春の訪れとともに

冬が終わるころ、蒼影学園の空気は少しずつやわらかくなっていった。

校門近くの木々には、小さな蕾が膨らみ始めている。

春はもう、すぐそこまで来ていた。


教室の窓辺に座るインクは、遠くの空をぼんやりと見つめていた。

頬杖をつく姿は一見いつも通りだが、その胸にはまだ、あの夜の痛みが残っている。


あのクリスマスの夜から、ミリアムとはまともに話せていなかった。

何度も話しかけようとしたが、言葉が喉で詰まった。

彼女の表情を見るたびに、あの涙と赤く染まった頬が蘇ってしまう。


それでも時間は進む。新学期が近づき、季節は変わっていく。

変わらないのは、ミリアムと交わす視線の距離――

まるで、春風に逆らうかのような、ぎこちない沈黙だった。


ある日の放課後、教室には誰もいなかった。

インクが最後に残ってノートを閉じようとしたとき、扉が静かに開いた。


そこにいたのは、ミリアムだった。


「……先輩」


その声は、どこか震えていた。けれど、確かに前を向いていた。


「ミリアム……」


名を呼ぶ声が、少しだけ掠れる。

互いに言いたいことは山ほどあった。

けれど、まず何から話せばいいのかわからなかった。


沈黙が数秒、あるいは永遠のように続いたあと、ミリアムがゆっくりと歩み寄る。


「……私、ずっと考えてました。あのとき、どうしてあんなに怒ったのか。どうして泣いたのか」


視線は机の上、でも声は真っ直ぐだった。


「たぶん、私、自分が信じられなかったんです。あなたを信じてるって言いながら、どこかでずっと不安だった。私なんかじゃ、って」


インクは何も言わず、ただ聞いていた。


「でも、本当は……そんな自分がいちばん嫌だった。だから、あなたの言葉をちゃんと受け取れなかったの。ごめんなさい」


言葉の最後に、ミリアムは頭を下げた。


静かな教室に、春の風がすっと吹き抜ける。

インクは立ち上がり、そっと彼女の前に立った。


「俺も、謝らなきゃいけない」


その言葉に、ミリアムの肩がわずかに震える。


「感情に任せて、お前を傷つけた。言い訳のしようもない。最低だった。……本当に、ごめん」


まっすぐな声だった。震えていたのは、むしろインクのほうだった。


ミリアムは、ゆっくりと顔を上げた。


「もう、あの日のことは忘れません。でも……今、こうして話せて、少し安心してます」


インクは頷く。


「また、少しずつでもいい。話せるようになっていけたら、それでいいって思ってる」


二人の間に流れる空気が、少しだけあたたかくなる。


「それに、春だしな」


「春?」


「うん。春は――再会とか、新しいスタートとか、そんな季節だろ?」


ミリアムは、ほんの少しだけ笑った。

冬のあいだ、ずっと閉じていた心が、ふわりとほどけた気がした。


「じゃあ……また、お願いします。先輩」


「こちらこそ、よろしくな」


まだ完全に元通りじゃない。でも、それでいい。

小さな芽が、ゆっくりと育つように。

二人はまた、歩き始めた。


教室の窓の外――木々の枝に、小さな桜のつぼみが揺れていた。


次回予告

第17話「風に舞う言葉たち」


再び交わされた言葉。

重ねられる時間。

けれど、過去は簡単には消えない。


それでも、前へ進もうとする二人の歩みが、新たな出来事を呼び寄せる。


春風が運ぶのは、希望か、それとも――


どうぞ、次回もお楽しみに。

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