白い朝

esquina

1話完結

プロローグ


「アミール、あなたは多くの人が持っているものを持っていないの。

だけど、その代わりに——あなたは人が持っていないものを、たくさん持ってるのよ」

姉はそう言って、僕の涙をハンカチで優しく拭いてくれた。

姉は僕を慰めるつもりで、そう言ったんだ。

でも、それってーーー僕はずっとひとりぼっちってこと?




夕方六時半、僕はいつものように目を覚ます。ベッドを整えて着替えを済ませ、机の上のハンカチをポケットに入れる。それから、コーヒーを淹れにキッチンへ降りていく。キッチンのテーブルでは、祖母と祖父がいつものように言い争っている。

「何回言えば分かるの?戸棚を開けたら閉めてください」祖母のその言葉を聞くたび、僕は思う。何度言っても伝わらないなら、やり方を変えないとダメだって。いっそ戸棚を開けたままにしておけば、閉めるかもしれないよね。


 でも、そんなことは言わない。パンにチーズとハムを挟んで焼いている間、今日の仕事のことを考える。それからちょっぴりウンザリしながらそれを食べるんだ。ホテルの清掃の仕事は、僕には合っている。でも時々、まるで、奴隷になったみたいな気分になるんだ。そう言ったら、仲間がすごく嫌な顔をした。また、やっちゃったって思ったよ。そんな時は、ポケットを探るんだ。姉がくれた、このハンカチをちょっと握れば、大丈夫だって思える。誰にも言ったことはないけど、そうすれば僕は落ち着くんだ。


姉は隣町に嫁いで滅多に会えなくなってしまった。でも、何か相談があればいつでも会えるって言ってくれた。僕がずっとイジメを受けていた時も、必要な時に、姉はいつもそこにいてくれた。僕はアスペルガーで、人と心の構造が違うんだ。それで、みんなは、僕を怖がっていじめる。小学生の頃は毎日いじめられていた。

あの頃、よく姉が言っていた、僕に無くて僕にあるもの…これって、本当かな。僕に何があるのか分からないよ。だけど、みんなには、それが見えているんだろうね。


僕は姉がくれたハンカチを、あの日以来、毎日持ち歩いている。みんなにはただの習慣だよって言ってきたけど、この布は、アミール・ファルークが生きてきた証拠みたいなものだから。僕はパンを食べ終えた。時計は七時を指している。今夜も仕事へ向かう時間だ。

歯を磨いて、身支度をしたら七時半には家を出る。遅れないように、僕はいつも一時間早く家を出るようにしている。

途中、小さな森をゆっくり歩くのが日課だ。

歩くことって、いいことなんだよね…?

僕にも、そうだといいけど。


家を出て、森を歩きながら考えた。本当は毎日すごく疲れてる。そう言うと、祖母は気晴らしをしろって言うけど、友だちだって、滅多に会えないんだ。

「アミール、忙しいんだ。今度にしよう」

「忙しい」って言葉は、僕はもう聞き飽きたし、大嫌いだ。約束を守らない人は友だちじゃないって叫びたくなる。だけど、それはできない。その代わりに僕は、いつも枕に顔を埋めて叫ぶだけ。だって、僕が怒るとみんなが言うんだ "あいつは病院に入れたほうが良い" って。僕が大声を出せば異常で、君たちが怒鳴るのは当然なんだ。


ときどき想像するんだ。UFOが現れて、宇宙人が僕をさらって行く。

帰ってきたら、万能のエスパーになって、みんなに言うんだ。

こんなふうに、カッコよく肘を曲げて、片手を挙げてね。

僕は誰も傷つけないーーー!


人間は神様を見限った時に、宇宙人を発見したんじゃないかな。

僕も、神様を本気で信じているとは思えない。でも、それでも何かは信じたいんだ。

それから、日本へ行こう。

僕は、日本のアニメが大好きだから、将来は日本で漫画を描いて暮らしたい。


いつものように、そんなことを考えていたら、突然目の前に不思議な光が現れた。

まさかって思ったけど、本当なんだ。

白くて眩しくて大きな光だった。僕の目の前まできて、ふっと止まった。

僕は驚いて見ていたけど、慌てて携帯の動画ボタンを押した。

でも、反応しなかった。どこをどう押してもダメで、僕の頭の中も、停止ボタンが押されたみたいだった。

それで顔を上げたら、ひとつだった光が三つに分かれて、ものすごいスピードでクルクル回り始めたんだ。

僕は、目を回しながら、ただ痺れたみたいにそれを見ていた。

体も頭も動かなくて、足がブルブル震えてた。

すると光は、またひとつになった。

その瞬間、僕が彼らを見ているのと同じように、彼らも僕を見ているのがはっきりと分かった。

光はどんどん大きくなって、急に僕に突進してきた。

やめて!そう言う暇もなく、彼らは、一瞬で僕を通り抜けた。

きっと僕はバカみたいな顔をしていたと思う。

驚いて辺りを見回したけど、光はもうどこにもいなくて、見たもの全部が嘘みたいだった。

僕は、どんどん早足になって、森を抜けて、気がついたら、家の前だった。


職場には、ただ、頭が痛いから休みますって嘘をついた。僕は嘘が嫌いだから、本当に頭が痛くなって、ベッドに横になった。それからさっきのことを思い出しているうちにこんな考えが浮かんできた。もしかしたら、明日になったら、僕は別人かもしれない。全てが変わっているかもしれないって。そう思いながら、いつの間にか、僕は眠ってしまっていた。


目が覚めて驚いたのは、洋服のまま寝ていたことだった。

そんなこと、生まれて初めてだった。僕はひとりで笑ってしまった。

カーテンを開けると、朝日がまぶしかった。久しぶりに見る太陽だった。

僕はなぜかワクワクしてきた。昨日の僕とは、何かが違うような気がした。

あの光を忘れないうちに、絵に描いておこう。

姉に見せよう。姉ならきっと信じてくれる。

そう思ったその瞬間だった。

ふいに、胸騒ぎがした。

僕は、ポケットを探った。

暖かい布の感触を求めて、何度も何度も手を差し入れた。


──無い。


「ハンカチが……ない」


耳がキーンと鳴った。頭がぐらりと揺れて、吐き気がした。

いつから無かった?あの光に触れたときだ。間違いない。

あれが、僕のハンカチを持っていったんだ。

僕は泣いていた。気づいたときには、涙がぽろぽろと落ちていた。

顔をくしゃくしゃにして、部屋中を探した。でも、どこにもなかった。

そのまま走って森へ向かった。

昨夜、光を見た場所を何度も探した。

犬みたいに四つん這いになって、蜘蛛の巣だらけの茂みの中にも潜ってみた。

僕が一番怖いもの、蜘蛛がいた。だけど今は平気だ。邪魔だ、退いて!

でも、どこにもなかった。

 

僕はどうなってしまうんだろう?

あのハンカチ無しで、これから、どうしたらいい?

どうやって仕事を続けたらいい?お客さんが怒鳴ったり、友だちが約束をすっぽかしたり、電車がものすごく遅れたりした時に、あのハンカチなしで、どうしたらいいんだ?


僕はもうUFOなんてどうでも良かった。僕にはハンカチの方が大事だって気がついた。"変わりたい" なんて考えた罰なんだ。

だから彼らは僕から "僕" を盗んだ。

僕の心は、白い悲しみに包まれて、世界も真っ白に見える。

ゆらゆらと森を抜けながら、僕はすっかり変わってしまった世界を眺めた。

こんなに眩しくて、どうしたら、僕を見つけられるのかな…そう思いながらね。

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