を上げた。


「……帰ったのかと思いました」


「そ、それが……まだ……

 ちょっと、帰りかけてたんですけど……なんとなく、こう、気になっちゃって……」


 るいかはごまかすように笑いながら、バッグの紐をぎゅっと握った。


 如月先生は、ほんの少しだけ目元を緩めた。


「……そっか。ありがとうございます。

 ……心配、してくれてたんですね」


 また、その笑顔だ。

 さっきまで怒鳴られていたとは思えないくらい穏やかで、優しくて。


(だから、好きになりそうになるんだよ、もう……)


「じゃっ、私はこれで! おつかれさまでしたっ!」


 るいかは頭を下げて、くるっと踵を返した。

 顔の火照りが引かないまま、ナースステーションの扉をくぐっていく。


 先生の返事は、後ろから小さく聞こえた。


「……おつかれさまでした。気をつけて」


  次の日の夜勤前。

 仮眠後のもっさりした髪をまとめながらロッカールームで準備していると、ひょこっと顔を出してきたのは、ゆりちゃんだった。


「るいかさーんっ!おつかれさまでした!……てか!」


「ん?」


「昨日……あの後……!先生に甘いもの渡してたの、見ちゃいましたっ!」


「……っ!? うそ、見てたの!?」


「はいっ、ちょっとだけ……!

 しかも“イケメンだから怒られたんでしょ”って……それ、るいかさんの本音ですよねっ?」


「ち、ちがっ……いや違わないけどっ!!!」

 思わずタオルで顔を隠す。


「やっぱり〜〜〜!!うわ〜〜〜青春〜〜〜!!!」

 ゆりちゃんが無邪気に大騒ぎする。


「うるさいっ……もう帰っていい……」


「でも、先生も嬉しそうでしたよ?

 “ありがとう”って、すっごい優しい声で言ってましたもん」


「……マジか……」


(やめてよ……その優しさが一番こたえるんだから……)


  夜勤明け、朝9時すぎ。


 仮眠も少しだけとれたし、今日は天気も悪くない。

 ついでにコンビニ寄って、冷たい飲み物と洗剤だけでも買って帰ろうかなと、私は駅前のスーパーに立ち寄っていた。


 (人も少ないし、さっと買って帰ろ)


 そう思っていたのに——


「……あれ? 鹿野さん?」


 その声に振り返った瞬間、全身の血の気が引いた。


「せ、先生……!?」


 よりによって。

 よりにもよって!


 すっぴん+Tシャツにダボっとしたカーディガン、髪も適当に結んだだけの、「絶対人に見られたくない」ランキング1位の姿。

 そんな時に、一番出くわしちゃいけない男No.1・如月先生と目が合った。


 「あの……買い物?」


「そ、そうですっ、あの……なんでもないです!買ったらすぐ帰るんで!」


 顔から火が出そう。全力で視線を逸らす。


 「ふふ。なんか……いつもと雰囲気違いますね。かわいらしい感じで」


 「……っ!? あの、失礼しますっ!」


 完全に羞恥心が限界突破。

 買い物かごごと棚に置いて、スーパーから全力で撤退しようとした、そのとき——


 「……あ、待ってください!」


 振り返ると、先生が小さな紙袋を差し出してきた。


 「これ……昨日のお礼。

 実は甘いもの、あれ以来ハマりそうで……。

 鹿野さんにも食べて欲しくて、つい……」


 「……え……」


 「良かったら、これで寝不足チャラにしてください」


 先生の笑顔は、朝の光に溶けるみたいに優しくて。

 私はただ、頷くことしかできなかった。


 (……ずるいよ、先生。

 すっぴんでこんなにときめくとか、反則なんだから……)


  ナースステーション。

 夜勤の記録をまとめていたるいかは、パソコン画面に目を向けたまま、静かに耳を澄ませていた。


 少し離れたカウンターでは、如月先生が電子カルテを見ながら、他の看護師たちと話している。


「先生って本当、丁寧ですよね〜!患者さんへの説明とかもすごく優しいし」


「ね!絶対、奥さん幸せですよ〜!ああ〜、先生の奥さんになりたい人生だった!」


「いやいや(笑)、奥さん羨ましいってば〜!」


 ――その瞬間。


(……奥さん!?)


 るいかの手が止まった。


 カルテ入力の画面に映る患者情報を見ながら、心の中は完全に先生の情報で上書きされていく。


(そっか……やっぱり奥さんいるのかな……あの指輪、そうだよね……

 でもカモフラージュとか言ってたような……いやあれは社交辞令……?いやでもあの目……!いやもうわからん……!!)


「先生、奥さんってどんな方なんですか〜?やっぱり綺麗な人なんですか?」


 その一言に、もう完全に意識が耳だけになる。


 後ろ姿のまま身じろぎもせず、るいかはステーションのすみに“ひっそり存在する人”と化していた。


(答えないで先生……お願い……その話、深掘りしないで……!)


 ——と、その時。


「あー……それ、よく聞かれるんだけど……」


 先生がぽつりとつぶやいた。


「……まだ、いないんだよね、奥さん」


 ……シーン。


 その場の空気がふわっと止まり、軽くどよめきが起こる。


「えっ!?先生、未婚なんですか!?」


「えー!指輪してるのに!」


「それ、なんの指輪なんですか!?」


「いや、患者さんに紹介されそうになったりするから、“予防線”っていうか……」


 静かな笑いが起きる中。


(……え?)


 るいかの指が、静かにキーボードを叩き始めた。


(……それ、どういう意味……?)


 そして、モニターの光に照らされたその横顔は――

 さっきまでより、ほんの少しだけ赤くなっていた。


  カルテ入力を終えたふりをして、るいかはそそくさとナースステーションを抜け出した。

 その顔はほんのり赤い。いや、もう真っ赤だ。


 そして、ちょうど備品補充から戻ってきたゆりちゃんを見つけた瞬間——


「ゆりちゃん!ちょっと来て!」


「えっ!?な、なにかあったんですか!?」


「乙女が溢れるから!今すぐ休憩室に避難します!1回出させて!!」

 ※語彙力は崩壊した。


「えっ!?なにが!?誰が!?なにが起きたんですかるいかさん!!!?」


 困惑するゆりちゃんの腕を掴んで、そのまま引きずるように休憩室へ。


 バタン(ドア閉)


 ガチャッ(鍵かけ)


「聞いて!ねぇゆりちゃん聞いて!!あの指輪、予防線だったんだってぇぇぇええ!!!」

 (※ボリュームは最大)


「ええええええええええ!?!?」


 2人の叫びが響く休憩室。

 夜勤中とは思えないテンションだが、これは大事件である。


「え?じゃあ先生、結婚してないんですか!?マジで!?」


「マジだった!え、てか予防線ってなに!?そんなドラマみたいな設定ある!?まって私どうする!?この気持ちどこ置く!?」


「ええぇぇぇぇぇ……(困惑しながらもちょっと興奮)」


「え、私さ……さっきの話、記録してるふりしてめっちゃ聞き耳立ててたの。もうさ、内心で“お願い喋らないでお願いお願い”って念じてたらまさかの“いない”ってきたのね!?」


「ぎゃああああああ!!!」

 (深夜テンションが最高潮に達する)


 ——そして、5分後。


 2人は何事もなかったようにステーションへ戻る。

 るいかの心臓だけが、未だバクバクと跳ねていた。


(……これ、どうしよう)

(なんか、ちょっと、期待してもいいって思っちゃったよ……) その日の夜勤は、幸い何事もなく朝を迎えた。

 検温、記録、掃除……あとは、主治医の回診を待って、申し送りをすれば終了。


「今日もお疲れ様でした〜!」


 ゆりちゃんとハイタッチして、るいかはステーションから抜け出そうとした——その時。


「鹿野さん」


 不意に、落ち着いた声が背後からかかる。


 振り返ると、白衣のポケットに手を突っ込んだ如月先生が、少しだけ息を切らしながら立っていた。


「あ……先生?お疲れさまです。どうかしました?」


「今、病棟に患者さんの様子を見に来たんですけど……その、鹿野さんが夜勤だったって聞いたので、挨拶だけでもと思って」


「えっ……あ、そうなんですね。ご丁寧にありがとうございます……」


(ちょっと待って。なんでそんなイケボで朝のステーションに来るの?反則でしょ……!?)


「昨日は、ありがとうございました。夜間の対応、助かりました。あの患者さん、今朝は少し痛みも落ち着いているみたいで」


「いえ、仕事ですので……」


 口ではそう言いながらも、内心では全然落ち着いてない。


(来ないでよ……心の準備ないよ……昨日の“結婚してない”事件の余韻で、頭パンクしてるのに……)


 そして先生は、ふっと優しく笑った。


「それにしても、夜勤明けでこの笑顔は……すごいですね。鹿野さん、強いなぁ」


「……強くないですよ。むしろ、帰り道で溶けてます、私」


 るいかが苦笑いすると、先生は少し表情をやわらげた。


「じゃあ、気をつけて帰ってください。また夜勤のとき、お願いしますね」


「……はい、こちらこそ……」


 その背中を見送りながら、るいかは心の中で叫んでいた。


(だめでしょ!!!そんな笑顔で来ちゃ!!!また乙女が溢れちゃうでしょ!!!)

 

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